これ、パモちゃんのホムペから抜粋ね
私が何べんかここに書いていること、どうしてもオウムの本しか読まない
人たちに理解がいってもらえないようなんだけど。
本当に、中途半端に仏教を学んで、修行もしないでね、いい加減なことを
言う人が多いよね。
よくあるイチャモン・ベストスリーとしては(笑)、
@仏教は超能力を説かない
A仏教は輪廻転生を説かない
B仏教は苦行を否定する
ね。まあ、苦行についてはこの前書いたけどね、お釈迦様が否定したのは、
意味なく肉体を苦しめる行であって、『厳しい修行』という意味での苦行は、
お釈迦様は奨励しているわけだね。輪廻転生はお釈迦様の教えの中心教義だしね。
超能力の話は、
普通に、こういうことがありましたって感じでバンバン出てくるんだ。
それはしっかりね、原始仏典を、しっかりたくさん読んでほしいですね。
ほんとにさ、『〜はない』って言うほうは簡単なんだよな(笑)。適当に
言ってりゃ
いいんだから。全部仏典読んだのかよ、って感じだよな(笑)。
........
私は超能力がない、とも輪廻がない、ともいってない。
それらはあるように見えるが、実は幻影とみるべきといってるわけ。
どういうことかというと、仏教では、ここに肉体がある、というのを実在とは見ないよね。
ここに肉体がある、しかしこれは、因縁によって生じたものであって、原因がなくなれば結果も
滅してしまう、という性質のものだよね。で、人間はこの肉体を自分であると思って後生大事に
するが、修行者はそれを”一時的に存在しているだけの実体のないものである”と見るし、また
そう見るように訓練する。
輪廻も超能力も同じ。個々のカルマが切れない限り、輪廻の世界をうろつくわけだが、
例えば、その人が教えに出会って解放されることがあれば、その人にとって、その輪廻は
消えるわけだよね。例えば、人間として生まれるカルマを切れば、その人はもう人間転生しない。
それは上記と同じ、因縁を切ったから、結果を変化させることができたということ。
で、ある条件であればこう、というような変化する、流動的なものを”実在する”とは
仏教徒は見ないわけ。実在するように見えるもの、という見方をするし、そうでなければいけないと
思う。これが一般的に教えられていることと、オウムで言っていることの間にある差なのさ。
それが空ってやつだろ? 空を説くのに、なんで”あるある”いえるのさ。
教組のセリフを借りれば、輪廻はある、しかし超えてしまえば輪廻は幻
そういうことをいったつもりだ。
”実在とはなにか”と考える時、ある一定期間は存在しているけど、別のときには存在がなくなるような
もの、条件によって変化してしまうものを無常であり、実在しないと仏教ではとく。
人の心も変ってしまう無常のもの、輪廻もまたしかりという意味で輪廻に実在性がないと
いったわけ。これは、私も勉強不足なんだが、こういうことについて詳しく述べている経典も
あるはずだよ、。読もうと思って読んでないんだけど、ナーガールジュナの空論?とか
釈迦の説法でもあったはず。
それで、超能力にこだわるのに疑問を感じているんだ、それも一種のとらわれになると
思うから。あるって、考えたらとらわれじゃないか、私には親があるとか家族があるとか
で、とらわれるから実在性のないものも実在するように見えてしまう。そしてその考えを
輪廻の有無にまで広げていくんだ。そこに、たぶん悟りがあると思う。苦悩もあるある考えるから
終わらない、ならば輪廻もあるあるいっているうちは終わらないんじゃないか。
よその書物にある大事なことで、オウムにないことってあると思うよ。
ここで、日本仏教協会?かなんかが、輪廻はないという見解を発表したとかで
なんて野蛮な真理に触れられない人たちなんだと思ったんだけど
ある程度本とか読んで納得がいった
地獄はある、人間もいる、天もある、でもそれをあるとは見ない
(ちょっと勉強不足で断言できないんだけど)
実在でないものを実在すると見るのが、ゴビュウ見解なんだ
永遠に変化しない、金剛の実在を知るために、実在するようにみえる
まやかしを捨てていく。最後に自分も輪廻も実在しないものと見ていくように
する段階があると思う。そこに存在も非存在も超えた空があるんじゃないかしらん
あるでもない、ないでもない、それを超えたものね いわく知覚しがたし