坐禅と見性第10章☆火に触れて焼けず☆

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56第三十則 即心即仏
和尚は僧に「仏とは何ですか」と問われて、「心がそのまま仏である」と答えた。
無門和尚の解説:
もし直ちにこの和尚の言ったことが判ったなら、法衣を付け、仏の食事をし、仏の教えを説き、仏の行いを行う。
これすなわち仏である。
とはいっても、この和尚は多くの人を引き寄せて仏法の基準を誤らせてしまった。
仏という一字を口にしただけで三日間も口を漱ぐ人がいることを知っているのだろうか。
一人前の男なら、心がそのまま仏であるなどと聞けば耳を塞いで逃げてゆくだろう。
前則で示したように人間の意識を心と捉えれば、全ての事柄は心で意識されねばならず、心で意識されないものはその個人にとって存在せず、従って心がなければ仏も存在しません。
何かを理解するということは精神活動としての心の動きなしにはあり得ません。
その意味では仏も鬼も全て心です。心はそのまま仏にもなり得るし鬼にもなります。
真剣に禅に取り組んでおられる人達は、そのまま仏となる心が持ち得たなどということは決して考えられない究極の目標であり、仮にもそのようなことを言うことはないでしょう。
それは本質を捉えようとする心の最終的な目標としてのみ存在します。