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kaitabha:
>>麻さま
ご回答有難う御座います。
>そこの人々は、話を聞くと全員が大失恋や離婚経験者や、男女間の交わりを制約す
>る宗教にはまってる人たちばかりでした。
>つまり、もう個人は愛さないと心に決めたか、個人を愛することを禁じられたか、
>個人を愛せない人々が、大衆を愛する活動の一環としてボランティア活動をしてい
たのです。
成る程、上のような例は心情としてよく分るような気がします。自身を振り返って
見てもなんだか思い当たることがありますね。ただ、以下はわたしの個人的な感想
ですが、そういう「昇華」は、何だか微妙な無理をしているのじゃないだろうか、と
いう痛々しさが見てえてしまうような気がします(これはこれで艶めかしくてなかな
かよいものかも知れません)。
周知の如く「昇華」という言葉は精神分析や化け学やヘーゲル弁証法にも出て来る
のですが、一方それに対し般若経の異種である『般若理趣経』が説く所は、所謂「昇
華」という葛藤の末の、或いは時間的プロセスの末のものではなく、もっと軽やかな
、共時性のものではなかったか、と想像しております。勿論このような考えはわたし
個人の読みですし、わたし個人の信仰において目指すべき在り方かと考えています。
(もう少し付け加えれば、インド仏教史においてはそうした般若思想のアイディアル
な軽やかさや、空性と慈悲の不二というあり方(密教で言う般若方便という二方向の
共時的な働き)は、「‘現実’には極めて難解」であったが為に、後期密教において
身体の中央管(avadhUti)を菩提心(bodhicitta)が上昇してゆく「神経操作」へと
置換され、シンボル化されたのだとわたしは考えています。不二に関しては、机先生
の「無門関」板で先般少し検討されました)
菩提心為因、大悲為根、方便為究竟…わたしにとって菩提心は未だ多くの謎に包ま
れております。
よい勉強になりました。有難う御座いました。拝