609 :
名無しさん@3周年:
体は神の宮と呼ばれているのであるから、旧約聖書に出てくる天幕、
あるいは神殿との相違点について考えてみよう。
両方ともが三つの部分に分けて建てられた。異邦人のための外庭、
イスラエル人のための聖所、そして、神のみのための至聖所。
大祭司だけが至聖所に入ることを許されていたが、
それも、規定された時節のみ、厳密に律法に従ってのことであった。
ある特定の時の神殿のことを考えてみよう。神の代わりになる至聖所には
誰も入ることは許されない。しかし、同時に、異邦人も神殿にいる(外庭)
のであるし、一般のイスラエル人も神殿(聖所)にいる。また、
神ご自身も神殿におられる(至聖所)のである。
神は神殿を、清められていない人々と共有しておられるのであるが、
神ご自身の聖なる場所を共有しておられるわけではない。
同じように、人間は神の宮である。人間も三つの部分、
つまり肉体、魂、霊から成り立っている。悪霊は外庭である肉体を
襲うけれども、それより中に入ることはできない。
外庭である肉体から魂(知性、感情、意志)に影響を及ぼしてくる。
一方、聖霊は内なる人(エペソ三・十六)、つまり人の霊を
占有しておられ、内側から魂に影響を与えられる。
これによって、肉体が悪霊に取り付かれている人が、なぜある時は
悪霊の影響下にあり、またある時は、紛れもなく
聖霊に導かれていることになり得るのか説明がつく。
610 :
名無しさん@3周年:04/05/27 16:02 ID:j9xU1zhD
御霊に満たされている人が取り付かれることがあり得るのか
御霊に満たされることは、ひどく誤解され、誤用されている言い方である。
誰が御霊に満たされており、誰が満たされていないかということを、
誰が決めるのだろうか。ペンテコステ派は、もしあなたが異言で語るの
ならば、御霊に満たされているのだと主張している。
それは誤りであることを私たちは知っている。異言で語ることは、
救いの証明でさえもないのである。それらは、異言の証明にしかすぎず、
それ以外の何物でもない。御霊の実が目立って見られるだろうか。
常にそうであると、誰が言うことができるだろうか。
過去に御霊に満たされていた人が、必ずしもいつでも
満たされているわけではない。
悪霊の問題を抱えていながらも、聖霊の注ぎを受けて力強い働きをし、
御霊の素晴らしい実を現していた人にも出会ってきた。
聖霊は人の霊の中に住まわれるが、一方悪霊は外側の肉体を通して
それ以上進むことはできないということをいうことを考えてみると、
このことに対しては、何ら問題はないはずである。
人が御霊によって歩んでいるならば、悪霊には、姿を現す機会が
全くないのである。しかし、神に刃向かい、肉に従って歩み始めるならば、
悪霊は、頭をもたげ、その邪悪な行いを現すのである。
611 :
名無しさん@3周年:04/05/27 16:03 ID:j9xU1zhD
クリスチャンの中で、超自然の経験をすることを求めている人達に、
ここで警告を与えないまま終わってしまうことは正しいことではない
だろう。このことに関しては、私の書いた小冊子
「True and False Tongues(真と偽の異言)」の中で、ある程度まで
詳しく述べてある。ここで私たちを守り、導いてくれるものは真理である。
聖書はそのどこにおいても全く、ある種の経験を求めるように
私たちに命令したり、招いたりしてはいない。救いの経験、
あるいは聖霊のバプテスマ、異言の賜物、預言の賜物など、
それをどのように呼んでいようと、もしあなたの求めているものが
ある経験をすることであるならば、あなたは危険な所に
陥ってしまっているのである。
異言の賜物を求めていた時に、悪霊に取り付かれてしまった多くの人々から、
悪霊を追い出さなければならなかったことを、私はここで、
誠実に伝えておかなければならない。
異言で語る人に手を置いてもらったことによって、
多くの人々が異言の悪霊を受け取ってしまっていた。
私は、自分が救いを否定しないのと同じように、異言の賜物があることも
決して否定はしなが、しかしこういった人々は、真理から離れてしまい、
悪霊の領域に陥ってしまったのである。
ここで、こう抗議する人もいるだろう。「けれども、神様に聖霊様を
与えてくださいとお願いして、その結果、偽物を受け取ることに
なり得るなんて、信じられない」(ルカ十一・九〜十三参照)。
私も全く同感である。しかし、ここで私たちは願うことについて
論じているのではない。ある種の神秘的な経験を頭に置いて
求めることについて論じているのである。