うお、もの凄く伸びてますね。
横レスで失礼ながら、それでは私からも一言。
「神は変わることはない」
ということについては、私はこれと反対の立場であります。
キリスト以前のユダヤ教の神は、「罰」の印象の強い「裁きの神」
でありましたが、キリスト教以後の神は、「慈悲」「許し」の意味合いが
非常に強いのではないでしょうか。
我らが人を許すごとく、また我らの罪をも許し給え
という言葉にもあらわされているように、
「キリスト自身の教えの根幹は、許し、そして愛」
でありますし。
もちろん、神そのものはただ一つ、絶対のものですが、不変ではあり得ません。
なぜならば、神そのものが、そのままの姿で地上に現れていない以上、
あるいは自然、あるいは聖書読解者の解釈、あるいは教えつたえるものの言葉で、
千変万化してしまいます。
そう、教えの受取手である我々人間によって、神は進化も退化もしてしまうものだと
思います。
たとえば、かつて当時腐敗していたローマカトリックが聖職者が
「聖書の私読禁止」で既得権の固守をねらったことは、「退化」でしょうし、
プロテスタンティズムやイエズス会によって、糾弾され、後に免罪符が
廃されたことは、「進化」だと思います。
これらは、「神」ではなく「人」「聖職者」の行動によるものですが、
「一般信徒」にとって、「神」は、「聖職者の声」を通じてしか
知ることのできないものだったわけです。
「隣人愛」をとなえたキリストの布教によって、主なる神は「慈悲、愛の神」
という「一面」を広く知られるようになりましたし、ルターの共通ドイツ語
約とグーテンベルク活版印刷聖書によって、「神の教え」は直接市民が読める
ものとなりました。
神の姿は、変わり続けてきました。不変ということはあり得ないと存じます。
これについて、著者不明なのが返す返す残念なのですが、おもしろい
論文があります。少し長いですが、引用させてくださいね。
引用1
・神は、実在するかどうかは、私にはまだわからない。だが、神を信じる人がおり、
またその場合は、神が存在しているのと、実際的にはかわらない。
そして、その神の姿を伝えるのは、宗教の指導者や預言者、宗教学者たちである。
その神の姿とは、彼らの解釈で、千差万別である。
自らの人生全てをかけてその指針とするものもあれば、ただ私利私欲のために、
宗教を利用しているだけのものもいる。
結論として。神が実在するとする。だが、その神は、決して永遠不変のものではありえない。
神を考え、見つめ、信仰するのは、人間である。神を記録するものは、不完全で、絶えず、
かわり、変化し続けていく〔良い意味でも、悪い意味でも〕人間なのである。
神に、たとえ無限の英知があり、それによって行なわれた行為があっても、それを受ける
人間のがわに、それ、と察する能力がなければ、それは、何だかわからない行為の一言で片付けられてしまう。
例えば、ある家族の、親が、子供のためを心から思って、愛情をもって叱り、数多くの本を
読ませたとしても、子供にとっては、
[単なるうるさい親]
としか感じられないことは多くある。そして、子供が成長したとき、初めて親の意図がわかるわけである。
また、子供を自由奔放に育てた親がいたとする。本当にその子供のことを考えていたとしても子供は、
「うちの親は、本当に私に無関心だ」
と受け取ってしまう場合もある。
つまり、人間の哲学か進化し、宗教に対して[考える]ことが禁忌でなくなった以上、神を考える人間
の進化と同時に、神もまた、進化していくのである。
宗教とは、停滞するものであった時期がある。先人の教え、法を、疑いなく、かたくなに守り続けて
いればいいと考えていた時期があった。だが、私が序文でも言ったように、宗教は、どんどん疑い、
進化していっていいもののはずである。
引用2
仮に、神が、もしこの現世に実在しなくても結構。
神の存在を信じて、自分の内なる神と対話を続けていく人は、その人自身が、考え続けていこうとする
ならば、間違いなく、その人の内側にいる神は進化し、そして同時にその人も成長していくだろう。
何人も、その場合、その人に対して、神の存在を否定することは出来ないはずである。
これは、私が友人との神についての対話の時に、神の行動や神の考えを、自分なりに推測し、考え、
結論をだしたことから考えた結論である。
かつて暴君めいた懲罰の象徴であった神。しかし、いまから2000年前に行動した、一人の青年に
よって、神は、誰よりも深い愛をもった、慈悲の神へと[進化]した。
これは、私が前述した、[宗教〔神〕は、伝えるものによってその姿をかえる]という理論に従うならば、
どれだけ、イエス・キリストが愛が深い人であったかがよくわかると思う。
同時に、彼が、形式主義にこりかたまっていたそれまでの教えを、どんなに憂いていたかも、である。
いま、神を考えることが、禁忌ではない時代となっている。
それが続くかぎり、神は、進化をやめはしないだろう。
神が滅ぶときとは、他の神々に滅ぼされることではなく、その神を、その宗教を、人々が忘れさって
しまうことなのだから。
そのようにして、[死んでいった]神々は、古来、例には困らない。悲しむべきことに、
キリスト教を広めるために、故意に、悪魔と同一視され、[滅ぼされて]いった旧い神々も、
多かったのである。
人から忘れ去られた神は、当然、その存在について考えられることはない。つまり、進化して
いくこともない。さらにそれが進めば存在すら忘れられる。徹底したものになれば存在したことすら、
忘れられていく。こうなってしまっては、[実在しないかもしれない神の力]すなわち、その神を信じて
行動した人の力や、信仰心が生んだ奇跡などは、望むべくもない。これが、私の考える[神の死]である。
↑引用終わり。
長文引用失礼いたしました。
だいぶ横道にずれてしまいましたが、
「神の姿」も、変わりゆくものだとしたら、
「神の呼び名」も変わっていくものだと思います。
ただ、「それは、人間の利益のために故意に行われてはいけない」
ことと、「それが間違いであることを知りながら、起源や元祖だといってはいけない」
ことは間違いないと思います。
「エホバこそが唯一絶対の神の呼び名だ。それ以外で呼ぶのはかえって失礼だ。」
「十戒にもみだりに名を呼ぶなって書いてあるよ」
「旧約聖書にも書いてある、神はこの名で呼ぶべきだ。代名詞は必要ない。」
「キリストも、神をエホバって呼んでいないよ」
「キリストの教えの祖になった旧約聖書ではそう書いてある。そちらの方が正しい。」
「でも、当時はその発音じゃなかったみたいだよ。後に作られたものだよ。」
「同じ神をさしてあるものだから問題ない」
ということであるならば、(思い切り端折った項目書きですが)見る人によっては
「ダブルスタンダード」と思う人もいらっしゃるのでは。