>>135 私たちは、律法が霊的なものであることを知っています。
しかし、私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です。
私には、自分のしていることがわかりません。
私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、
自分が憎むことを行なっているからです。
もし自分のしたくないことをしているとすれば、
律法は良いものであることを認めているわけです。
ですから、それを行なっているのは、もはや私ではなく、
私のうちに住みついている罪なのです。
私は私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを
知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、
それを実行することがないからです。
私は、自分でしたいと思う善を行わないで、
かえって、したくない悪を行なっています。
もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、
それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。
そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、
その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。
すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、
私のからだの中には異なった律法があって、それが
私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法の
とりこにしているのを見いだすのです。
私は、ほんとうにみじめな人間です。
だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。
私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。
ですから、この私は、心では神の律法に仕え、
肉では罪の律法に仕えているのです。
(ローマ7:14-25)
わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。
廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。
まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、
律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。
全部が成就されます。
だから、戒めのうち最も小さいものの一つでも、これを破ったり、
また破るように人に教えたりする者は、天の御国で、最も小さい者と呼ばれます。
しかし、それを守り、また守るように教える者は、天の御国で、
偉大な者と呼ばれます。
まことに、あなたがたに告げます。
もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、
あなたがたは決して天の御国に、はいれません。
(マタイ5:17-20)
神の国とその義とをまず第一に求めなさい。
そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。
(マタイ6:33)
求めなさい。そうすれば与えられます。
捜しなさい。そうすれば見つかります。
たたきなさい。そうすれば開かれます。
だれであれ、求める者は受け、
捜す者は見つけ出し、
たたく者には開かれます。
(マタイ7:7-8)
あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには
良い物を与えることを知っているのです。
とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、
どうして聖霊を下さらないことがありましょう。
(ルカ11:13)
またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、
それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。
あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。
もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。
わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主を
あなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、
ともにおられるためにです。その方は真理の御霊です。
世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。
しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、
あなたがたのうちにおられるからです。
わたしはあなたがたを捨てて孤児にはしません。
わたしは、あなたがたのところに戻ってくるのです。
(ヨハネ14:13-18)
わたしはあなたがたに、こう言いましょう。
人はその口にするあらゆるむだなことばについて、
さばきの日には言い開きをしなければなりません。
あなたが正しいとされるのは、あなたのことばによるのであり、
罪に定められるのも、あなたのことばによるのです。
(マタイ12:36-37)
弟子たちは、これを聞くと、たいへん驚いて言った。
「それでは、だれが救われることができるのでしょう。」
イエスは彼らをじっと見て言われた。
「それは人にはできないことです。
しかし、神にはどんなことでもできます。」
(マタイ19:25)
人は、たとい全世界をを得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。
自分のいのちを買い戻すために、
人はいったい何を差し出すことができるでしょう。
このような姦淫と罪の時代にあって、わたしとわたしのことばを
恥じるような者なら、人の子も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに
来るときには、そのような人のことを恥じます。
(マルコ8:36-38)
御救いはあなたが万民の前に備えられたもので、
異邦人を照らす啓示の光、
御民イスラエルの光栄です。
(ルカ2:31-32)
初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
この方は、初めに神とともにおられた。
ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。
私たちはこの方の栄光を見た。
父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。
この方は恵みとまことに満ちておられた。
(ヨハネ1:1、14)
いまだかつて神を見た者はいない。
父のふところにおられるひとり子の神が、
神を説き明かされたのである。
(ヨハネ1:18)
すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。
それで、父のほかには、子を知る者がなく、
子と、子が父を知らせようと心に定めた人のほかは、
だれも父を知る者がありません。
すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。
わたしがあなたがたを休ませてあげます。
(マタイ11:27-28)
また、イエスは大声で言われた。
「わたしを信じる者は、わたしではなく、わたしを遣わした方を信じるのです。
また、わたしを見る者は、わたしを遣わした方を見るのです。
わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、
だれもやみの中にとどまることのないためです。」
(ヨハネ12:44)
イエスは彼に言われた。
「きょう、救いがこの家にきました。
この人もアブラハムの子なのですから。
人の子は失われた人を捜して救うために来たのです。」
(ルカ19:9-10)
父が死人を生かし、いのちをお与えになるように、
子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。
また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子にゆだねられました。
それは、すべての者が、父を敬うように子を敬うためです。
子を敬わないものは、子を遣わした父をも敬いません。
まことに、まことに、あなたがたに告げます。
わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、
永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、
死からいのちに移っているのです。
(ヨハネ5:21-24)
わたしと父とは一つです。
(ヨハネ10:30)
わたしが父におり、父がわたしにおられるとわたしが言うのを
信じなさい。さもなければ、わざによって信じなさい。
(ヨハネ14:11)
イエスは言われた。
「わたしはよみがえりです。いのちです。
わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。
また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。
このことを信じますか。」
(ヨハネ11:25)
あなたがたに新しい戒めを与えましょう。
あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、
そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
(ヨハネ13:34)
わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。
わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、
わたし自身を彼に現します。
(ヨハネ14:21)
助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、
あなたがたにすべてのことを教え、また、
わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。
わたしは、あなたがたに平安を残します。
わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。
わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。
あなたがたは心を騒がしてはなりません。
恐れてはなりません。
(ヨハネ14:26-27)
父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。
わたしの愛の中にとどまりなさい。
(ヨハネ15:9)