坐禅と見性第10章☆火に触れて焼けず☆

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41第十八則 洞山三斤
僧が聞いた。
「仏とは何か」和尚が答えた。「麻三斤」
無門和尚の解説:この和尚は蛤の禅を体得し、殻を開いて胎の底まで見せている。
では言ってみよ。
この和尚の提示したものは何なのか。
に詠って言う。
善悪の価値判断をする人は善悪の二元の価値しかない人だ。
仏とは何か、達磨がはるばるやってきた理由は何か、などという本質を問う質問に対し、禅の和尚達は様々に応えています。
糞掻きべらだ、と言ったり、いきなり顔をなぐった和尚もあります。
この無門関の中にも類似の一見奇妙な答がいくつか現れます。
解説書でも、必ずしも麻三斤でなくともよいとする解釈がほとんどです。
これを正しいとか否定するとか考えるものは自分自身が是非の判断のレベルに留まっているものだという無門和尚の解説は、麻三斤をとやかく言うものはだめだ、とも解釈されています。
しかし、私は敢えてその意味を解釈してみます。
これは、麻三斤というものをここにもたらしている全てのもの、全ての関連を示している、と解釈したいです。
種が生まれ、土壌に根をはって育ち、麻が実り、取り入れられて、そして計られて三斤というものになりますその全ての過程、事象の中に仏が宿ります。