坐禅と見性第10章☆火に触れて焼けず☆

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38無門関
第十六則 鐘声七条
和尚が言った。「この世は広く限りなく大きい。
それなのにどうして合図の鐘が鳴ったら袈裟を付けて出頭せねばならないのか」。
無門和尚の解説:禅を学ぶということは耳で聞いたり眼で見たりしたものに従うことを嫌うものだ。
何かを聞いて悟ったとか、何かを見て分かったといってもそれは普通のことである。
禅の僧は聞いたこと、見たことを越えてその上にある働きを見なければいけない。
では考えてみよ。音が耳に達するのか、耳が音を聞くのか。
たとえ音も静寂も共に超えた忘我の立場になったとしても、それをどう説明すればよいか。
耳で聞くというのではまだ判らないであろう。眼で聞いてこそ始めて観ることが出来るのだ。
無門和尚の解説の意味は、音も色も忘却するという心境になったとしても、音や色を自在に使いこなせなければいけない、ということでしょう。
すなわち、見えるもの、聞こえるものにどう対処するかは個人の自由です。
では何故禅の修行をする者が、禅堂の厳しいしきたりやきまりに従わねばならないのでしょうか。
きまりとか規定は何のためにあるでしょう。