【透香】 浄土真宗 燃えスレ  後夜  【青磁】

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480渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
 釈迦は、自分を「先生」と呼ぶ者に自分の認識を全力で教えた。学習途上で壁に
ぶつかり、挫折しそうになっている者には、その原因を明らかにし、前進する勇
気を与えた。限りなく前進していく命と、限りなく前進していく知恵を与え続けた。
釈迦は、無限の命と無限の光を与えてくれる先生だった。だからこそ人々は釈尊先
生を「先生」と呼び、釈尊先生から様々な認識を教わった。
 釈尊先生は、三十五歳のとき、自らの無知を認識し、物事を真剣に学ばなければ
ならないことを悟った。互いに教え合い、学びあうことのすばらしさに気づいた。だか
らこそ、釈尊先生は祇園精舎を創設され、多くの賢人哲人を育てた。釈尊先生は、
インダス文明以来の文化、中国との交易でもたらされた文化、あるいはペルシャ、
ギリシャ、エジプトからもたらされた文化、こうしたものを、王家・貴族階級の一人とし
て体得していた。かつて、こういう学問は王宮貴族だけに独占的に伝わっていた。釈
尊先生は、先生の戒律を守ると約束すれば、相手が知りたいことを全力で教えた。
先生は、王宮の学問を大衆の中に拡散した。人々は、釈尊先生から、算術・文字・薬
学・土木・農業・天文学等々を教わった。釈尊先生はそういうものを、隠し隔てなく惜
しげもなく伝えた。人々が生きた知恵を体得すると、それを自分のことのように喜ん
だ。釈尊先生は、有形的に伝達できるものは、言語化して有形的に伝えた。有形的
に伝えられないものは、禅定という方法を教え、だれもが容易に手にできるところに
置いた。
 釈尊先生の後継者達の一部からは、やがて教育こそ、人々にとって最も意義ある
ことであると主張する者が出てきた。自分が認識するだけでなく、自らの認識を社
会共通の財産として共感的に享受できるようにすることこそ、最も意義あることで
あると主張しだした。彼らはこれを大乗仏教と名付けた。大乗の思想家達は、次の
時代の教育者を育てることに高い価値を置き、教育者のモデルを創作した。阿弥陀
仏はそんな理想像の一つである。
481渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :04/07/12 10:19 ID:eoxMi5gp
 阿弥陀仏は、釈迦をモデルに創作した理想の教育者である。釈迦が祇園精舎に注
いだ祇園精舎建設の趣旨を建学の精神(本願)として、極楽浄土を建設する。親鸞
は、経典に書かれたこの阿弥陀仏の行為と本願をもって真理そのものを創作的に人
格化した。
 真理はあらゆるものに宿る。花にも、石にも、山にも宿る。包丁を持ってバスに
乗り込み、乗客を殺して運転手を脅迫する少年の言葉に、心理学者は少年の心の闇
を必死に学ぼうとする。検察官は、犯罪の原因と動機を学ぼうとする。親でもいい。
兄弟でもいい。仕事でも、勉学でもいいんだ。森羅万象、一切に仏性ありなどと気
張る必要はない。まわりのもの一つでも二つでも、嘘っこでいいから仮に「先生」
と名付け、先生、ああ先生と念じてみるといい。阿弥陀仏とは先生という意味だ。
座禅して念仏申せ。親鸞は人々にそう勧めた。
 戒律はものの価値観を基盤とする。三千年昔の赤道近くの国で妥当した価値観が、
三千年後の雪降る北方の国で妥当するとは思えない。三千年昔のインドがどれほど
の文明国家であったとしても、インターネットやバイオテクノロジーが爆発的に発
展している現代の、例えばパン屋さんやクリーニング屋さんにとって、古代インド
の知恵や知識の中に学ぶべきものがあるとも思えない。しかし、有形的に伝えられ
ないものを禅定という方法で認識しようとする手法は有効なはずだ。固く考える必
要はない。そんなのは禅定ではない。座禅ではないと笑う奴がいてもいいんだ。偽
物だ、まやかしだと、蔑まれてもいい。気楽な気持ちで座禅して念仏してみなさい。
きっと素晴らしい人生が開けてくるだろう。親鸞はそう言って、三千年昔の釈迦の
時代の仏教を、この現代に復活させた。
482栗花 馨:04/07/12 13:20 ID:IoaGSxGd
☆ 書き込みは短めにしましょう












483名無しさん@3周年:04/07/12 17:56 ID:+ztpan0V
だな。
あともっと聖教を読むこと。
484渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :04/07/14 00:40 ID:GwxLte1E
>>483
>あともっと聖教を読むこと。

 リクエストに応えて、聖教を読んでいこう。「建仁辛酉の暦、雑行を棄てて本願に帰す」。
親鸞は教行信証の後序にそのように記載している。親鸞の言葉は、文脈を離れて短冊のよ
うに存在するものではない。後序には重要な文脈がある。後序には教行信証起草の原点が
込めてある。その辺をゆっくり考えてみよう。