>>458 > へるくつむよう
> 建仁辛酉の暦、雑行を棄てて本願に帰す。
「る」は、「り」の誤記でしょう。死に神さんは「屁理屈無用」と書きたかったんでしょうね。
一方ではただ念仏と良いながら、他方では盛んに教学を議論する。どうしてそういうことが起こ
るのか、死に神さんには不思議なんでしょうね。教学は有用なものか、無用の長物か。こういう
話になると、死に神さんではちんぷんかんぷんのようだ。
往生極楽の道は「ただ念仏して」ということに納まる。往生極楽の道はこれ以外にない。教学研
究は、往生極楽の道とどういう関係にあるのか。教学研究・教学論争は往生極楽の道の中なの
か、往生極楽の外なのか。坊さん達でもこの仕切りができてないようだ。仕切りができてないか
ら、「屁理屈無用」と書きたくなる。
教学の研究をするか否か。教学論争に参戦するか否か。これは、結局、世間道の問題。出世間
道の問題ではない。つまり、教学を知っていようが、知らなかろうが、それは信心の問題ではな
い。だから、屁理屈無用というのも、一面では正しい。往生極楽にあっては、ただ念仏だけだ。教
学知識は関係ない。
しかし、僕らは二つの大きな問題を抱えている。それは出世間道と世間道だ。出世間道の問題
が片づいたら、僕らは自己責任で世間道の宿題を背負う。
世間道としては自分は何を求めるのか。自分はパンが好きだからパン屋さんになる。あるいは
ラーメン屋さんになる。そういう人がいても一向に構わない。みんな結構な話だ。ラーメン屋さ
んになっても、ラーメンだけ作っていればいいということじゃない。野球が好きなら、町内の野
球選手になるのもいい。パン屋さんになっても、テニスをしたりハイキングをするのもいい。
往生極楽の道はただ念仏。歎異抄が言うこの主張の裏には、実は極めて深い思想が存在してい
る。そんなものは、認識しても、認識しなくても往生極楽には関係がない。関係がないなら、そんな
話は無視するか。ここで、無視するという選択肢と、世間道として関心を持つという選択肢がある。