ほんとに単純で素朴な疑問ですが。
お坊さんってなぜお寺で修行するんでしょうか?。
出家までする覚悟があるんならお寺じゃなくても
良いんじゃないかって気がするんですが。
今の時代お寺じゃなくても経典も自由に手に入るし。
なんかひねくれた書き方で申し訳無いですが。
>938
自分は禅宗で言われてることしか知りませんが、禅では「師承」を重んずるからですね。
仏法は、水を器から器に移し変えるようにしてうけつがせるものである。
そうあってこそ、仏法の真髄が後世に正しく伝わっていくはずである。
弟子が得た法は、祖師の方々と寸分の違いがあってはならない。
それを点検するために師が弟子の境涯を試し、間違いないと決定したときに印可を与える。
たとえ師承の外で自分で法を自得したとしても、その正邪を見極めるために必ず法を受け継いだ
師匠による点検を受けてはじめて正しく仏法を伝えるものとする。
「無師独覚は天然の外道」とも言われます。
こんなところでしょうか。他の宗派は知りませんが、大方こんなところじゃないですかね。
>>938 戒律で決まっているからです。
安居制といい、一年のうち定められた期間は寺院に定住し、本来は外出を
禁止されています。
だからなぜその戒律が、って質問じゃないかな
戒律で決まっているだなんて、質問者は知らなかったと思うよ
「なぜ盗みは悪なのか?=法律で決まってるから」みたいな
944 :
名無しさん@3周年:04/09/10 21:20:49 ID:tum38XPm
>>931 新宿駅の地下道あたりでうっかり目を合わせると
「あうーーーっ!」とか「うがうがーーっ!」とか言いながら近づいてくる人がいます。
不注意で目を合わせてしまうのは大変危険です。
質問というか相談です。私は仏教というか宗教に全く詳しくない、全然興味のない(といったらこれからする相談に矛盾が生じるかな?)人間です。
一ヵ月前に失恋してから、どうしても復縁したかった中、
ある日たまたま密教真言の本を見つけ、愛染明王様のことを知りました。
そして毎日愛染明王様の真言を唱えたりしてたんですが、
実物があった方が念がこもりやすいと思ったので、
先日ネットでとても小さな愛染明王様像を買いました。
それを飾って真言を唱えてたんですが、母(仏教らしい)がそれを見付け、
「何これは!?こんなの飾ってたら霊がつく!
霊がついたらあんたの将来は占い師しかないよ!」とか非常に憤慨しだしました。
私は恋愛の神様を飾ってるのを知られるのが恥ずかしかったため、
「別にいいじゃん。」とかゆってたら
今日母はそれを知り合いの寺に持っていきみてもらったそうです。
そこで和尚サンみたいな人が
「そういうのはやたらむやみに飾るもんじゃない。気になるならうちで処分してもいい」
みたいにいってたらしく、私にしつこく抗議してきます。
私は約一週間(これからもするつもりだけど)拝んできた私の念のこもったであろう像を捨てたくないです。
みなさんはどう思いますか?
946 :
名無しさん@3周年:04/09/10 21:57:41 ID:SKJyNrrT
お釈迦様の場合は、唯一例外的に「無師独覚の外道」とは言わないんでしょ。
その無師独覚であらせられるお釈迦様の悟りの精髄と精神とを、何らの経典に
も依らずに直接的に相伝すると主張する立場なのが、禅宗ということらしい。
>946
>その無師独覚であらせられるお釈迦様の悟りの精髄と精神とを、
>何らの経典に も依らずに直接的に相伝すると主張する立場なのが、禅宗ということらしい。
その通りです。
釈尊が無師独覚なのはそりゃ仕方ないでしょう、今世の中で広められている仏教の開祖が
釈尊なのだから。
で、仏教ではその釈尊の得た悟りを求めるわけですから、無師独覚が戒められるのは
矛盾してるとはいえないでしょう。
ただ、何の経典に依らない…というのは、お経を読まない、お経に反するというわけではなく
経典の中の内容そのものを直に伝えるということを指します。
日本臨済宗中興の祖といわれる白隠も、42歳の大悟はキリギリスの鳴く中法華経を読んでの
ことでしたし、経典を無視したりそれに反する内容を説いているわけではありません。
948 :
◆2CMtjCEakk :04/09/10 23:17:13 ID:TEFR7iDd
>>945 まじめな話、執着はよくない。
念のこもった像は、仏教の教えから遠く離れたところにある。
捨てなされ。
>945さん
ちょっと前置きが長くなりますが、宜しいでしょうか?
愛染明王は恋愛成就の明王だと言われていますが、それが何に対する恋愛か?ということは
大問題だと感じます。
密教も仏教の一つであるところ、その目的は釈尊の成就した悟りを得ることにあります。
四十二章経の16章や22章で愛欲を抱いていては成道はできないと説くところ、愛染明王が
いわゆる人と人との恋愛を成就させるものだとは思いません。
自分はこの愛染明王は「自分の恋愛という小さな欲望を、一切衆生への慈しみという大きな欲望に
変える」ことを意味するものと理解します。
すなわち、愛染明王を観じ真言を一心不乱に唱えることによって、やがて心が真言に集中しきって欲望を離れ
澄みわたり、その結果己も己の欲もなくなり真の大きい我を発見し、大きい慈悲を抱く境地に進むのが
愛染明王の意味だと思います。
つまり、愛染明王の愛は「仏法への愛」を司るとでもいいましょうか。決して凡夫の煩悩そのままを肯定している
わけでは無いと思われます。
自分は愛染明王をこのように考えています。
続き。
…で、愛染明王の像云々ですが。
別に捨てたくなきゃ捨てなくても良いんじゃないですか?
前レスで述べた通り、自分は愛染明王は恋愛キューピットではないと思います。
ゆえに、愛染明王祭ったり、真言唱えて相手のハートが射止められるかと言われれば絶対そんな
ことはないでしょう。
愛染明王かざろうがかざるまいが、鰯の頭飾って祈るのと大差なし。
そういう像をかざって何か悪いことでも起きるのではとお母さんは心配されてますが、
自分の立場では、像以前に愛欲に支配され、そこから生まれる怨みや妬みなどの心によって様々な悪いモノを
招くと思います。像を捨てたところで心を改めなければあまり意味はない。
んで、仮にヨリを戻せても、それは単なる偶然の産物に過ぎない。
千歩万歩譲って何らかの霊験があって思いが通じたとしても、それは真の愛染明王の功徳ではなく
愛染明王の皮を被って人を愛憎地獄に招きいれる狐狸や悪魔の類の甘い誘惑だと思います。
…というのが自分の意見です。
おまけ。
こういうことを書くと、多分理趣経を引き出してくる方がいると思うのでフォロー。
よくネットのサイトでは理趣経の文「門所謂妙適C淨句是菩薩位慾箭C淨句是菩薩位」を
愛欲肯定みたいに取っているところがありますが、これは直訳すれば
「妙なる快楽は本来清らかであるという句は菩薩の立場である。
欲望の矢が本来清らかであるという句は菩薩の立場である。 」
という意味です。別に欲望を肯定し積極的に勧めている文句ではない。
「本来」清浄であって、今ある姿が清浄とは限らない。
白隠禅師は法華経の大意を汲んで「衆生本来仏なり」と説かれましたが、何もしなくても
そのままこの身が仏かといえばそうではない。
愛欲を離れた仏の目から見れば妙なる快楽も本来清らかではあるけれども、
愛欲にまみれた我々が妙なる快楽を見るとき、それは単なる顛倒妄想しか生まない。
理趣経は決して凡夫の愛欲をそのまま肯定しているのではないと思います。
人間誰しも、「恋愛感情」をもつ生き物だ。
その恋愛感情を、自分個人の現象とだけ捉えるのではなく、「誰しも」もつものだと認識する事によって、
初めて深い人類全体への慈しみに昇華する事ができる。
「個人」から「全体へ」という、まなざしの転換によって、
「我欲としての恋愛」が、「深い人間への理解」につながり、ひいては、人類に対する慈悲心に拡大する。
ちょっと端的かもしれないが、こんなところでしょうか?
>953
…ですかねぇ。
ただ、一番大事だと思うのは「わが身なきわが身、己なき己」の”真の”自覚です。
個人から全体への転換の真ん中にこれがなければダメだと思う。
禅で大悟といい、真言で阿字不生といい、念仏で己身の弥陀という。これが無ければ
ただ執着の範囲を広げたにすぎない。
また、慈悲とは何か?ということがこれまたどえらく難しい。
ある山の寺に鹿がやってきたので、ある僧がエサをやろうとしたところ和尚が割り入って
棒で叩きのめして追い払った。
僧がそれを非難すると和尚はこう言った。
「鹿にエサをやれば人になついて怖れなくなる。そうしたらいずれは猟師に撃ち殺されてしまう。」
人を殴ることが慈悲になることもあれば、人にやさしくしてやることが無慈悲になることもある。
本当に難しいですわ。
955 :
名無しさん@3周年:04/09/11 02:23:15 ID:o6+bXWuz
体罰を禁忌としたアメリカの属国はいったいどこへ行くのやら。だね。
>また、慈悲とは何か?ということがこれまたどえらく難しい。
慈悲に喜捨を加えて慈悲喜捨の偉大なる量り知れない心、すなわち、
「四無量心」になります。量り知れない菩提心ですから、量り知れない
ものに対して、改まって何か?≠ニ難しく思案・思索に陥穽するより
は、臨機応変、活溌溌地にその都度、最善と思われる対処をしていけば
宜しいかと。
945です。
みなさんアドバイスありがとうございます。
捨てても捨てなくても、自分の心を改めなきゃいけないということですね。
私は彼と付き合ってる間は、後向きでネガティブで、文句ばかりですぐ欝ったりしてたんだけど
別れてから恋愛本とか風水とかの本読みまくって2〜3日したら
なぜか凄く前向きになって、
ちょっと気にさわるような人(以前なら氏ねよとか思ったであろう)を見ても
『まぁまぁ』みたいに心が穏やかになって。そんなとき密教真言の本を見つけたんです。
だから私は、愛染明王様に執着してるかといったら、
そんな必死に執着してるわけではないと思うんです。(自覚できてないだけかもしれないけど)
こんな精神の念がこもった像でも、仏教の教えに反しているんでしょうかね?
あと私が余計愛染明王様を拝もうと思った理由は、
ネットでいろんなサイトに「恋愛のキューピッド」って書いてあったし、
2CHの某板のスレでは愛染明王様にお願いし続けたら復縁が叶ったということで
盛り上がっていたからです。偶然なのかなぁ
958 :
金玉銀之助 ◆QShmSrkuWE :04/09/11 08:46:28 ID:9/7L4sjC
>>957 はじめまして。
私は禅宗系です。
>こんな精神の念がこもった像でも、仏教の教えに反しているんでしょうかね?
仏教の源流を辿れば、ヒンドゥー教と根っこのとこがぶつかります。
ヒンドゥー教では釈尊までも崇拝の対象にしています。
>『まぁまぁ』みたいに心が穏やかになって。そんなとき密教真言の本を見つけたんです。
これが貴方にとっての仏縁ですね。
禅においてはこれを「一期一会」と申します。
ようはご縁を大切に。
問題は貴女の、拝むか?拝まざるべきか?と、迷う心にあり。
拝んでよし。拝まざるもまたよし。
己の心を道しるべとすべし。これを直指人心といふなり。
<こんぎょく・ぎんのすけ>
959 :
949:04/09/11 11:51:19 ID:ogUTT5Nl
>957
一つ大事なことは、どこまで道を追求するか?ということです。
例えば尼となり仏門に入るのなら、愛欲は正に執着の根本、断ち切らねばならない仏法の大事です。
しかし、普通の一般人として生活するのでよいのなら、そこまで厳格になる必要はないでしょう。
一休和尚は裸で行水する女の人を見て
「女をば 法の蔵ぞというぞ実に 釈迦も達磨もひょいひょいと生む」
(女の人は仏法を秘めた蔵である。お釈迦様も達磨大師も女陰から生まれなさった)
と詠い、白隠禅師は「結婚は男女の大義である」と在俗の女のお弟子さんに語っています。
儒教では財産の話になってしまいますが
「君子財を愛す、これを取るに道あり」
(聖人君子といっても財産は愛しいものである。但し、道にかなったやり方で得た財産を愛する)
と説いてます。恋愛もこれに然り。不倫とか強引に結縁を求めるのならともかく、普通につきあうなら
別に仏教や道に反することではないと思います。
960 :
949:04/09/11 11:52:31 ID:ogUTT5Nl
続き。
ただ、あなたの書き込みを見るところ、やはり愛欲の度が過ぎて道に外れかかっていると感じます。
今までつきあっていた彼に復縁を希望する、それ自体は別に人として当たり前のことでしょう。
しかし、仏像を買って祈ったり、祈った仏像を捨てたくないと思ったりする時点でちょっと普通じゃないな、ト。
足元をすくうようですが、こういうことをする時点で自らの欲望に自ら囚われ、
確実に道を外す方向に向かっていると感じます。
真に復縁を願うなら、分かれる原因となったことを考え、その原因を解消すべく「現実に」行動を起こすべきです。
ケンカしたなら謝るとか。
で、一応しつこくない程度に努力をしてみて、ダメならスッパリあきらめて新しい恋人を探した方が建設的でしょう。
なかなかあきらめられないかもしれませんが、そういう時は恋愛のことを考えず、他の何か(スポーツ、勉強)で、
高い目標を設定して、心身を打失するまで打ち込んでみることです。
自分も男女間の関係で相当悩みましたが、失恋をふっきるためにはこれが最上の薬であることを実感しました。
961 :
949:04/09/11 11:54:26 ID:ogUTT5Nl
最後にいろいろと老婆心から。
インターネットで書いてあったり、他の人が何か言っていたとして、それが正しいこととは限らないということは肝に銘ずるべきです。
自分も仏教に興味があっていろいろなサイトを見ましたが、ウソ八百を書いたサイトが本当にゴマンとありました。
特に霊験やら加持祈祷の類は信じない方がよろしい。呪文やらなにやらで欲がかなうなら、人は努力をしなくなる。
これは明らかに正しい努力(正精進)をせよと説く仏法に反することです。
自分の欲に都合の良いことはとかく信じやすいですが、まさにそれが地獄への入り口です。ゆえに仏教では欲を捨てよと説くのです。
最後に、禅の有名な問答を一つ挙げておきます。失恋の悩みがどうしても取れないときに心に処方してみてください。
『手と手を打ち合わせれば、パチンと音が鳴るのは当たり前である。
では、片手ではどんな音が鳴るのか』
隻手音声(片手の音)と呼ばれる問答です。この片手の音は耳で聞く音ではないといわれますが、霊とか超能力とか、
そういった神秘主義のものでもありません。
あなたの抱えている失恋の問題とこの問答、よくよく時間をかけて照らし合わせ、じっくりと練って吟味してみてください。
やがては全ての雑念が消え去り、我が身も我もない、生きながら死人と成り果てたような境地になり、
そこから復活して蘇ったとき痛快に悟り、今まで苦しんできたことがまったく見当違いだったとわかり笑うことができるでしょう。
但しくれぐれも「世の中何も無い、空無だ」などという虚無主義に陥りませんよう。
金玉さんも959さんもありがとう。
>959
像買ったりするのはやっぱおかしいですかね。
959さんのいう通り、確かに拝んだりするより自分の欠点を自覚した方がいいのはわかります。
詳しく言うと失恋してからネガティブになっていた2〜3日の間は
自分の欠点と見つめ合ってて、とても反省してたんですよ。
でもそのうち、『欠点が自覚できたんだからなおせばいいじゃん。
いつか直せたら、その時まだ彼を好きだったら改めて気持ちを伝えよう!
この失恋も、自分の欠点をみつめ直すために彼がくれたプレゼントだと思おう!』と
思ってきたらだんだん気持ちが穏やかになってきて。
確かに拝むだけじゃ何も進展しないから、今度自分から気さくな感じに彼に連絡でもしようと思っているんです。
だからあんまり自分ではおかしいという自覚はないんですよね…。
プラスαで愛染明王様に拝んだりしたら復縁効果倍増かな?みたいな。
私が疑問というか不安なのは、
像に念を入れたら霊が来やすいのは本当なのか?ということなんですよ…
なんか言い返すみたいな形になってすみません。
>でもそのうち、『欠点が自覚できたんだからなおせばいいじゃん。
>いつか直せたら、その時まだ彼を好きだったら改めて気持ちを伝えよう!
>この失恋も、自分の欠点をみつめ直すために彼がくれたプレゼントだと思おう!』と
>思ってきたらだんだん気持ちが穏やかになってきて。
>確かに拝むだけじゃ何も進展しないから、今度自分から気さくな感じに彼に
>連絡でもしようと思っているんです。
建設的で良いと思います。幸せになれると良いですね。
>像に念を入れたら霊が来やすいのは本当なのか?ということなんですよ…
わかりません(笑)
同じ条件下で、拝んでアタックするのと、拝まずアタックするのを両方することできないですし、
霊の存在や奇跡・功徳の類は証明不可能ですからね。
像に念がこもる、霊が来る云々はさておき、毎日拝んだり念じたりしているとやっぱりそういうのは顔や雰囲気に出ます。
あまり気合入れすぎて煩悩ムンムン、鬼気迫る表情で迫ってくる女の子より、
慎ましやかでサラリとした態度で接してくる女の子の方が男は振り返るんじゃないかと…
好みの問題かもしれませんが。
自分はヅラあまり良くないですが、過去に珍しく女の子に言い寄られたっぽいことがありした。
でも迫力ありすぎたんでゴメンしました。喰われそうで怖かった(^^;
むしろ、しばらく彼のことは忘れ、仏像拝むのもやめてスポーツとかバイトでも精出して、ふと気がついたときに
サラリと電話するなり会うなりした方が良い結果が出ると思うのですよ。
…っと、仏教からどんどん話がズレていくのでこの辺りで止めて。
一ついえるのは、仏教は「欲は苦であることを悟って欲から離れる」のを本義にしているものなので、
こういった恋愛や、恋愛成就のまじないの類は全否定することだけ述べて終わります。
964 :
949:04/09/11 15:08:45 ID:WLJLf0nQ
963=949ってことで。
965 :
金玉銀之助 ◆QShmSrkuWE :04/09/11 16:33:33 ID:9/7L4sjC
>>962 >像に念を入れたら霊が来やすいのは本当なのか?ということなんですよ…
「念を入れる」というのは、仏教では聞いたことがありません。
ちなみに真言密教ですと、宗旨は如来蔵思想です。
宇宙そのものを如来の当体。という考えです。
ゆえに、念を入れずとも山川草木悉有仏性。そのままで貴女も仏様です。
禅宗の考えですと、拝んでも功徳はありません。
むしろ作仏(作為に仏を作る)することを否定します。
一休宗純などは、仏像を薪(たきぎ)にして暖をとったこともあります。
そもそも仏教とは、ご利益信仰ではありません。
しかしながら、貴女が迷うのであれば明王像に帰依なさるのもよろしいかと思う。
ただし、いつかは明王像を壊してしまう日があらんことを祈念します。
その壊した日こそ、貴女が明王となる日なのです。
どうか開眼なされまし。
<こんぎょく・ぎんのすけ>
966 :
名無しさん@3周年:04/09/11 20:05:13 ID:Pg3oPZe+
自分が要れ込んだものには、愛着が湧くのが人情ですね。星の王子様も自分が
世話をしてやった花は、世界でも特別な「たった一本の花」になるんだという。
恋愛もそうですが、人間にとって一番辛いのは親しい人との死別でしょう。
仏教的な意見では、執着は良くないと言われますが、良くないからと言っても
止められないのが、これまた人情であります。
しかし、無常というのは不思議なもので、親しい人との死別も、少しづつです
が、何時の間にか自然に和らいでくるものです。(ホントだよ。
辛い時に辛い気持ちになるのは、むしろ当然のことと思いますね。
それだけ、自分にとって大切な時間だった証しですよ。
何時かきっと、彼そのものよりも、彼と共に過ごした時間の掛買のなさに気が
ついて、感謝の気持ちが溢れ出てくるかも知れません。
思い出してみれば誰でも今まで生きてきて、大切なものや愛する人と別れ別れ
になりながらも、自分の人生を歩み出そうとしてきたんだろうね。
出会いが人を作り、別れが人を鍛える。
出会いの不思議と別れの不思議。それらが織り成す人生の不思議。
霊のことなど取り出さずとも、不思議な事は身の回りに溢れていますよね。
>>937 社会学はともかく、文化人類学よりも宗教学のほうが成立早いでしょ?
「宗教」は人類(あるいは民族)に普遍的な行為である。
と認めることができてから「宗教学」は始まるんだと思うし。
ぼくもどういうニュアンスで使われたのかは分かんないけど
学術的見地ってよりは意味論的見地って言ったほうが親切かと思う。
968 :
◆2CMtjCEakk :04/09/12 01:33:05 ID:BqQAXA5k
>像に念を入れたら霊が来やすいのは本当なのか?ということなんですよ…
それに対する答えは、仏教には用意されていないでしょうね。
ですから「わからない」というのが、仏教徒として、正直な答えだと思います。
それに、さも分かったように答える人は、仏教ではない別なもの、ということです。
969 :
名無しさん@3周年:04/09/12 18:01:46 ID:LyjT/sUz
霊道について、教えてください。霊道の上に家を立てたり、霊道の通る部屋に
住んでしまったら、必ず、災いが起きるのでしょうか?また、霊道を見分ける
方法や霊を封じる方法があったら、教えてください。
一休ではなく丹霞天然なんだけど。。。
WEBサイトのみならず、まがい物は、実は近くに存在する。
971 :
名無しさん@3周年:04/09/13 01:15:15 ID:VlguZh0Z
>>969 封じるという方法では根本的解決にはならないと思いますが、
水晶球を置くと良いと思います。わたしの体験では、明らかに
「ラップ音」が軽減されました。しかし、更に願うとすれば、
なによりもあなた自身が正法と仏様に帰依なさって、慈悲の
波動を相手に伝えてあげることです。そうすることによって、
彼ら幽霊となって現れる餓鬼界からの波動はおのずと遠ざかって
いくでしょう。
972 :
他力本願:04/09/13 13:51:24 ID:8xXVo+wb
仏教とは本来は修行によって「空」を悟り、涅槃に赴くことだとききました。最近ある方から、「縁」を受け取ると死後に涅槃にいくことができるとききました。それは他力本願によってだそうです。仏法においてありうるんでしょうか?
世界的に有名名ソギャル・リンポチェ師(「チベット生と死の書」の著者)の来日特別講演です
1)上 智 大 学 の 一 般 講 演
テ ― マ : 「生と死の書について」
−困難な時代を生き抜くための思いやりに満ちたアドバイス―
日 時 : 9月23日(木) 開場 13:30 講演 14:00
会 場 費 : 1800円
場 所 : 東京都千代田区紀尾井町1−7(8号館 4階410室)
(JR四谷駅下車徒歩5分)
エスニックな雰囲気に包まれたラウンジ
2)ス − パ − デ ラ ッ ク スでの一般講演会
テ ― マ :「 混迷する世界で心の平和を求めて」
―チベットの仏教的な智慧で心に打ち勝ち、
あなたの生活を変えていく―
エスニックな雰囲気に包まれたラウンジでマーシャルのDJや大岩昭之写真展、琴奏者磯貝まきのソロ・パーフォーマンスをお楽しみ下さい
日 時 : 9月24日(金) 開場 19:00 開演 20:00
会 場 費 : 2500円
場 所 : 東京都港区西麻布3−1−25 B1F
電話 (03)5412−0515
お問い合わせ、ご予約は9月7日より下記へ
チベット文化研究所 東京都品川区西五反田2-12-15-401
(03)5745−9889(TEL)
3493−3883(FAX)
http://homepage3.nifty.com/tcci/ 非常に貴重なチベットのリンポチェ(高僧)による、一般向けの分かり易いお話です.
974 :
937:04/09/13 21:17:43 ID:yiLHcPp9
>>967 たしかに文化人類学をもちだしたのは
少々安易だったかもしれません。
でも、文化人類学っていえば新しいけど、
民族学といえばその歴史は古いんじゃないですか?
19世紀には学会が開かれている。
ところで宗教学の成立ですが、
宗教が人類にとって普遍的な行為であると認識されたときをもって
宗教学の成立時とするのであれば、
それは宗教の概念がはっきりされていなくては
なりません。ちょっとこれをもって成立時とするのは
無理があるのじゃないですか?
欧米ではアミニズムや多神教を宗教とは
みなしていない人も多いでしょう?
975 :
◆2CMtjCEakk :04/09/13 23:11:36 ID:ef/DDo5r
>>972 「他力本願」は、似非仏教ですな。
おこたらず、修行せよ、というのが、釈尊の遺言です。
977 :
名無しさん@3周年:04/09/13 23:43:52 ID:CO1aXGWx
修行にのめりこんでしまう悪習を改革したのが釈迦です
そのままで、自ずから整っていることを知ればよいのです
そのための仏の知恵です
それは特に修行じみたことを要しません
自力といえども他力の中にあるものです
978 :
◆2CMtjCEakk :04/09/14 00:06:20 ID:FlTEXupu
>>976 なんだ期待したのだが、すっかり裏切られた。
そこに書いてある程度のことは先刻承知の上で発言している。
何がもっと勉強しろだ、おおば、かもの!おまえほどの鹿、馬は見たことが無い。
979 :
◆2CMtjCEakk :04/09/14 00:08:16 ID:FlTEXupu
そもそも、阿弥陀仏は、架空の仏だ、こんなもの、力が在るわけが無い。
980 :
◆2CMtjCEakk :04/09/14 00:10:20 ID:FlTEXupu
釈尊の教えは、解脱だ!
「他人が解脱させてくれるわけではない」とも経典にかかれている。
他力を信じても、なんにもならないよ。気休め以外のなにものでもない。
981 :
名無しさん@3周年:04/09/14 00:15:41 ID:SB2r9470
浄土真宗は、「他力本願」などという、いちいち回りくどく説明しなければ
誤解を招くような言葉は廃止すべきだ。
982 :
名無しさん@3周年:04/09/14 00:19:01 ID:DzvFaHht
でも禅とか瞑想とかで解脱した人って本当に居るんですか
実際他力も自力もインチキ臭いなぁ
983 :
名無しさん@3周年:04/09/14 00:19:08 ID:mLl6O+hj
勇み立って解脱だ!
なんて言って解脱するんですか?笑
何からどう解脱するんですか?
984 :
名無しさん@3周年:04/09/14 00:25:48 ID:SB2r9470
仏陀って、一体どんな生活の苦労をしたのだろうか。自分から進んでした
苦行、修行など、本当の苦労ではない。金持ちの道楽に過ぎないという感じ。
だから、その「悟り」なるものも、いささか胡散臭い。
985 :
◆2CMtjCEakk :04/09/14 00:30:03 ID:FlTEXupu
いや、これは失礼。
>>976があまりにも、おカバさんなので、とりみだしてしまいました。
う〜む。まだまだ、修行が足りない・・
986 :
◆2CMtjCEakk :04/09/14 00:32:10 ID:FlTEXupu
>>963 釈尊の教えは、苦からの解脱、迷いからの解脱、といわれています。
「他力」があるなどというのが、迷い。
>>984 釈尊は、快楽にも、苦痛にも偏らない中道を悟りました。
>◆2CMtjCEakk
念仏に力がないと言うが本当かな?
自分は念仏や浄土宗関係は余り詳しくないが、念仏すれば必ず功徳はあると思うぞ。
念仏唱えれば悪人すら救われるという。理屈からしてもそれは間違いなく言える。
それまで酒色に溺れ、人を傷つけ欲を貪り因果を信じず悪行三昧してた人間が生き方を180度変えて反省し、
身を慎み、心に必死に阿弥陀仏を念じ、口に南無阿弥陀仏を唱えるならば、もはや心に悪が生じる余地はなく、
悪行を行う余地もない。それまで行ってきた悪業がここでプッツリと断たれることになる。
過去に行ってきた悪業の報いが返ってくることはあるだろうが、これから悪業を積まないのだから
段々に業が消えゆき、心身ともに清浄になっていくことは確実である。
これを功徳と言わずして何と言おう?
そして更に修行を進めて我彼忘れ、念仏してることも忘れるほどの三昧に入れば弥陀の来迎を見ることもあろう。
来迎とは目に見えたり耳に聞こえたり霊感がビーンと閃くようなものではない。
どこか雲の上にでもいる阿弥陀如来がババーンと出てくるような奇跡とか、そういった類とは違う。
また、「念仏」といっても口でただ南無阿弥陀仏と唱えるのではない。
むかし、坊主が罪を犯した人間に「念仏しなさい、そうすれば救われる」と言ったところ「おれは人殺しをする前に
念仏しておいた。だからもう救われることは間違いないのだ」と答えたというマンガを見た。
この罪人が唱えた南無阿弥陀仏は、ただの「ナムアミダブツ」というコトバの羅列であって念仏ではない。
ナムアミダブツは身・口・意の3つ、即ち人間活動全体で唱えてはじめて真の念仏となり功徳が備わる。
罪人は口では題目唱えているが、身と心ではまったく念仏していない。
人を害しようと考えたり殺したりする仏がどこにいる?
身・口・意の一つでも欠ければそれは汚れた川の下流を掃除して上流を放置するが如し、ただの徒労だ。