【これで】カトリックの典礼を考えるPart10

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291名無しさん@3周年
>>290
 あなたが書き込みするベルナルド観は「無原罪受胎」の根拠としては意味がありません。
 ベルナルドはマリアを童貞と敬愛し、マリアを通して神に願うこともしています。
それは前にも挙げた「小さき冠」や「聖母の御保護を求むる祈」などに結実
しているかもしれません。しかし、ベルナルドは主を大切にしましたし、主の言葉
と聖書の記述に従ってマリアを敬愛していたのです。あなたが

>聖ベルナルドは「マリアを通してでなければ誰も天国に入れません」と書いています。

と引用する言葉の意味は、マリア様の謙遜について言っているのであり、マリアの
無原罪受胎と生涯罪から免れていた清さというような根拠のない彼女の神格化を
前提として言っているのではありません。あなたは「聖ベルナルドとマリア崇敬」
などとハンドルネームを名乗られていますが、洗礼名はベルナルドなのですか?
自分は、幼児洗礼を受けていて必ずしもベルナルドの生涯と行動にすべて賛同する
者ではありませんが、告白すると洗礼名はベルナルドなのです。
 カトリックが今後マリア神格化の路線を歩むときには破滅的道に信徒を導く
ことになるだろうと自分は危惧します。ファティマの預言は解釈され開示されましたから、
悪の計画が明るみになりました。あとはすべて悪を捨て去り、表裏一体の
カトリックとイルミナティの霊との関わりを信者・聖職者・修道者一人一人が
唯一の神への愛と隣人への愛によって告白・超越してキリスト者として敢然と
悪に立ち向かうことで今後明るい希望が見えてくるものだと自分は信じます。