α〓神の母マリアに関する正統教理を議論する〓ω

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594名無しさん@3周年
>>593
暴かれた俺さんの邪説7か条

>@マリヤ崇敬は、神に背く偶像礼拝です。出エジプト記20章4節
――
マリアは死んだ異教の偶像ではない。天国におられる今生きているクリスチ
ャンの聖人であられる。

残念ながら、出エジプト記のその箇所は当てはまらない。クリスチャンは新
約の律法=キリストのみ言葉を守る。旧約は足かせ、奴隷のくびきであると
聖パウロは証ししている。(ガラ4、5章)

十戒は、古い過ぎ越しとともに、エジプトの奴隷から解放された、古代イス
ラエルの民に与えられたものであり、新約の新しいイスラエル=クリスチャ
ンには、新しい過ぎ越し=十字架と新しい律法が与えられた。その律法は、
石の板に文字で書かれたものではない。御霊によって心の板に書かれるも
のです(二コリント3:3−8)。
古い十戒を守れと言うのなら、あなた自身がSDAか、メシアニックジュー、
イエスの御霊教会、スエデンボリ派になり、ユダヤ人の安息日も守りなさい。
写真を取っても見てもいけない。テレビやネットで映像を見ることも罪です。
子供の人形をみな焼き滅ぼしなさい。しかし、そんなことをしなくても、
キリストの戒めを守る人は真の十戒を守っているのです。
595名無しさん@3周年:04/10/11 21:30:36 ID:mRXFoSdo
>>593
暴かれた俺さんの邪説7か条
>A偶像礼拝をすると悪霊と交わる事になります。第1コリント10章20
――
そのとおりです。偶像とは、もの言わぬ異教の死んだ像―物―です。マリア
は活ける天上の聖人。告知する善霊であって、「物」ではない。マリアを敬う
人は善霊と交わるのです。クレドにある「諸聖人の交わり」とはそのことです。
地上からあがなわれた天上の聖人をさして、諸聖人と言うのです。
ヨハネは幻に御使いが出現したときに、崇拝しようとしました。御使いは神
を崇拝しなさいと言いました。御出現のマリアも、偽物でない限り、同じこ
とを言われます。崇拝と崇敬は違います。

イエスをもってすべてが新しくされたことをいいかげん悟りなさい。旧約で
は天国の観念も地獄の観念もあいまいだった。イエス・キリストの救いが世
にもたらされていなかったからです。キリストの救いがもたらされて以後、
天国、地獄の観念が明確になりました。義人はみな天国に復活させられたか
らです。天国に入らないものは「外の闇」にいます。あなたの心に御霊が介
入すれば、あなたは諸聖人との交わりに心開かれる。マリアの存在が身近に
感じられてきて、敬わざるを得なくなります。自然にそうなる。文字遊びを
やめて、御霊に生きなさい。

>B人は、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められ救われ
>るのであり、マリヤ崇敬によって救われるものではありません。ガラ2:16
――
当たり前のことをいわんでください。お救いになるのはキリストです。救わ
れた人は、エリサベツやシメオンのように、救い主をお与えくさったマリア
様をたたえます。ルカ1:42‐45、2:34‐5.自然なことです。
596名無しさん@3周年:04/10/11 21:31:16 ID:mRXFoSdo
>>593
暴かれた俺さんの邪説7か条
>C神と人との間の仲介者は唯一、人としてのキリスト・イエスであり、
>マリヤは仲介者では有り得ません。第1テモテ2章5節
――
キリストは、キリストを受け入れた人のための、人と神との唯一の仲介者
です。同時に、われわれが人のために祈ることを「とりなし、仲介」と言い
ます。聖人ならずとも、クリスチャンなら誰でもしていることです。
イエスは敵のために祈りなさいと言いませんでしたか。使徒は罪に落ちた
兄弟のために祈りませんでしたか。聖人の筆頭であられるマリアは、自分で
祈りさえできない罪人のために、昼夜、仲介の祈りを、地上のクリスチャン
と心を合わせてしているのです。

>Dイエスは霊においては父なる神と等しく、肉においては人と同じです。
>主イエスが人として生まれたのはマリヤからですが、神と同質の神の御子
>として生まれたのは造られたすべてのものより先であり、マリヤは神の母
>では有り得ません。コロサイ1章15節
――
イエスは霊だけで天国におられるのではなく、マリアがおうみになった肉を
もって天国におられる。十字架に付けられ釘打たれたそのおん体をもって再
臨なさると預言されている。霊肉合わせもつキリストをわれわれは神と呼ぶ。
「イエスの肉は人と同じ」など、とんでもない異端的解釈です。肉の母であ
るマリアは、まさしく神の御母です。
597名無しさん@3周年:04/10/11 21:31:47 ID:mRXFoSdo
>>593
暴かれた俺さんの邪説7か条
>E聖書のどこにも(外典にさえ)「マリヤ崇敬をせよ」とは書かれていま
>せん。黙示録22章18節
――
崇敬は当たり前だから書いてないだけです。ユダヤ人ばかりか、イエスも使
徒も、アブラハムを初めとする父祖を敬っていました。説教に頻繁に父祖が
出てくるのはその証拠です。聖人を敬うのは当たり前です。

>Fカトリック教徒が聖伝と呼ぶものは、正典に匹敵するものではなく、
>信仰基準とは成り得ません。内容が正典に反するものなど論外です。
>マルコ7章8節
――
4世紀末に聖伝から正典が編纂されたことさえ知らないのですか。一世紀か
らそのときまで無数の資料がありました。「正典」と今いわれているものが、
聖伝に矛盾していれば、「正典」として編纂されることはなかった。カトリ
ックにはプロの66巻に対して72巻正典がある。ルターも読んでいました。
正典が聖伝に矛盾しない様に、聖伝も正典に矛盾しない。正典に矛盾するも
のは聖伝とは呼ばれません。要するに、正典は聖伝の1部ということです。
「正典」成立の過程を勉強なさい。基本認識からして間違っています。