α〓〓〓マリア崇拝の害について〓〓〓ω

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210おたあ ◆wHb3.gs/E2
●1929年世界大恐慌、ヴァティカンの帰還命令を受けヒンデンブルク大統領の用意した国賓用馬車に
乗って歓呼の群集に祝福を何度も与えつつ12年もの間働いたドイツを後にした

●1929年ローマに帰還したパチェリはクリスマスに枢機卿となり翌2月国務長官に就任という前例の
無い昇進を果たし、病気がちなピウス11世に依存され事実上カトリック教会統括の全権を委ねられる事になる

●2月11日イタリア政府との対立に終止符を打つべく首相ムッソリーニとラテラノ条約締結、この条約を
準備したのはパチェリの兄フランチェスコと当時の国務長官ピエトロ・ガスパリ枢機卿だった。
ローマ教皇庁は独立主権国家としての地位を確立、教皇はヴァティカン市国の国家元首としてイタリア政府
・国家から独立、イタリア政府はカトリック教会を国家宗教として公認、イタリア統一運動により失われた
教皇領の代償を支払う事が協定される。代わりに千年間教皇領の首都であったローマをイタリア王国首都
として認知、中世以来の教皇領を正式に放棄した。ムッソリーニのファシスト体制にとっては国民の大多数を
占めるカトリック教徒の支持を得る目的があった。これにより1870年以来のイタリア国家とヴァティカンの
対立は解消、一方でこの条約には聖職者や修道者が政治活動をする事を禁じた条項も在る(第43条)
イタリアで大きな勢力であったカトリック民主党は解散、ムッソリーニはカトリック側からのファシスト体制批判を
排除しようとした

●ラテラノ条約により教皇庁とカトリック教界の支持を得たムッソリーニは権力の頂点に立ち、
この事はナチ党にもカトリック教会がファシズムを支持しているように思わせ、教皇庁との
コンコルダート締結への決意をヒトラーに促す事となる。ナチ党は国家の共産化を恐れる資本家や
ユンカーから援助が集まりヒンデンブルク大統領の下にはヒトラーによる組閣を要求する声が届く

●1932年ナチスは第一党となり1933年1月ヒトラーは政権を獲得する。ドイツに強力な政権が
生まれる事を望んでいたパチェリはこの機会に中央党のカースを仲介してナチスに接近
                            ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
211おたあ ◆wHb3.gs/E2 :04/07/19 10:50 ID:sMeDlH7g
●ヒトラー政権は共産党を弾圧、3月総選挙でも81議席を獲得した共産党は議会に出席する事が
できなかった。中央党党首カースは、ナチ政府が教皇庁とコンコルダートを結ぶ交渉をすすめ、
教会の権威を尊重する事を条件に全権委任法に賛成する意向を示す
●ドイツの司教団はナチス思想が教会の教えと相容れないとして教皇庁とナチ政府とのコンコルダート締結に
反対するが、ピウス11世とパチェリが共産主義への徹底抗戦を宣言するヒトラーを評価、また信徒等も窮乏生活の中
失業対策を掲げ政権を握ったヒトラーに期待を寄せる。両者の間に挟まれた司教らの反ナチ的立場は
次第に孤立化していく

●1933年3月23日全権委任法案は社会民主党の反対に関わらず中央等が賛成に回ったため圧倒的多数で可決、
4月1日ユダヤ人ボイコット運動が全国規模で強行され1938年11月「水晶の夜」事件までに千件以上のユダヤ人規制が
出された。
ミュンヘンのファウルハーバー大司教はパチェリにユダヤ人ボイコット運動に対する講義の支援を教皇庁に
書簡で求めローマにも出向くが、パチエリも教皇もナチスをボリシェヴィズムに対する唯一の救いとみて
ヒトラーに対しては賞賛する態度が窺われるとバイエルン司教に書簡を送っている。ヒトラーに傾倒する
教皇庁と信徒らに挟まれる司教らは次第に沈黙、同調していく
212おたあ ◆wHb3.gs/E2 :04/07/19 10:52 ID:sMeDlH7g
●1933年4月10日、ヒトラー内閣服首相パーペンとパチェリの間で政教条約をめぐる交渉が秘密裏に行われる。
その間もナチスによる信徒活動への妨害がやまず、ピウス11世は怒りを表明し対応に当たることを要求した
●中央党党首カースはローマに行ったきり戻らない彼を糾弾、彼が地位を放棄すると以前世界恐慌の際
2年間に渡り切り盛りを続けたハインリヒ・グリューニングが後任となった。ナチスへの抵抗と政党の存続、
ユダヤ人攻撃などの無法行為の禁止を求めナチスとヴァティカンのコンコルダート締結阻止に奔走したが、
党員のナチ党転向、司教団の沈黙、教皇庁のナチスへの傾倒という情勢に負け遂に中央党は解散、
グリューニンクは各地を転々とし1934年スイスに逃亡する

●1933年7月10日、パチェリとパーペンはヴァティカン国務長官室でコンコルダートに署名する。教皇庁側の
目的:ドイツ人口40%近い信徒を持つカトリック教会の自由と権利の保障、共産主義の脅威から教会を守る、
中央集権的ドイツ教会の統治体制確立、ドイツの宗教教育にかかる費用の国家負担と教会による監督権確保、
ナチ政府側:成立間も無いナチ党が国際社会の中で最初に公認する主権国家を獲得する、最後の民主政党である
中央党を解散させる、ヒトラーの行動にカトリック信者を従わせる事ができる●だが一方、道徳的に同調したのだ
というヒトラーの言葉にパチェリは激しく反論する。教会に対する攻撃は一行に止む気配も無く、コンコルダートは
1933年9月批准される事になっていたが、改宗したユダヤ人キリスト教徒への穏当な扱いをするよう求める要求が
内政干渉だと一蹴され、相次ぐナチスの条約無視した行為とそれを非難する司教団からの抗議に狼狽したパチェリは
精神的重圧から体調を崩し、批准の前日にスイスに逃避してしまう

>こんなチキンが神の代理人ねぇ・・・
213おたあ ◆wHb3.gs/E2 :04/07/19 10:59 ID:sMeDlH7g
・・・略・・・

●1334年夏レーム派粛清時にはカトリック系指導者も殺害されるが教皇庁からの公的抗議はされない

・・・略・・・

●1936年夏にベルリンオリンピックを大成功に終わらせたヒトラーとミュンヘン大司教
ファウルハーバーが二者懇談を行う。ファウルハーバーはコンコルダートに違反する
ナチスの教会への弾圧を訴えるがヒトラーは個々の不祥事であると軽く受け流しドイツ国家と
教会は共に共産主義の脅威との戦いに憂慮せねばならないと語る
●ドイツ司教団は1月中旬「条約違反に関する17条要綱」をまとめローマ教皇庁に直訴した。
重病の床にあるピウス11世は彼らを呼び寄せ長時間話し合う。回勅「燃える憂慮を持って」を
ラテン語でなくドイツ語で準備、英仏伊にも訳しドイツ各地で秘密裏に印刷、各地の教会に配布された。
教皇と違いナチスの攻撃を恐れたパチェリはイタリア外相チアーノにナチ政権の態度が硬化しないよう
仲介を依頼するがナチ外務省は回勅をドイツ政府への挑戦と見做しヒトラーは5月1日演説で教会や
宗教教育等に対する国の援助を一切停止すると脅迫。
またシカゴ大司教が今までの教会人には無い激しさでナチスとヒトラーを批判、これに対し宣伝相
ゲッベルスは大衆を前に教会批判を行う。パチェリはナチ政府を宥めようと奔走するが教皇は7月訪れた
シカゴ大司教を歓迎し賞賛する。しかし回勅はナチスによる没収・関係した印刷所や出版者は閉鎖され
それ程広まらない。またヒトラーはこれから併合するカトリックの国オーストリアを併合しポーランドなど
東欧のカトリック教国を支配下に置こうとしており、ヨーロッパ全体に大きな組織を持つカトリック教会と
真っ向から対立しようとは考えていなかった

●1938年3月オーストリア併合、ヒトラーがその直後に訪問した際ピウス11世は会おうとせずナチス側は
侮辱としハンガリーのブタペストで開催された世界聖体大会にドイツ信徒の参加を禁じ、集会についての
報道も禁じた。パチェリは大会を司式し、当時ナチスへ傾倒し反ユダヤ主義のB・イムレディ首相下、
反ユダヤ・親ナチ的雰囲気の中で反ユダヤ的説教と演説をし、共感を持って受け容れられた
214おたあ ◆wHb3.gs/E2 :04/07/19 11:00 ID:sMeDlH7g
●一方でピウス11世は一貫して反ユダヤ主義を糾弾、1938年9月ベルギー巡礼団に対する説教
キリスト教徒は反ユダヤ主義に加担することはできない。なぜなら私達は精神的な意味でセム系
(キリスト教がユダヤ教を母胎として生まれたことを指す)だからである

1938年9月ムッソリーニ政府はナチスに倣い反ユダヤ立法制定、イタリアの外国籍ユダヤ人は国外追放、
10月ドイツのポーランド系ユダヤ人がポーランドへ追放、だがポーランドへの入国も拒否され国境で立ち往生。
パリでポーランド系ユダヤ人少年のドイツ人外交官ラート殺害に対し「水晶の夜」の迫害が行われる

●ピウス11世はアメリカで黒人差別と闘っているジョン・ラファージュらイエズス会士にナチスの
反ユダヤ主義非難の回勅作成を命じるが文案はパチェリとイエズス会議長レドウホフスキーにより
差し止められる。1939年教皇は教皇庁に滞在する諸国の大使にユダヤ人に対しビザ発給を呼びかけイギリス首相ネヴィル・チェンバレンが訪問した際もナチスに対する抗議の強化を求めた

●1939年2月10日ピウス11世は死去、教皇のナチス批判によりイタリア・ドイツとの関係は極めて
悪化していたがラテラノ条約やドイツとのコンコルダートは生きていた。3月1日からシスティーナ礼拝堂にて
教皇選出の選挙(コンクラーベ)開催、当時全世界に居た62名の枢機卿が会し、300年間で最速の3回の
投票で3月2日自身の誕生日にパチェリは新教皇に選ばれピウスと名乗る事を表明

知的であるが受動的、妥協的な性格であり、きわめて親ドイツ的な教皇ピウス十二世が生まれたのである

>ただの弱虫だったのね・・・
215おたあ ◆wHb3.gs/E2 :04/07/19 11:04 ID:sMeDlH7g
後編は省略

戦中戦後のピウス12の醜態は告発済みですからW
216おたあ ◆wHb3.gs/E2 :04/07/19 11:15 ID:sMeDlH7g
続けるねW

パチェリはドイツとの関係回復に力を注ぐ
●30年来親交を深めていたヴァティカンのドイツ大使フォン・ベルゲンに教皇選出後
第一に連絡をとり、ヒトラーに教会と国家間の平和を確認したいと要望した、1939年
3月6日付のヒトラー宛登位挨拶状はラテン語で無くドイツ語で作成され親愛の情が
込められておりヒトラーからも祝辞が届く。後任の国務長官には新ドイツ派のルイージ・マリョーネ
枢機卿を任命、「オッセルヴァトーレ・ロマーノ」にはナチスに対する攻撃や批判を
停止するよう指示する

●ローマっ子のパチェリが教皇になった事をローマ市民は歓喜し即位式は極めて
豪華なものとなる、サン・ピエトロからの新教皇による神の祝福はヴァティカン史上
初めてラジオで世界に流された
●ちょうど同じ頃ドイツはチェコへ進軍、東欧に向け侵略戦争を開始する、3月15日
チェコスロヴァキア占領後に各国からドイツへの抗議参加を呼びかけられたパチェリは
政治的事件に関与すべきでないとして断る●ドイツが次はポーランドに対し、ハンザ都市
ダンツィヒ返還を要求、ポーランドは拒否。アメリカ大統領ルーズベルトは4月15日ヒトラーと
ムッソリーニに対し侵略行為を非難、パチェリは2国への糾弾が却って情勢を悪化させると
判断、5月31日英仏はポーランドの国境保護を宣言しパチェリはカトリック教国ポーランドを
救うべくヒトラーへヴァティカン大使オルセニゴを派遣し独伊英仏ポーランドの5カ国会議開催に
よる解決を提案するが実現性の無い案であった。ヴァテイカン側はポーランドに対し歴史的に
見れば元々ドイツの都市であるダンツィヒの返還を勧告したが6月23日独ソ不可侵条約が結ばれ
9月1日ポーランド侵攻が始まる
217おたあ ◆wHb3.gs/E2 :04/07/19 11:16 ID:sMeDlH7g
●侵略戦争開始後教皇ピウス12世は沈黙。9月3日英仏はナチスドイツに宣戦布告、9月21日
ポーランド大使の要請で教皇庁に来たワルシャワ大司教にパチェリは同情を示すがポーランド側に
立つ事は拒否。ポーランド降伏後の9月30日、ポーランドからの巡礼団を謁見しやはり深い同情の
意を示すがナチスを非難する事は無い。10月20日沈黙を破り回勅「至高なる教皇職について」を
公にし戦争の悲惨を訴えポーランドに対する愛と同情を語るがその回勅はナチスによりすぐ回収、
パチェリはドイツの心象を悪くしたのではないかと恐れる。1940年ドイツ軍西部侵攻の噂広まる、
ムッソリーニを訪ねた後パチェリの元に訪れた外相リッベントロップにドイツでの懐かしい日々を語り
ドイツへの愛情を語る。リッベントロップは、教会は宗教のみに従事し一切の政治的問題から手を
引く事を要望、ナチ政府の戦争行動やユダヤ人等への迫害は政策上の問題に過ぎない、ドイツの
教会が他のヨーロッパ諸国のようにボリシェヴィズムによる被害を受けすナチスの体制により守られて
いる事を強調する

・・・略・・・

1940年11月独伊空軍がイギリスのコヴェントリーの大聖堂を爆破、報復を考える英仏軍に各国より
ローマの爆撃を控えるよう要望が出される。パチェリは独伊を教皇として弾劾するようイギリスから
要求されるが応じず、イギリスはいかにしてヴァティカンを避けてローマを攻撃するか作戦を練るが
実行はされなかった。連合国側は教皇のナチスを弾劾しようとしない態度に怒り、ドイツ・イタリア
ファシスト政権は教皇の侵攻されたベネルクス3国に対する同情の報道を阻止する。5月末再度
イギリスがドイツの侵略行為を糾弾するよう求めるが無駄に終わる
218おたあ ◆wHb3.gs/E2 :04/07/19 11:17 ID:sMeDlH7g
●水・電気の供給をイタリアに依存しているヴァティカン市国は連合国と枢軸国の間に板ばさみ状態に
なっていた。教皇自身はローマに留まり続ける意思を示していたがヴァティカン財政を守るため金塊
766万5千ドルをアメリカに送っている●1940年6月以降スターリンのソ連がバルト海諸国へ支配の手を
伸ばし教皇庁にとって大きな脅威となっていた。パチェリは国務長官マリョーネを通して英仏と独伊の戦争を
終わらせソ連の西方への拡大と共産主義浸透を阻止しようとした、1940年10月イタリアがユーゴスラヴィア・
バルカン半島への侵攻を始め、教皇庁はムッソリーニが共産主義に対する防壁をユーゴスラヴィアに築くと
考える。イタリア・ブルガリア・ハンガリーに分割統治されたユーゴの中でカトリック系住民の多いクロアチアでは
ムッソリーニとヒトラーの後押しにより民族主義正統ウスタシャ指導者のアンテ・パヴェリッチ政権が成立、
クロアチアをキリスト教の防壁と見做しパチェリはこの政権を支持した。1941年初め以来ウスタシャの手に
よりクロアチア各地でセルビア正教徒・ユダヤ人・シンティ・ロマに対し強制改宗や大量虐殺が行われていた
219おたあ ◆wHb3.gs/E2 :04/07/19 11:21 ID:sMeDlH7g
このあと教皇がいかに卑劣か延々続くんだけど、疲れたわWW

結論

ピウス12は地獄逝き!!
マリア拝むとこうなります!!
220おたあ ◆wHb3.gs/E2 :04/07/19 11:34 ID:sMeDlH7g
ヒトラーとムッソリーニの傀儡として総統の座
についたパヴェリッチはセルビア正教会を宗教でなく政治団体と見做し弾圧、1941年教皇庁を
訪れた彼に対し教皇はその地位を認めクロアチア国家を承認

●セルビア人・ユダヤ人・シンティ・ロマに対する政府の弾圧にをクロアチア教会は迎合的態度を
取りセルビア正教徒にカトリックへの改宗を強制した。中にはフランシスコ会修道士ボツイダー・ブラロフの
ようにファシストの先頭で機関銃を携えセルビア人やユダヤ人の強制改宗、虐殺に重要な役割を
果たした者もいた
●1941年クロアチアのユダヤ人団体が国務長官マリョーネに財産没収の上強制所送りとなった
ユダヤ人救済援助を訴えるも反応は無く一方でパヴェリッチ政権使節団や巡礼団を教皇は
心よく迎え接見

・・・略・・・

●クロアチア首都ザグレブ大司教アロイジェ・ステピナッチはクロアチアのファシスト政権を教皇に
認めるよう働きかけセルビア正教会を教会と認めずカトリックへの改宗を要請していたとされる一方、
ユダヤ人やセルビア人迫害に反対しナチスの人種差別思想を非難、迫害を逃れる為改宗に訪れたものは
カトリックの知識を問わず受け入れるよう指示したとされ、戦後ユーゴスラヴィア共産党政権に
弾圧され監禁されたまま死去、1998年ヨハネ・パウロ2世により列福

>頭おかしいおかしい大司教の福者サマWW
221おたあ ◆wHb3.gs/E2 :04/07/19 11:35 ID:sMeDlH7g
●安楽死問題:ヒトラーは政権掌握の1933年7月14日「遺伝病の子供の出生を予防する法」公布、
1934年2月10日演説で安楽死必要性を主張、1939年安楽死計画実施を指令しポーランド侵入と
同時に実行、ダッハウやマウトハウゼンなどの収容所にその為の施設が設置●教皇庁は公に
されなかった見解の中で精神的身体的障害者などが殺されてはならないとしており1940年12月には
既に安楽死計画の事を知っていたと思われる

●当時ドイツでは、独公使ホイネの1941年3月21日ベルリン宛電報によればナチスの暴力や
安楽死、ユダヤ人迫害に抗議して捕らえられた3700人聖職者が各地の強制収容所に
送致され700人が殺害されていた
●教皇庁が沈黙する中でミュンスター司教クレーメンス・アウグスト・フォン・ガーレンは
教会説教において突如ナチスによる精神障害者殺害計画を暴露し弾劾する。この弾劾は
反対勢力となり庶民間にも広がる。1941年8月24日教会の激しい抗議を受けて政策を停止するが
それまでに安楽死犠牲者は7万人以上となる。この停止と時期を同じくしてユダヤ人の大量虐殺が開始する
222おたあ ◆wHb3.gs/E2 :04/07/19 11:36 ID:sMeDlH7g
●対ソ連戦線:アメリカは教皇のヒトラーに対する弱腰と譲歩に抗議を続け対してパチェリはヴァティカンの
苦しい立場を理解するよう求め対ソ連戦線で予想される独の勝利後は平和の中でナチスに対しモラルの
再建を要求する意向を示す

●1941年年6月29日ヴァティカン放送:対ソ連戦で出るであろう多くの犠牲は無駄になる事無く無神論の
共産主義に対し勝利する事を願うという声明●ソ連共産主義を赤い野蛮(la barbarie rossa)と呼びそれと
戦うドイツとイタリアの兵に神の祝福を送るコンスタンティーニ大司教(教皇庁布教聖省次官)はソ連共産主義と
いう「悪」と戦うナチスに中世の十字軍を想起

●ポーランドのアウシュヴィッツ絶滅収容所(第二収容所)が1941年10月完成、ユダヤ人の強制移送が開始
●2月9日ドイツ外務省次官フォン・ヴァイツゼッカーと駐独ヴァティカン大使オルセーゴとの会談でオルセーゴは
アウシュヴィッツ収容所のカトリック司教をダッハウの収容所に写してもらえないか申し出たというメモが残されており
教皇庁が絶滅収容所と他の強制収容所の違いを理解していた事が窺われる
●1942から1943年各ユダヤ人団体から、情報やユダヤ人救済の仲介嘆願が教皇庁に寄せられ、絶滅収容所から
逃亡したユダヤ人の克明な証言の英米メディアによる報道、NYでの2万人抗議デモ、ルーズベルト大統領や
英首相チャーチルはナチス弾劾の声明を出している

>もちろんパパ様は殉教怖さに沈黙ですW