【透香】 浄土真宗 燃えスレ  後夜  【青磁】

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488渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
 親鸞は、教行信証の後序に、法然との出会い以降の自分の略歴を書いて
いる。当時の仏教者の論文で、このように著者が略歴を書いているという
のは、前代未聞ではないか。ここに、教行信証の極めて重大な特徴が現れ
ている。
 教行信証は、親鸞という人物を直接知らない人が読むことを前提にして
いる。こういう書物は、現代では当たり前のことだが、当時としては異例
中の異例と考えるべきだろう。当時、書物は、師匠から弟子に貸与という
形で伝わった。弟子はそれを書き写して自分のものとした。従って、著者
の件については貸与を受ける前に話を聞いている。教行信証は、親鸞とい
う人格を離れて拡散させようとして書かれている。当時としては実に異例
の書である。ここに、親鸞にとって教行信証を書いた意味が隠されている。
 更に親鸞は、修行僧として師から見証の認可を受けてないことを告白し
ている。教行信証は、師から見証の認可を受けてない人物が書いた仏教
書である。これも極めて異例である。
489栗花 馨 :04/07/15 00:28 ID:x7dphcxT
親鸞は御布施はどのようにうけとられたのだろうか?
御金?モノ?
本人?家族経由?弟子経由?
作法はあるのか?
490渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :04/07/15 20:16 ID:YWowFrYp
護念坊のたよりに、教念御坊より、銭二百文、御志の物、給わりて候。先に、念仏の勧めの
物、方々の御仲よりとて、確かに給わりて候いき。
十二月廿六日 親鸞
  教忍御坊御返事

九月廿七日の御文詳しく見候いぬ。さては、御志の銭五貫文、十一月九日に給わりて候。
十一月九日 親鸞
 慈信御坊

 帰郷後の親鸞には、関東の同朋から寄進もあったようだ。宋銭ではないかと思う。二百文・五
貫文という価値が、現代で言うどの程度かは僕は知らない。銭二百文に加えて、品物も貰ってる
ようだ。念仏の勧めとあるから、同朋念仏者からのものだろう。親鸞は関東で身寄りのない子供
の養護施設のようなことをしていたはずだから、成長した子供達が、親代わりをしてくれた親鸞
に若干の仕送りをしていたとも考えられる。
 どういうルートで送金があったかは僕は知らない。奥州と都を往復する金売り吉次のような送
金機関に送金をゆだねるという方法があったのか無かったのか。歎異抄でも同朋達が京都の親鸞
を訪ねて来ているから、親鸞の回りには、京都と関東を往復するルートがあり、そのなかで、関
東から送金が少なくとも2回はあったと考える。
491渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :04/07/15 20:18 ID:YWowFrYp
 親鸞は、帰京後も唯信抄・後世物語などを書写している。これは法然門下の先輩が書いたもの
だ。つまり親鸞は、帰京後もこういうものを借りたり読んだりできる環境にあったということだ
ろう。法然旧門下の知人と、交流があったと考えられる。無位無冠無名無戒在俗の元流刑囚とは
言っても、法然の直弟子で僧のような生活をする親鸞を守ろうとする人々もいたようだ。どこか
に身を寄せながら、托鉢・寺子屋・養護施設という形で生計を維持していたかも知れない。
 覚如は、親鸞廟を中心とした新たな教団の形成を画策する。京都を地盤とする親鸞同朋グルー
プが覚如の時代には育っていたのだろう。親鸞は、生前に京都を地盤に、何らかの種をまき、そ
れが育った結果でもあるのだと思う。京都時代にも、親鸞には親鸞を応援する取り巻きがいたよ
うだ。