日本祭政公私共和国憲法制定

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806名無しさん@3周年
カノッサの屈辱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

(ちなみに同じ事件は英語では"Walk to Canossa"、ドイツ語では"Gang nach Canossa"といわれており、どちらも「カノッサへの道」「カノッサへのあゆみ」といった意味である。
これが日本語で「カノッサの屈辱」と訳されていることは中立というよりハインリヒ4世寄りの訳し方であるといえるかもしれない。)

ハインリヒ4世は北イタリアにおける影響力を増すべく自分の子飼いの司祭たちをミラノ大司教、フェルモやスポレトの司教などに次々と任命していった。
教皇は司教の任命権(叙任権)は王でなく教会にあることを通達し、対立司教の擁立中止を求めたがハインリヒは聞き入れなかった。
(これを叙任権闘争という。)
グレゴリウス7世が王の破門と皇帝権の剥奪をほのめかしたため、ハインリヒ4世側が激怒。
1076年1月に独自の教会会議を開いて教皇の廃位を宣言した。
ここに至って教皇も1076年2月にハインリヒ4世の破門と王位の剥奪を宣言した。

かねてからハインリヒ4世への敵対意識の強かったザクセン公はじめ、ドイツの諸侯たちはこれを機会にとばかりハインリヒ4世に対する叛旗を翻し、1077年2月にアウグスブルクにおいて会議を開いて新しいドイツ王を決めることを決定。
権威の付与者にして仲裁者として教皇を会議へ招聘した。
諸侯はハインリヒ4世が教皇に謝罪を行わなければ後継王が決まらずとも王位を空位とみなすことも決議した。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%8E%E3%83%83%E3%82%B5%E3%81%AE%E5%B1%88%E8%BE%B1