坐禅と、動中の禅と、公案と 【禅の実践として】

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182ハルカ ◆0tZOcyVq86
>>180
お前さん、自称『覚者』か?
まぁ、そうでも違ってもドッチでもいいけど。

>なぜという問いかけがいいのかわかりませんが、なぜ正念相続の状態になると
>心は伸び伸びとなるのでしょうか? ここのところの説明の繋がりがわかりません
んー…
『正念相続』に無い時(【今此処】にいない時)は【心】は『あちこちに吹っ飛んでいる』んだ。
例えば『抱いている価値観』に、『自分の記憶』に、『外的な刺激』に、意識が吹っ飛んでいる訳。
だから【今】を取り逃がす。
この時【意識】は『吹っ飛んだ先の【対象物】』と【今此処】を比較して【二元】という『枠組み』を作る。
『善/悪』『好/嫌』なんかのね。
それを無意識に瞬間的に無数に重ねていって、その『枠』を小さく強固にしていく。
最終的には、その『枠』の中で固まって【今】と【対象物】の間だけしか往復出来なくなる。
確かに『吹っ飛んではいる』んだけど、敷設されたレールの上でしか『吹っ飛ばなくなる』んだ。
これが俗に言う『【我執】に囚われた』状態。
『吹っ飛ぶからこそ【心】は固まる』んだよ。

逆に『正念相続』の時(【今此処】にある時)は【心】は動かない。
たとえ何があろうと何をしてようと【心】は【今】から動かない。
そうすると【二元】も作らない(作れない)から『枠』もない。
『枠』が無いから【我執】も無い。
【心】は真実に自由であって、自在に動き回れる。
『静止しているからこそ【心】は自由に動く』んだよ。
(この時、自分で自由に『枠』を作る事も出来る。作らねば世間で生きていけないから)