【これで】カトリックの典礼を考えるPart10

このエントリーをはてなブックマークに追加
520名無しさん@3周年
 気のせいでした、書き込み反映までのプロセスで意図的な操作が
挿入されているのかもしれません。では>>518の書き込みの続きです。

 問題は、自分には典礼の内容が聖書や聖伝とは違う面があったり、
ラテン語典礼の時代に様々な問題が内部に起こって混乱していたこと
なのではないでしょうか?端的に例を挙げるとすれば、ラテン語の
「また司祭と共に」は「Et cum spiritu tuo.」ですが、直訳すれば
「またあなたの精神と共に」となるでしょう。ヴルガタ訳聖書から
中世のドゥエイ聖書が英訳された時、聖霊はHoly Ghostと訳されて
いました。これは、1900年前後にケンブリッジから出版された聖書
でも欽定訳でもカトリックの有名なノックス司祭の訳においても
同様でした。ラテン語Spirituは、英語でSpiritとするべきかGhostと
訳すべきかということは置いておいて、一つの危険な情報の中には
秘密結社の聖書に対する訳語変更の陰謀とSpiritという用語が密接で
あるということが非常に重要な問題なのです。悪魔、所謂黙示録に
出てくる龍(ヒドラ)の霊を「聖霊」と呼ぶ者たちが英訳ではSpiritを
その「聖霊」と捉えている情報があります。この情報を元にラテン語の
「霊」について考えると、spiritを自然にラテン語に変換した際の言葉
がSpiritusになるとするのが正常な感覚であるとするならば、カトリック
が伝統的にラテン語を使用するようになって以来「聖霊」と考えて崇拝
してきた聖霊が、実は秘密結社の悪魔を意味する霊と同じ性質のもので
あったと推論せざるを得ません。この辺りが、ラテン語によるミサの
実質に対して警戒心を起こす部分の一つであろうと自分は考えます。