>>824 > 本当の元凶は、自分の神だけを信じないと地獄に落ちるとか、救われないと
> 決め付け、外部(例えば十字軍や植民地主義)や内部(魔女狩りや異端弾圧)
> を脅迫してきた、ユダヤ・キリスト・イスラム教など「一神排他教」の連中。
> 今ではそれを真似した、エセ仏教や神道教団が目立つが、元はと言えば、
> 2000年以上も世界的に、口では愛とか平和を唱えながら、現実には
> 恐怖とエゴ、圧制の手先となってきた原理主義的一神教こそが、原罪元凶。
排他かどうかは問題ではない。
なぜなら、だ。
「排他で無い宗教はよくない」という「非排他宗教」は
論理上、排他的宗教を拒絶迫害することになるからだ。要するに言葉のレトリックであって実態は変わらないのである。
一方で「宗教家同士も仲良くやりましょう」なんてのは非常に穏健に見えるが
そもそも宗教というのは根源的な存在に関する根拠無き固定観念なのであって
そうした「宗教同士の談合」は宗教の宗教たる存在価値すらを危うくする。
「そんな宗教でもあったほうがいい」、もしくは「あってもいい」という理屈は純粋に宗教を評価する上ではありえないのであり、
もしそんなことをいう者には「まず自分から宗教団体を組織することをやめることからはじめなければならない」というべきである。
団体宗教というのは超越的存在に関する根本的な議論の結論が既に出ているという前提でこそ意味を成す。
そうでなければ各個人が自らに問い続けるべき問題であって宗教団体が擬似権力や権力そのものを持つことは間違いであるといえよう。
結局宗教というのは「真に正しい一つ」以外の宗教を除けばすべて嘘っぱちに過ぎないということになる。
この論理を覆すとなれば人間は論理に基づいている「これまでの社会」と「今の社会」と
「これからの理にかなった社会」をを否定しなければいけなくなる。
つまり宗教同士は根本的に争いあうものであり、実態もそうであることに争いはない。
そうした醜い宗教の実態を外部から見ることで一般の人間は
「宗教団体など人間が運営する取るに足らない詐欺集団である可能性が高いので近づかない」
という結論に達し、遠ざけかかわらないようにするべきなのである。