887 :
名無しさん@3周年:04/05/23 00:49 ID:dIxjWd0W
高森会長も定善散善を修めたという話は聞かないのですが?
888 :
505:04/05/23 01:10 ID:yd5viZCB
>>885 >>要門を修することを親鸞会では勧められているのか?いないのか?
>信前の「善のすすめ」は要門だ、とお聞きしてますが。
「要門を修しなさい」「要門をすすめる」とはお聞きしてませんね。
またもや得意のロジックですね。私にいわせれば詭弁ですが。
親鸞会のロジックなのかあなたの考え出したロジックなのかは
わかりませんけどね。
親鸞会は「善」、という語を汎用してたくみに綻びを偽装していると思っています。
七仏通戒の偈で「諸悪莫作」「衆善奉行」 といわれていますから、仏教では確かに
善が勧められています。しかし、竜樹菩薩が大智度論で指摘されておられるように
「自浄其意」 がこの偈で最も重要な核心部分であることを、親鸞会ではどのように
教えられているのでしょうか?
「浄」とは調伏の義であって、
「意」とは、善悪に執する心のことではないのですか?
>善は勧められていますよ。信前も信後も。
あなたの仰っている善は、信前の場合は「自力の善」のことではないのですか?
もしそうならば、実質的に自力に執しなさい、ということになります。
親鸞聖人のみ教えではありません。
>>877 >観経の三心と大経の三信には関係があると仰った御文としてだしたのです。
「自力の三心」=「定散二機の心」が、「大経の三信」の善因縁であるという
ことは書かれてませんが。むしろ「定散二機の心」は「報土に生まれず、
胎生・辺地の業因として廃捨をお勧めなのは自明ですよ。「自力の三心を得ても
他力真実の一心を欠いたら報土往生はできない」の意ですよ。ましてや定散の機
でもないわれわれに「自力の三心を発す」ことをお勧めでないのも明白です。
>いまさら教えすすめる必要はない」という
>御文ではありませんね。
これもどこに「凡夫発起の三心」が「如来利他の信心」の善因縁であると
書かれてますか? 「関係があれば」全て善因縁ですか? 仏教では、
「重々無尽縁起」を説きますから厳密には「関係ない」事象はないんですが。
>「方便をもって真実をあらわす」善巧方便を伝える方が釈尊だけと強弁するなら
>根拠をあげて話してください。
これは言ってませんよ。方便をもって真実をあらわす「廃立」は、「権仮方便」のことでしょう。
「真実を顕す」主語は、仏や祖師方等でわれわれの体験の相ではないということも何度も言って
ますよ。仏様が「随自意の法門」を説かれ、祖師が、真仮を決判なさった後は、「浄土真宗として
は」(他宗他門は知りません)、自力仮門の修行お勧めは無いということです。
>それから「善にもすすむべき」(法然上人のお言葉)が「信後のひとのみ」という
>根拠もお願いしております。
これも言ってまんが。「造悪無碍」を止めるのは当然で、これを自力の行として「善根功徳
になる」とか「往生の善因縁」であるとかのお勧めではないと言ったと思いますが。
現実問題として、定善散善を修めずに信を得たとされる人が存在するのですから、
要門を通らなくても信を頂くことはできると思うのですが?
それとも、「要門を通る」とは物理的に定善散善を修めることではなく、
「自力の善行を頼みにする」信前の凡夫の道徳肯定的な心理状態を示すものなのでしょうか?
891 :
505:04/05/23 01:14 ID:yd5viZCB
>>887 >高森会長も定善散善を修めたという話は聞かないのですが?
その通りですね。寡聞にしてきいたことがありませんね。
異論はございますか?会員の方々?
>>885 >そういえば改邪抄のお言葉「凡夫の起こすところの自力の三心」は
>高位の凡夫であとに出てくるのはそうではないような発言も
>ありましたね。
>>832でも書きましたが、『観経』で「自力の三心を起こす」こと
を勧められている衆生は、「上品上生」の機類ですから、高位の凡
夫であることは自明ですよ。後の「煩悩成就」はわれわれにも可能
ですねww。 謗法といわれるのは何故ですか?
893 :
505:04/05/23 01:38 ID:yd5viZCB
s会教義擁護派のかたがたのご発言がみられなくなったようですが、
皆様お休みになったのでしょうか?
332さん、今宵もご教示ありがとうございました。
どうもお疲れ様でした。
私もそろそろこれにて失礼いたします。おやすみなさい。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏・・・・。
895 :
890:04/05/23 01:41 ID:sg7pwfak
>>890 修正します
>それとも、「要門を通る」とは物理的に定善散善を修めることではなく、
>「自力の善行を頼みにする」信前の凡夫の道徳肯定的な心理状態を示すものなのでしょうか?
それとも、「要門を通る」とは物理的に定善散善を修めることではなく、
自力の善行を頼みにする信前の凡夫の道徳肯定的な在り方が覆される段階を示すものなのでしょうか?
896 :
名無しさん@3周年:04/05/23 01:44 ID:08C0KiA8
親鸞会の会員をみていて思うのだけど、なぜ人はカルトにはしるのか?
>やりたくなければ、無理にやらんでもよろしい。
それこそ大嘘だろ、
新入生の勧誘に目標人数があって
財施の金額に目標金額があって
それに参加しなかったり達成できなければ上司から叱られるのが自発ですか?
899 :
名無しさん@3周年:04/05/23 07:16 ID:7v6BgBff
>>888 >あなたの仰っている善は、信前の場合は「自力の善」のことではないのですか?
自力だからすすめないというなら、五正行も聞法もすすめられませんね。
機の失だから信前はしかたないわけです。
>>889 >「真実を顕す」主語は、仏や祖師方等で
「仏祖のこと」と限定されてませんでしたか?
祖師等とは善知識にあたるひとすべてを含む、ということでよろしいと
思います。
>「自力の三心」=「定散二機の心」が、「大経の三信」の善因縁であるという
ことは書かれてませんが.
愚禿抄にも「大経の三心に誘引せんがため」と書かれてあるとおり
「方便より真実」は方便は真実に入るための因縁という意味です。
900 :
名無しさん@3周年:04/05/23 07:18 ID:7v6BgBff
>厳密には「関係ない」事象はないんですが
いろいろの事象のなかで観経の三心だけをあげておられるから特別な
意味がある因縁(方便)でしょう。
>>それから「善にもすすむべき」(法然上人のお言葉)が「信後のひとのみ」という
>>根拠もお願いしております。
>これも言ってまんが。「造悪無碍」を止めるのは当然で
「善にすすむべきこと」という善のすすめが信前にあるということで了解いただいた
と思います。
>>892 同じ章の中で「凡夫」と書かれていることを
勝手に「高位の凡夫」「煩悩成就の凡夫」と解釈し分けているから
ですよ。でたらめじゃないですか。
さあ今から聴聞に出かけます。
これは善ではないんですか?それとも「善とはいわない」というだけのことでしょうか?
901 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :04/05/23 08:45 ID:x2PfQ9JF
>>826,
>>839 >「要門を通らねば救われない」というところだろうな。
要門を通らない人まで救うななどという、そんなすごい仏様などおるはずはない。
一切衆生を救うといっても、要門を通らない人まで救うはずはない。
要門を通らない人は除くんだ。あなたはそのように、阿弥陀仏の本願を疑ってるん
ですね。
>>882 「俺は悟った」。「俺は信心がある」。自分でそう信じている奴ほど臭い奴はいな
い。そう思ってる奴がいれば、百%妄想だ。あなたはそう思いませんか。
実るほど頭を垂れる稲穂かな。頭を垂れている稲穂にこそ、真の実りがあるんで
しょう。
「仏法は知りそうもなき人が知るぞ」。信心は背中で光ってるものであり、看板に
して見せられるものじゃない。
自らは「愚禿」と名乗り、これから難思議往生を遂げに向かうんだと言ってる人を、
難思議往生を遂げていらっしゃる方と仰いでも、間違いではないでしょう。
行動するは、我にあり。論ずるは他にあり。自分はただ、ほれぼれと念仏申すのみ。
それで自分に信心があるか、ないか。それは他人様が論じて下さるのであり、自分に関
係はないことでしょう。
>なにしろ、親鸞聖人は自律健康法を勧めたと言うのだから。
親鸞は実益性の無いことを他人に勧めていると思いますか?。人生の糞の役にも立た
ないことについて、他人に「ああせい、こうせい」と、差し出がましく厚かましく指図
してくる野郎だと思ってるんでしょうか?。親鸞をそんなアホーでしょうか?。
勧めるというのは、普通は、実益性があると思って勧めるんですよ。死ななければ役
に立たないなんてもし言ってれば、それは、永遠に役に立たないと言ってるのと同じだ。
あなたは、親鸞をそんなアホーだと思いますか。
902 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :04/05/23 10:43 ID:x2PfQ9JF
>>773 こんにちは。
>あちらこちらで叩かれているみたいですが、
はて?。そうですか。ファンレターはたくさん頂いてるという思いはあ
りますが、どこかで叩かれていましたか?。
>めげずにがんばってください。 <あなたの杞憂でしょう。>
>好感がもてます。 <ありがとうございます。>
>損をしているのでしょうか?
<まあ、得をしてるかも知れませんよ。損して得とれとね。>
>パーソナリティの問題なのでしょうか? <地なんでしょうね。>
>真剣に人にほれ込み、真剣に人と向き合うことは、学びの基本
であると感じます。
<同感ですね。>
>>772 >Mnoさんと渡海 難さんは面識あるの? <昔、会話をした仲良しです(w。>
>>899 >「仏祖のこと」と限定されてませんでしたか?
「仏祖」というのは、普通は、各宗のお釈迦様以来の師資相承の祖師を言うと
思うんですが。
>愚禿抄にも「大経の三心に誘引せんがため」と書かれてあるとおり
>「方便より真実」は方便は真実に入るための因縁という意味です。
凡聖ともに弘願に直入すればいいわけですから、「観経の三心往生」は、
自力に執する定散諸機誘引の為、やむをえず仮設された権法門ということ
ですね。その意味で対機(定散諸機)にとっては善因縁であるのは確かに
おっしゃる通りですね。まあ、しかしあの『唯信鈔文意』の御文は、「自力
の三心」と「大経の三信」との勝劣の段で書かれているわけですから、「大
経の三信=報土往生の因」を取り、「自力の三心=化土往生の因」を廃捨する
ことのお勧めであり、「大経の三信」を得る為の善因縁として「自力の三心」を
得ることをお勧めなのではないことは自明と思うのですが。
「便往生とは、すなはちこれ諸機格別の業因果成の土なり。胎宮・辺地・懈慢界
、双樹林下往生なり、また難思往生なりと、知るべし。」(『愚禿鈔』)
ですから、「自力の三心」は、あくまで化土往生の機類である定散諸機の為に施設
された権方便であることはよろしいですね。
>>900 >いろいろの事象のなかで観経の三心だけをあげておられるから特別な
>意味がある因縁(方便)でしょう。
はあ? 因縁=方便ですか? あの御文は↑でも言ったように、「大経の三信」
と「自力の三心」の勝劣、真仮を相対しているわけですね。具体的に「自力の三
心」をわれわれにお勧めの箇所を指摘していただけますか?
>同じ章の中で「凡夫」と書かれていることを
>勝手に「高位の凡夫」「煩悩成就の凡夫」と解釈し分けているから
>ですよ。でたらめじゃないですか。
自力の三心を発す「上品上生」は「高位の凡夫」ではないということでしょうか?
>>899 >自力だからすすめないというなら、五正行も聞法もすすめられませんね。
>機の失だから信前はしかたないわけです。
横レススマソです。前のもいいましたが、真宗で勧められるのは「他力の五正行」
(「正定業」とそれに自然に付随する助業)、「他力の聞法」です。機の失だから
しかたがないとして、機情に迎合して「権法門」=要門を説くものではありません。
信前信後を問わず、あくまで真実弘願門を説くのが真宗であるというのは、前にも
引用した『顕正新聞』71号3面で高森先生もおっしゃっている通りです。
>>893 505さん、こちらこそ色々勉強させていただきました。ありがとうございます。
>>900 >「善にすすむべきこと」という善のすすめが信前にあるということで了解いただいた
>と思います。
「造悪無碍」を止めることが、「善根功徳になる」「往生の善因縁」であるとしてお勧め
なのではないことで了解していただいたと思います。
>>904と
>>906に補足
>さあ今から聴聞に出かけます。
>これは善ではないんですか?それとも「善とはいわない」というだけのことでしょうか?
真宗の法は、徹頭徹尾、自力(凡聖とも)を廃して、阿弥陀様の大善(御名号)のみ
をお勧めするものです。御名を聞かせていただかない限り、いくら御聴聞の座を重ね
ても、自力である限り、「0点」です。真宗の教化はこれに徹するべきで中間を認めるべき
ではありません。菩薩でもない底下の泥凡夫に「破邪顕正」などできようはずはありません
が、たとえ菩薩様の自力行であっても真実弘願門からみる限り同様に「0点」です。
聴聞の座へ足を運ぶ回数を重ねたり、教団への献金、勧誘、教団グッズの販売などの諸活動
によって、より「真実に近づく」ことができるなどと教えられるとしたら、それは「間違い」
です。自力である限り「何をしても何をしなくても」0点は0点のままです。阿弥陀様の御本願
は、「今ここ」で聞かせていただくものです。聴聞の座へ足を運ぶ回数を増やせば、増やすほど、
「獲信」の確率?が増えるかのように宝くじでも買うようにw考えられてる方もおられますが、
それも間違いですね。今ここに来たって下さっている阿弥陀様の願い(=南無阿弥陀仏)をはね
つけているわけですからね。聞名は場所や時間の指定のない「一念」です。南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。
(つづく)
>>908の続き
他力回向」の次第は「行信次第」でありますから、十劫の昔に法蔵菩薩様が完成くださった「大行」=
「南無阿弥陀仏」を聞かせていただけば「他力信」が決定します。
「機受」の次第は「信行次第」ですから、真実の仏心をいただけば、御恩報謝の称名となって顕れてくだ
さります。その称名の体は、阿弥陀様の真実の大行ですから、真宗では信前信後を問わず、「自力の行」が
勧められる余地はありません。
調熟の光明も全て仏様の御回向の一人働きですから、衆生の自力の所作によって「厚くなったり」「近づいたり」
することはありません。じゃあ何もしなくてもいいのかというワンパの反問があるでしょうが、
もちろん何もしなくてもいいはずはなく「今ここで仏名を聞かせていただかなくてはなりません。」近づくも遠ざかる
もなく「0点」(自力虚仮)か100点(他力真実)しかありません。南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。
さあ今から「プライド武士道」を視ますww。昨夜はここのチャットをしながらでしたので地上波の「K−1」に集中
できませんでしたwww。
?
>>「何をしても何をしなくても」0点は0点のままです。
出た出た。こういう人がいるんだねえ。
困ったものです。
913 :
110:04/05/23 17:42 ID:VRjM1OoJ
>>549 直入の機とは何ですか?我々はそれに入るのか入らないのか、どうしたら分かるのですか?
>>551 今のところ特に反論いたしません。
>>655 大事なところですのでこの後とりあげます。
>>694 これもこの後取り上げます。
914 :
110:04/05/23 17:47 ID:VRjM1OoJ
915 :
110:04/05/23 17:54 ID:VRjM1OoJ
>>876 はい。東条英機も皆、三願転入して救われています。
>>869 なぜカルトにしたがるんですか?
916 :
110:04/05/23 18:15 ID:VRjM1OoJ
>>871 あなたの横出の定義が誤りだということです。
もしくはあなたの説も横出だということです。
917 :
110:04/05/23 18:15 ID:VRjM1OoJ
>>881 そこがあなたの誤りですね。善が出来ないと聞いているのと、まことだった、
と知らされるのは全く別です。
阿弥陀仏に救われて、一つの善も出来ない、とはっきり知らされている人はよろしい。
未信の者は、何とかすればなんとかなれる、善ができるという心が棄て切れません。
これを自力の心というのです。
善ができないんだよ、と聞いて「そうでしたかー」と思っているのと、
一念で仏智満入して曠劫流転してきた私、未来永劫浮かぶ瀬がない、
どこのどなたが助かっても私だけは絶対に助からないという真実の自己が知らされ、
悲泣悶絶し、こんな私が善ができるなどと思って阿弥陀様の御心に五寸釘を打っていた
自力の心の恐ろしさがはじめて知らされ、三品の懺悔に等しい懺悔をするのとは、
天地雲泥の差、月とスッポンどころではない違いですよ。
その真実の自己が知らされるのは一念です。信前は自力の心があるのです。
善が出来ると思っている者に、じゃあやってみよ、とやらせてみて、
出来ないことを知らせる善巧方便なのです。
真実と方便の関係を知らないのは、真実を知らないからです。
手段の大切さを知らないのは、手段なんて教えるのは間違ってる、と言うのは、
目的の大切さを知らないからです。目的を果たすために手段があるのです。
目的を果たすのに邪魔になるのなら手段ではありません。
手段がなければ目的だけあっても絵に描いた餅、階段のない2階です。
上れません。上ったら、階段は無用になります。棄てればいいし、そこで初めて棄てられます。
浄土真宗は真仮廃立のみ教えです。仮は捨て物です。真は立てるべきものです。
真に入った時、仮は捨てさせられますが、入ってもいないのに自分で捨てたつもりになっても所詮がありません。
捨てたつもりも、自力の仕業です。
918 :
110:04/05/23 18:19 ID:VRjM1OoJ
>>897 あなたのことを真剣な求道者だと間違われていたんですよ。
919 :
110:04/05/23 18:27 ID:VRjM1OoJ
★親鸞会が横出だという法難について。
19願を勧めているから云々かんぬんと言う方程式がちらほら見えましたが…
「ある団体は、19願を勧めている」と言った場合、この団体は横出と言えるでしょう。
本会はどうでしょうか。これではないのです。
本会は、三願を別々のものとして捉えるのではなく、関連付けて捉えています。
19願だけがどうこう、とか、18願だけがどうこう、とは申しません。
別々の、独立したものだと思われている方からこういう攻撃が出てくるのはやむを得ないとは思いますが、
そういう見解ではないのです。
それでは、本会の教える所が分かるはずがありませんね。
920 :
110:04/05/23 18:31 ID:VRjM1OoJ
>>332氏
「19願の約束の相手は十方衆生とはっきりあるが、実はこの対機は聖道の聖者である」
という御主張、誠に斬新で面白いものですが、あなたは、イダイケが聖道の修行ができる聖者に
見えるのですか?
921 :
110:04/05/23 18:42 ID:VRjM1OoJ
★信仰が深まるなどという表現は不遜だ、などの法難について。
自力と他力は確かに0点か100点か、です。自力では絶対助かりません。
他力は円融無碍の救いです。じゃあ自力が廃って他力に入る一念までは、どうなのか?
人によって救われるのは遅い早いがあります。蓮如上人は、宿善も遅速あり、
されば已今当の往生あり、と言われています。
自力から他力に入るのが、そんなに簡単だと思われますか?
自力と他力は共通点がないのです。相対の幸福しか知らない者と、絶対の幸福は無縁です。
かすりもしません。そんな相対の世界に住む私たちを、絶対他力の世界に入れてやりたい、
本当の幸福にしてやりたい、と、18願を建てて下され、続けて19願、20願を建てて下されたのです。
>>913 >直入の機とは何ですか?我々はそれに入るのか入らないのか、どうしたら分かるのですか?
「直入の機」とは、文字通り弘願に直入する機類ですが、確か宗乗の用語じゃないでしょうか?
>>549や
>>655でも書いたように宗乗上での「三願転入」の解釈は多岐にわたるようだし、
書き忘れましたが、他にも三願転入は一念浄信の心相を開いたものという説もあり、これは
505さんの説に近いんじゃないでしょうか(違ってればご指摘お願い致します)? これと
か比較信仰論という説では、必ずしも時系列が問題になりませんし、特に前者だと転入と直入
の相即的な解釈も可能ですから、「直入の機」を分別する必要すらなくなってきますね。
まあ、われわれがそれに入るか否かとか、過去世に要門を経てきたか否かとかは、信前にはわか
らりません。他力信をいただけば、信相の上に、その体はあくまで他力回向ですが、要門・真門
の照育の御徳も信知させていただけます。まあ「宿善・無宿善」と同じですね。
乙です。
負荷が軽くなったか。
>>920 >あなたは、イダイケが聖道の修行ができる聖者に
>見えるのですか?
経にははっきり「汝は是凡夫なり」とあり、説かれる行は難行の「定散十六観」で
ありその証果が「無生法忍」ですから、古来議論をよんだとこですね。聖道諸師は
、韋提希夫人を所修の行と証果から「大菩薩」の権化と釈され、善導大師の師である
道綽禅師でさえも「ここを以って韋提大師(菩薩)」と聖者と解釈なさったところを
、善導大師独り「夫人は是凡夫にして聖に非ず。」さらに善導大師は、九品も全て凡と
され、上品の「三心」も九品に通じると解され、経の密意は、凡夫相応の下々品の十念
(御本願=十八願)の念仏往生にあったことを明かされたのですが、親鸞聖人は、さら
にその意を徹底され『観経』を「機実法権」の法門であることをあかされたわけです
(当然、「三心」の実義は「他力信心」であり九品の差別もない)。まあ『総序』では別の
意味で夫人を「権化の仁」と言われてますが。
聖道諸師は、親鸞聖人言われるところの「顕説」(表向きの)「定散十六観」を実義と
みられたゆえに、夫人を菩薩と解されましたが、聖人は、経の実義を「(他力)念仏往生」
とされたわけですね。従って真宗と違い顕説の「定善十六観」を実義として修行することを
勧める立場からは、夫人は菩薩となるわけです。505さんも何度も指摘なさってますが、
仏道の諸行を実践するとは、所修の法門が実義であるその証果を目指して修行するものです
から、はじめから権仮方便だとしての諸行の実践はありえません。
真宗では、「三経差別」の相からは、『観経』を「機実法権」として、権の法門は、聖道門の
機類を誘引する「権経」と見做しますが、「三経一致」の立場では、『観経』も弘願真実を説く
お経として一切衆生にに他力念仏往生一つを勧められたとするわけです。南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。
>>927 訂正
>(誤り)顕説の「定善十六観」を実義として→(正解)顕説の「定散十六観」を実義として
929 :
711:04/05/23 23:50 ID:ofedGI5B
三願転入ということが話題になっていましたが、
それは回心(信心決定というのでしょうか?)
に至る段階(ステップアップ)のことを
言うのでしょうか?
>>929 >【68】ここをもつて愚禿釈の鸞、論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化によりて、
>久しく万行諸善の仮門(十九願)を出でて、永く双樹林下の往生を離る。
>善本徳本の真門(二十願)に回入して、ひとへに難思往生の心を発しき。
>しかるにいま、ことに方便の真門を出でて、選択の願海(十八願)に転入せり。
>すみやかに難思往生の心を離れて、難思議往生を遂げんと欲す。
>果遂の誓(第二十願)、まことに由あるかな。
教行信証化身土文類にあるこの文で表されたものを三願転入といいます
しかし、この文の解釈には議論が多くあります
適当に思い出されるものを書き出すと
聖人の体験として
1)聖人が実際にこれを体験したのか、それとも信後に精神遍歴を語ったものなのか?
2)この三願各々の段階は聖人の人生のどの時期にあてはめられるのか?
A、聖人の今生に限定する 例、比叡山→黒谷 比叡山→黒谷→関東
B、聖人の前世をも含める
C、精神遍歴であり、単純に当てはめることはできない
等々諸説あり
我々の問題として
1)信を得るためには、聖人と同じく三願転入を我々も体験する必要があるのか?
2)あるとすれば、物理的に諸行を修す必要はあるのか?
3)三願転入は回心に至る精神遍歴であり、信を得て過去を振り返ることで自覚できるとするか?
諸説多々あり
三願転入を回心に至る精神遍歴とするのがもっとも無難だと思う
931 :
名無しさん@3周年:04/05/24 01:28 ID:lKUbjCnP
ところで、親鸞会は要門を通らなければならないとするらしいが、20願の
願行を修しているのか?それとも誰もまだ20願に回入していないのか?
なんにせよ19願を通るのに定散十六観もやらないで
それ以下の道徳に毛が生えた程度の善で「善の出来ない自分」と
知らされるのかどうか怪しい。
20願に至っては皆無だし。
933 :
名無しさん@3周年:04/05/24 01:54 ID:lKUbjCnP
高森会長は龍谷大学時代、I先生のご教化の下に、頓速に信心開発したものと、
過去ログにあったが、110さん、そのあたりはどうよ!
よ
935 :
505:04/05/24 08:44 ID:eExMd8+E
>>919 >本会は、三願を別々のものとして捉えるのではなく、
関連付けて捉えています。
今回はここだけ返答しておきます。
332さんの、
>>927には本質的なことが書いてありますから熟読してください。
法門というものは本来それぞれが独立しています。そして
>所修の法門が実義であるその証果を目指して修行するものです
から、はじめから権仮方便だとしての諸行の実践はありえません。
と332さんがご指摘のように、ある法門の証果を目ざして修行するものです。
そんなことは仏教学のイロハではないのですか?
あなたの見解は、あなたまたは親鸞会独自の、もはや仏教ともいえない見解であると
判断されてもしかたがないでしょうね・・。
そもそもあなたは横出、横超を明白に分別されている愚禿抄を拝読されたことは
あるのですか?
>それでは、本会の教える所が分かるはずがありませんね。
仏教を少しでも知っているものには誰にも理解不能でしょうね。
もっと通仏教を馬鹿にせずに学ばれたらいかがですか?
936 :
名無しさん@3周年:
>ある法門の証果を目ざして修行するものです。
そんなことは仏教学のイロハではないのですか?
会で何を教えられているかも知らないで批判しているひとたちが多い
ですから理解できないのはしかたないですね。こういうのを無責任な批判と
いうんですよ。
昔「阿弥陀仏に向かってする善はこころがけの良い善だと教えている」という
根も葉もない話も出ていました。
19願は「善をすすめる方便」の根拠として示されているのであって
19願を修行しなさいとかいうことはお聞きしたことは私はありません。
19願横出は臨終の救いですが、会でそんなことをお聞きしたことは
ありません。
お釈迦さまはイダイケを18願に導くために定善散善をすすめられました。
これは「善のすすめ」であって臨終業成をすすめられた方便ではないのです。
「諸善万行ことごとく 至心発願するゆえに 往生浄土の方便の
善とならぬはなかりけり」は臨終の救いを求めるためのものではなく
19願の方便は「善のすすめの方便」であるという意味です。
それが19願にたいする聖人の見方です。