感情自己責任論

このエントリーをはてなブックマークに追加
1観念は具現化する ◆lnkYxlAbaw
感情の原因は、それを感じる人の持つ固定観念です
ここでいう固定観念とは、固着観念、判断基準、既成概念、視点・観点、定義付け・意味付け、物の見方・考え方・解釈の仕方、思考パターン、思想・哲学、イデオロギー、主義主張、思い込みなど、無意識的にせよその人が「これは正しい」と信じている世界観のことです

例えば貴方がある情報に接してどれほど憤りを覚えたとしても、それはあくまでも貴方の価値基準に照らして貴方自身が(無意識的にせよ)選んだ解釈の結果であって、その情報の発信者には「貴方の憤りに対する原因(責任)」は一切ありません
如何なる情報も元を辿ればただの光の濃淡や空気振動に過ぎません。貴方がたった今目にしているこの文面も、実態は単なる「画面に映った黒白模様」です。貴方が自分自身のフィルタ(色眼鏡)を通して主観で意味を判断しています
情報を如何に解釈し活用するかは受け手の勝手自由です。受け手の自由意志で選択している以上、その結果に対する責任は受け手自身にあります。つまり人は(少なくともネット上では)自分の感情を他人のせいにはできないということです

逆に言えば仮に貴方が誰かを怒らせたとしても、その人が勝手に自身の価値観で怒りを覚えているのですから、貴方がそれについて後悔や罪悪感や自己嫌悪(自責の念)を感じる必要は全くありません
これを「積極的に怒らせていい」「迷惑を掛けても謝る必要はない」などと解釈するのも自由ですが、その結果も勿論貴方の自己責任です
宗教に詳しい方ならご存じの通り、この宇宙は「貴方が与えたものを貴方が受け取る」仕組みになっています。もし貴方が誰かに不自由を負わせようと(例えば自分の理想を押しつけようと)すれば、貴方自身が不自由(苛立ちなど)を感じることになります

感情に限らず人生で体験する全ては「体験者がどんな固定観念を持っているか」を映し出している”鏡”に過ぎません。なので感情的な批判や非難は全て自己矛盾します
例えば極悪非道な犯罪者に対して「あんな思いやりのない人間がいるなんて信じられない」などと責める人ほど、その人を思いやれていないように
宗教に携わる人が陥りやすい矛盾した固定観念は「真実は一つ」。本当は真実は「人の数だけ」あります。「真実は一つ」は、「数ある真実の一つ」に過ぎません。それに気付かない人はいつまでも争いを体験する羽目になります