エホバの証人の方いますか?

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275ヒヨッコ宗教学
うお、もの凄く伸びてますね。
横レスで失礼ながら、それでは私からも一言。
「神は変わることはない」
ということについては、私はこれと反対の立場であります。

 キリスト以前のユダヤ教の神は、「罰」の印象の強い「裁きの神」
でありましたが、キリスト教以後の神は、「慈悲」「許し」の意味合いが
非常に強いのではないでしょうか。
 我らが人を許すごとく、また我らの罪をも許し給え
 という言葉にもあらわされているように、
「キリスト自身の教えの根幹は、許し、そして愛」
 でありますし。

 もちろん、神そのものはただ一つ、絶対のものですが、不変ではあり得ません。
なぜならば、神そのものが、そのままの姿で地上に現れていない以上、
あるいは自然、あるいは聖書読解者の解釈、あるいは教えつたえるものの言葉で、
千変万化してしまいます。
 そう、教えの受取手である我々人間によって、神は進化も退化もしてしまうものだと
思います。
276ヒヨッコ宗教学:04/04/27 13:36
 たとえば、かつて当時腐敗していたローマカトリックが聖職者が
「聖書の私読禁止」で既得権の固守をねらったことは、「退化」でしょうし、
プロテスタンティズムやイエズス会によって、糾弾され、後に免罪符が
廃されたことは、「進化」だと思います。

これらは、「神」ではなく「人」「聖職者」の行動によるものですが、
「一般信徒」にとって、「神」は、「聖職者の声」を通じてしか
知ることのできないものだったわけです。

「隣人愛」をとなえたキリストの布教によって、主なる神は「慈悲、愛の神」
という「一面」を広く知られるようになりましたし、ルターの共通ドイツ語
約とグーテンベルク活版印刷聖書によって、「神の教え」は直接市民が読める
ものとなりました。

神の姿は、変わり続けてきました。不変ということはあり得ないと存じます。

277ヒヨッコ宗教学:04/04/27 13:40
これについて、著者不明なのが返す返す残念なのですが、おもしろい
論文があります。少し長いですが、引用させてくださいね。

 引用1
・神は、実在するかどうかは、私にはまだわからない。だが、神を信じる人がおり、
 またその場合は、神が存在しているのと、実際的にはかわらない。
 そして、その神の姿を伝えるのは、宗教の指導者や預言者、宗教学者たちである。
 その神の姿とは、彼らの解釈で、千差万別である。
 自らの人生全てをかけてその指針とするものもあれば、ただ私利私欲のために、
 宗教を利用しているだけのものもいる。

 結論として。神が実在するとする。だが、その神は、決して永遠不変のものではありえない。
 神を考え、見つめ、信仰するのは、人間である。神を記録するものは、不完全で、絶えず、
かわり、変化し続けていく〔良い意味でも、悪い意味でも〕人間なのである。
 神に、たとえ無限の英知があり、それによって行なわれた行為があっても、それを受ける
人間のがわに、それ、と察する能力がなければ、それは、何だかわからない行為の一言で片付けられてしまう。
 例えば、ある家族の、親が、子供のためを心から思って、愛情をもって叱り、数多くの本を
読ませたとしても、子供にとっては、
[単なるうるさい親]
 としか感じられないことは多くある。そして、子供が成長したとき、初めて親の意図がわかるわけである。
 また、子供を自由奔放に育てた親がいたとする。本当にその子供のことを考えていたとしても子供は、
「うちの親は、本当に私に無関心だ」
 と受け取ってしまう場合もある。
 つまり、人間の哲学か進化し、宗教に対して[考える]ことが禁忌でなくなった以上、神を考える人間
の進化と同時に、神もまた、進化していくのである。
 宗教とは、停滞するものであった時期がある。先人の教え、法を、疑いなく、かたくなに守り続けて
いればいいと考えていた時期があった。だが、私が序文でも言ったように、宗教は、どんどん疑い、
進化していっていいもののはずである。
278ヒヨッコ宗教学:04/04/27 13:41
引用2

 仮に、神が、もしこの現世に実在しなくても結構。
 神の存在を信じて、自分の内なる神と対話を続けていく人は、その人自身が、考え続けていこうとする
ならば、間違いなく、その人の内側にいる神は進化し、そして同時にその人も成長していくだろう。
 何人も、その場合、その人に対して、神の存在を否定することは出来ないはずである。
 これは、私が友人との神についての対話の時に、神の行動や神の考えを、自分なりに推測し、考え、
 結論をだしたことから考えた結論である。
 かつて暴君めいた懲罰の象徴であった神。しかし、いまから2000年前に行動した、一人の青年に
よって、神は、誰よりも深い愛をもった、慈悲の神へと[進化]した。
 これは、私が前述した、[宗教〔神〕は、伝えるものによってその姿をかえる]という理論に従うならば、
どれだけ、イエス・キリストが愛が深い人であったかがよくわかると思う。
 同時に、彼が、形式主義にこりかたまっていたそれまでの教えを、どんなに憂いていたかも、である。
 いま、神を考えることが、禁忌ではない時代となっている。
 それが続くかぎり、神は、進化をやめはしないだろう。
 神が滅ぶときとは、他の神々に滅ぼされることではなく、その神を、その宗教を、人々が忘れさって
しまうことなのだから。
 そのようにして、[死んでいった]神々は、古来、例には困らない。悲しむべきことに、
キリスト教を広めるために、故意に、悪魔と同一視され、[滅ぼされて]いった旧い神々も、
多かったのである。
 人から忘れ去られた神は、当然、その存在について考えられることはない。つまり、進化して
いくこともない。さらにそれが進めば存在すら忘れられる。徹底したものになれば存在したことすら、
忘れられていく。こうなってしまっては、[実在しないかもしれない神の力]すなわち、その神を信じて
行動した人の力や、信仰心が生んだ奇跡などは、望むべくもない。これが、私の考える[神の死]である。
↑引用終わり。
279ヒヨッコ宗教学:04/04/27 13:51
長文引用失礼いたしました。

だいぶ横道にずれてしまいましたが、
「神の姿」も、変わりゆくものだとしたら、
「神の呼び名」も変わっていくものだと思います。

ただ、「それは、人間の利益のために故意に行われてはいけない」
ことと、「それが間違いであることを知りながら、起源や元祖だといってはいけない」
ことは間違いないと思います。

「エホバこそが唯一絶対の神の呼び名だ。それ以外で呼ぶのはかえって失礼だ。」
「十戒にもみだりに名を呼ぶなって書いてあるよ」
「旧約聖書にも書いてある、神はこの名で呼ぶべきだ。代名詞は必要ない。」
「キリストも、神をエホバって呼んでいないよ」
「キリストの教えの祖になった旧約聖書ではそう書いてある。そちらの方が正しい。」
「でも、当時はその発音じゃなかったみたいだよ。後に作られたものだよ。」
「同じ神をさしてあるものだから問題ない」
 ということであるならば、(思い切り端折った項目書きですが)見る人によっては
「ダブルスタンダード」と思う人もいらっしゃるのでは。