二つ目は、秀吉の女道楽である。
「病気じゃないか」と思うくらいの女好きで、当時から鳴り響いていた。
伊達政宗が服属したとき、人質として彼の正室で、美人の誉れ高かった愛姫(めごひめ)を出せと言われ、政宗の家臣たちが、「絶対、手を付けられる。」と大反対した。
気に入った女性が武将の妻だった場合、夫を戦場等に派遣し、留守中に彼女を召してものにするという悪癖もあった。
細川忠興の妻玉子(後のガラシャ)も同様にして召されたことがあった。
彼女は、秀吉の前で「細川でございます。」と平伏した時、わざと懐中から短刀を落として見せたという。
これは、「私に手を出したら殺してやる。」ではない。
夫の主君にそれはできない。
「私に手を出せば死にます。」という意志表示であった。
これにはさすがの秀吉も、手が出せなかったと伝えられている。
こんなエピソードもある。
秀吉があまりに美女を好むので、近習たちがおもしろがって、評判の美少年を秀吉の小姓にとりたて、秀吉と二人きりにした。
当時は戦国大名のほとんどがバイセクシャル(男も女もあり)であった。
やがて、秀吉と何事か言葉を交わしていたその美少年が退出してきた。
さっそく近習たちは「何を申されたのか?」と美少年に問うた。
返事は・・・。
「私に姉か妹がおらぬかと仰せになりました。」
(2003.2.24)
http://www.geocities.jp/michio_nozawa/episode57.html 細川忠興夫人・ガラシャ夫人
細川忠興の夫人、ガラシャ夫人も秀吉が狙った美女の一人。
忠興は妻が秀吉の目に触れることを極度に警戒し、戦場からガラシャ夫人に手紙で注意を促しているほど。
ガラシャ夫人もこれに応えて、秀吉と謁見した時、わざと 短刀を落として見せている。
死ぬ覚悟を秀吉に示していた。
関ヶ原の戦いの時、石田三成の人質になる事を拒んで潔く自害した。
http://s-mizoe.hp.infoseek.co.jp/m111.html