α〓〓〓マリア崇拝の害について〓〓〓ω

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202おたあ ◆wHb3.gs/E2
2004-05-18 ローマ教皇とナチス

ペテロの後継者にして絶大な人気を誇ったピウス12世(エウジェニオ・パチェリ)
の人生とナチス


●ティベル川左岸とナヴォーナ広場のほぼ中間、ヴィア・モンテ・ジョルダーノ
(現ヴィア・デル・オルシーニ)3番地の4回の部屋が生家、西へ徒歩十数分で
ヴァチカン市国に着く位置
●パチェリ家は代々教皇に仕えた一族、ローマ市の保守的上層階級に属し黒い貴族と
呼ばれ祖父マルク・アントニオの代から教皇庁における確固たる地位を築いていた
●1876年3月2日生まれ(洗礼名:エウジェニオ・マリア・ジュゼッペ・ジョヴァンニ・
パチェリ)神童と呼ばれ家柄のせいもあり異例の出世をする、24歳で教皇庁に入る、
1904年コンコルダート研究により神学博士号を受け同年28歳でモンセニョール
(司祭より上で枢機卿より下位)の称号を得て教皇の諮問委員会のメンバーになる
●12歳年下の姪マリア・テレサとの親交を深めた時期(1901-1906)

>つまりペドだったわけだW
203おたあ ◆wHb3.gs/E2 :04/07/19 10:30 ID:sMeDlH7g
●フランス革命後ユダヤ人がゲットーから解放、社会・文化・経済進出を始める
1861年ヴィットーリオ・エマヌエーレがイタリア国王に即位、国家統一が為された時ユダヤ人は市民権獲得。
一方民族主義を背景にアンティ・セミティズム成立、キリスト教思想基盤の反ユダヤ主義とは異なり
人種としてのユダヤ人に否定的立場をとる

●ピウス9世はイタリア政府と絶交状態にありユダヤ系のロスチャイルド家から莫大な借財を得て教皇庁立て直しを
図っていたにも拘らずローマのユダヤ人を元のゲットーに戻そうとした。
1858年、ユダヤ人一家で働いたキリスト教徒女性の、一家の1歳の息子に隠れて洗礼を授けたという懺悔を受け、
その息子はキリスト教徒であるとして一家から警察に命じて男児を誘拐、両親の要求にも応じずカトリックの教育を
受けさせ、同じカトリック教徒のオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフやナポレオン3世の要請にもかかわらず
その男児エドガルドは遂に司祭になってしまった

●聖金曜典礼での祈り「主なる神よ彼らが我々の主イエス・キリストを信じる事ができるよう、彼らの頑なな
心のベールを取り去って下さい」
●1881-89、チヴィルタ・カトリカでのユダヤ人に対する中傷、ローマで出されたユダヤ人非難のパンフレット、
国家市民権の取消しと隔離要求、祖父・父親共に教皇庁の法律顧問として忠実な教皇派だった事がエウジェニオ
自身にも影響していると思われる

>>201
トマス・アクィナスが泣いてるわよW
204おたあ ◆wHb3.gs/E2 :04/07/19 10:34 ID:sMeDlH7g
●1903年ピウス10世即位、反近代化主義(アンティ・モデルニズム)を打ち出し特別問題担当者のエウジェニオは
「近代化ペスト」の案件に取り組む一方、13年に渡る新しい教会法編纂の大事業に取り掛かる。
1917年ベネディクトゥス15世により教会法大全が公布、パチェリは全カトリックの教会法第一人者となる

>この後、WWTを調停しようとして大失敗 醜態晒すバチカンの姿が描かれますが省略