1 :
名無しさん@3周年 :
04/02/05 18:11 教会の伝承に生きることによって、聖書の意味が明らかになると カトリックが考えるのとは対照的に、プロテスタントは聖書から始め ない信仰は偽りであるかのように主張する。しかし、聖書に向かう アプローチの違いはキリスト教問題の本質ではない。 カトリックであれば教会生活、プロテスタントであれば個人の 信仰生活に愛の成長する秩序が満ちているかどうかが問題なわけだ。 神への愛と人への愛、その人格的な倫理の代わりに絶対他律的で 偽善的な律法倫理の実践を信徒に強要され、愛の成長において窒息 させられているような教会生活や信徒生活はないだろうか?今の キリスト教に本当に愛の成長する秩序が、信徒を取り囲むすべてに 満ち溢れているだろうか?教会生活にあってそれはどうだろう? 信徒生活にあってそれはどうだろう?カトリック、プロテスタント の別なく、忌憚のない意見交換がなされることを期待している。
2 :
名無しさん@3周年 :04/02/05 18:11
糞スレ乙 ∧_∧ _ _ .' , .. .∧_∧ ( ´_ゝ`) _ .- ― .= ̄  ̄`:, .∴ ' ( ) ←>1 / '' ̄ __ ヽ´=', ・,‘ r⌒> _/ / / /\ / ̄\-―  ̄ ̄  ̄"'" . ’ | y'⌒ ⌒\ _| ̄ ̄ \ / ヽ \_ | / ノ | \ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ \__) , ー' /´ヾ_ノ ||\ \ / , ノ ||\|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|| ̄ / / / || || ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|| / / ,' || || || / /| | !、_/ / 〉 |_/
3 :
名無しさん@3周年 :04/02/05 18:17
糞レス返し!! ∧_∧ _ _ .' , .. .∧_∧ ( ´_ゝ`) _ .- ― .= ̄  ̄`:, .∴ ' ( ) ←>2 / '' ̄ __ ヽ´=', ・,‘ r⌒> _/ / / /\ / ̄\-―  ̄ ̄  ̄"'" . ’ | y'⌒ ⌒\ _| ̄ ̄ \ / ヽ \_ | / ノ | \ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ \__) , ー' /´ヾ_ノ ||\ \ / , ノ ||\|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|| ̄ / / / || || ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|| / / ,' || || || / /| | !、_/ / 〉 |_/
4 :
名無しさん@3周年 :04/02/05 21:30
福音派は、愛のない「滅びのキリスト教」。
キリストが「愛が大切」と言っている箇所を探してください。 「愛」を大切だと言っているのは、パウロの書簡にあるだけです。 キリスト教の要は「信じる」ことのみです。 愛を持っている人は世界中に大勢います。 が、キリストを神のひとり子と信じていなければ、 神の御国には入れないのです。 と、プロでは教えていますよね。
6 :
名無しさん@3周年 :04/02/05 21:44
隣人を愛してください!!
7 :
名無しさん@3周年 :04/02/12 01:01
>>5 愛が大切であることは、イエスもパウロもヨハネも繰り返し言っていますね。
“わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。”〔ヨハネ13章34節〕
“わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの
掟である。”〔ヨハネ15章12節〕
は、有名な福音書の中のイエスの言葉じゃないですか?
どうしたら、キリスト教徒がキリスト教らしい愛に結びつくかという過程や機会
は、キリスト教の奥義かもしれませんね。また、もしもオナンさんが言うように
プロテスタントの牧師が愛についての新約聖書の記述を間違って認識していると
したら由々しきことだと思いますが、昨今の教会はカトリックもプロテスタントも
揺れていますから一方的な判断を下す前に、聖書の事実を牧師に示して考えを
うかがってみることが初めに必要な手続きかもしれません。どんな教派のプロテスタント
がそのようなことを教えていらっしゃるのか、よろしかったらお伺い出来ませんでしょうか?
教団名をそのまま挙げなくても、その教団の特徴などを教えて下さるだけでも良いのですが。
プロテスタントをプロテスタントという枠でまとめるのは、余りに乱暴であると
自分は考えていて、どんな教団に属しているかとか、何派と言われるプロテスタント
なのかとか、その程度のことは限定しないとプロテスタントを語ることが出来ない
と思っていますので・・・・・。
遠くの隣人はけっこう愛せるんだな。 これが近くの隣人となるとダメなんだな。
9 :
名無しさん@3周年 :04/02/14 00:33
『人間は彼の仲間を神において、また神からして愛することによって、内的に 正しい仕方でかれの仲間に秩序づけられる。仲間を神の子としてながめ、愛するの が正しいやり方である。この愛は超自然的な隣人愛に他ならない。』 という意味でキリスト者同士、隣人どうし、神を愛して隣人を愛する実践が 信仰の基準。聖書自体は文字に過ぎず、それ自体は真理ではないし、慣習の中に それがあるのでもない。信仰の基礎には内的な平和が大切。それは 『内的な平和を有しない人間も、多くのことを一致してやることはできるが、 つまり「仲良く」やってゆくことはできるが、人間的に善い、ふかい、そして エレガントな仕方で共同生活を営むことはできない。かれらの間の協調は真に 堅固な基礎を欠いているのであって、それは利害、慣習、強制ないし外的実力 によって保たれているのである。』という指摘を鑑みるべきであるから。 教会が地獄やハルマゲドンなどのことを喧伝し宣教に利用しているとしたら、 それも全く間違ったものである。 『未来、つまり未来の事件や「変革」にたいする怖れ(不安)は、けっして真の 愛の動機とはなりえない。たんに怖れからして行動する者(援助し、大いなる 権利を譲り、均等に協力する者)は、自らの利益、適当な時期における「再保障」 の望みによって駆り立てられているのであって、好意や没我的な人助けの 心がまえによって動かされているのではない。』のであるから。 信仰生活は、愛のためにあり、教会生活も個々の信徒生活も内的平和に満た されたなかで初めて本当の信者の第一歩を踏み出すことで、個々を活かし、 教会を活性化させる一粒の塩と一人一人がなっていく気がしている。 [キリスト教社会倫理講座1.社会生活の根本問題 エンデルレ書店 P425.432より一部抜粋]
まーた護教スレか。 神様なめてますね。信でくらはい。
対して、今の教会には不安に思うことがたくさんある。 愛ではなく、怖れや強制が支配しているのではないかとか、信徒間に個別的な 隣人愛が本当にあって、その事実からお互いが神の名の下に集まっているか? など。教会生活はドグマに犯されていて、信徒も一面的およびかたくなに法の 立場を固執して冷酷で鈍感な信徒と成り果ててはいないだろうか?今、教会と 個々の信徒、聖職者の間に真の愛から始まる交流が急務ではなかろうか?
12 :
名無しさん@3周年 :04/02/14 00:45
>>10 なめてませんよ、自分は。あなたはどうなんです?その書き込み、なめた
書き込みじゃあありませんか?
13 :
名無しさん@3周年 :04/02/18 15:58
>>11 内的平和、つまり「主キリストにおける平安」がまずもって
個々の魂を占有しないかぎり、自分の殻を破って、絶対他者たる
隣人に接近することは、出来ないのではないだろうか
>1 大切な着眼点ですね。 同意しますよん。 自己(自分自身&教会&教派)点検のもっとも大切な部分でしょうね。 「報酬」(信じたり何か立派な行いをしたから認められる)と 「愛」(信じられなくても立派でなくても認められる)とを区別して 語る必要があるように思います。 キリストがくれたことは「愛」であって、「報酬」でない。 今一度ここにたちかえるべきだと考えています。
15 :
名無しさん@3周年 :04/02/18 16:49
キリスト教の「愛」は無制約的なものでしょうか。 それともイエスの「天の父」の愛の「支配」を受け入れること、 でしょうか。どっちなんだろう。
16 :
名無しさん@3周年 :04/02/19 00:06
>>13-15 それぞれの方のレス、感謝します。
キリスト教の倫理を再確認し、現実とのギャップを具体的に話し合うのはどうでしょう。
>>15 さんのような疑問は、ある程度キリスト教倫理を知ることで解決するかもしれないのです。
ひとまず、正義と愛について、キリスト教倫理の書籍からしばらく抜書きして行きたいと
自分は思っています。レスをくれたやさしい方々、暫らくこのスレながめていてください。
17 :
名無しさん@3周年 :04/02/19 00:16
正義と愛についての疑問は、ある程度キリスト教倫理を知ることが前提と なって話し合いができるのではないかと思います。ここでは正義と愛について のキリスト教倫理を一端俯瞰し、その後に重要なものをピックアップしながら 話し合いが進むようにしてゆきたいと思います。このスレをごらんの諸氏が、 主旨をご理解下さり、ご協力いただけるようお願い致します。 『キリスト教社会倫理講座 1 社会生活の根本問題』 E・ヴェルティ 著 / 稲垣良典 訳 / パウロ・エグリ 校閲 ヘルデル代理店・エンデルレ書店 昭和37年7月30日初版発行 上記書籍よりおもに『第四課 正義の徳』『第五課 社会生活における愛』 が引用の中心となります。
18 :
名無しさん@3周年 :04/02/19 00:17
〓〓〓〓〓第四課 正義の徳〓〓〓〓〓 人々がその当然の義務をしばしば、また容易に忘れるということ、またひんぱんに 不正――それもはなはだしい不正――をなすということは、経験が示す通りである。 したがって、ひとは「正」を行おうとの真剣で不断の意志によってインスパイアされて いるときにのみ、毅然として誤りなく「正」の側につくのである、ということも経験の 示すところである。それゆえに、人々の間に「正」が確保され不正が避けられることを 保証するところの、確乎とした信念、うちやぶり難い態度がなければならぬ。この態度 をわれわれは正義と呼ぶ。 【89 正義とはなにか?】 ●正義とは「正」(Recht)を対象とし、人をして各人にかれのものを与えるよう、 しむけるところの徳である。 1 人間は自然本性からして善を行う能力をそなえている。かれはまた――十分真剣に そのことを欲するならば――正しく行動することができる。だがこのような善への自然な 能力は、(T) じっさいのところあまりにも漠然としている、つまりそれは倫理的な義務 の全領域におよんでいるのであるが、この領域は見きわめがつかぬほど広く、多面的で、 変化に満ちている (U) あまりにも不確かである、なぜなら人間は個々の義務領域に たいしてぴったりと一致していず、内面からそれらへ向って傾いているというには程遠い からである。善は人間のうちにより深く根をおろし、いわばそこに住みつかねばならぬ。 すなわち、人は習練を通じて善の追求へとかためられ、善に親しんで、ついに善をゆらぐ ことなく、またあたりまえのこととして追求し、自分にとって善が「第二の本性」となる ところまでいたらねばならぬ。このような善における熟達と堅実さ、たんなる能力をこえて、 つねに善のみを欲しまたなそうとする傾向や心構え、これをわれわれは徳と呼ぶ。それは けっして自然が与えたものではなく、人間が断乎とした、そしてつねにくりかえされる 行動を通じて獲得したものである。
19 :
名無しさん@3周年 :04/02/19 00:18
2 正しい行為なるものは独自のもの、つまり人間行動のほかの領域から区別されたもの である。それは、たとえば飲食にあたって節度を守ることとは異なっており、また危険に 直面して剛毅であり、幸、不幸にさいして平静であることとも違う。正しい行為は意志に かかわることである。意志がつねにいたるところにおいて、自発的かつゆらぐことのない 決意をもって、だんことして「正」が要求するところにつくためには、かれは内面的に 「正」へとかたむいており、正しい行為をなす心構えができていなければならぬ。意志は このような心構えを正義の徳からうけとるのであり、したがって後者は聖トマス・ アクィナスが言っているように「ひとをして、確乎として不断の意志でもって、各人に かれに当然属するもの(正)を与えしめるところの、習性」にほかならぬ。 したがってひとはつぎの場合のみ正義の徳を所有している――すなわち不断の習練、 つまりいつも正しい行為をくりかえすことによって、ついには、いつでもあらゆる点を 考慮した上で各人にかれのものをあたえようとする傾向を現実に身につけ、またそのように 努力するようになった場合に。 3 「正」はきわめて高い意義を持つものであるから、人々が正義の徳を身につけ、 それによってかれらが正義のさまざまの要求(しばしば厄介なものと感じられることも あるのだが)をたんにいやいやながら、また外面的にでなく、自発的かつ内面的に 遂行するということ、また不正をなすことを正直に避けるということは、きわめて 重要である。それゆえに正義の徳を獲得し、養成するということは、正しい教育が めざす緊急な目的である。正義の徳はとりわけつぎの人々、つまりその身分ないしは 職業からして「正」(法)に仕え、人々と「正義にかなう仕方で」接しなければならない 人々にとって必要である(立法者、裁判官、権威者、さらに両親、教師、経営者、 仕事の責任者、など)。
20 :
名無しさん@3周年 :04/02/19 00:22
何かっていうとカトリックとプロテスタントで、正教と聖公会は無視かよ。
21 :
名無しさん@3周年 :04/02/19 00:22
【90 正義に必要な条件とはどのようなものか?】 ●「正」(法)の場合と同じく、正義にはつぎの三つの条件が属する。 1 自然としての「他者」。 2 対象としてのおいめ。 3 規準としての平等。 正義の本質ならびに課題は、各人によろこんでかれの「正」を与えるということに 存する。それゆえに正義は「正」(法)と同じような条件を満たさなければならない。 これらの条件については問57(※)において十分に説明した。 ※‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥参考:問57‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 《【57 どのような場合に「法」が問題になるか?】 ●法が問題になるのは次のような場合である 1 「他者」が関係するとき 2 あることが厳密な意味で責務的(おいめ)であるとき。 3 おいめをすべて完全に返還することが可能であり、またそうしなければならないとき。 1 事物ではなく、人格のみが法の主体、つまり法(権利)の担い手、所有者となりうる。 これにたいして事物は法の対象となりうるにすぎない。或る人格に属しない法は、 そもそも法ではない。法の主体となるのはつねに他人の人格(自分自身ではなく) との関連において見られた人格である。この他の人格をかんたんに「他者」と呼ぶ。 この場合大事なことは、この第二の人格が形式的にも「他者」として登場し、その ような者として見られるということ、すなわち当の(第一の)法の担い手にたいして その当該のレベルで、自律的かつ独立的な相手として現れ、出会うということである。
22 :
名無しさん@3周年 :04/02/19 00:23
〔例〕 買い手と売り手、やとわれる者とやとい主、被告と裁判官、市民と国家の 元首、など。これらすべての関係において人間は「自由な」人間として現れる。 このことは、 かれが自由な意志を持ち、自分で責任をとりうるということ だけの意味ではなく、かれが他者になんらかの形で所属しているのではない ことを意味する――たとえば子供が両親に、配偶者の一方が他方に、下僕が 主人に属するように。なぜならひとびとが血縁関係によって、もしくは或る 家族共同体のメンバーとして結びついているかぎりにおいては、かれらは お互いに法(権利)を要求することなく、むしろお互いに献身、愛着、忠実さ を示しあうからである。同様のことが同志の間柄、隣人関係、主従関係の場合 にもあてはまる(4を参照)。 2 法(つまり正しいこと)も正義(その対象が法である、問89)もおいめ(当然 与えるべきもの、ラテン語ではdebitum)の概念と運命をともにする。聖トマスは 倫理的なおいめと法律的もしくは法的なおいめとを区別している。ここで問題に なっているのは後者である。すべての徳は人間に対して、徳がめざすところに かなうようにふるまうこと、つまり徳に合致するような仕方で行動することを 義務として課する。愛は人間が思いやりぶかいことを要求し、忍耐は自らを抑制 すること、感謝の徳は自らがうけとった恩恵にむくいることを要求する。このような 場合においては、人間は自己および自らに固有の倫理的な完全性にたいして徳に かなうような仕方でふるまうという「おいめ」を持っている。だがこのような場合 には(神以外には)なんびとも債権者、要求者としてその人間にのぞんではこない。 かれはつぎのような意味ではなんびとにたいしても債務を負うてはいない――すなわち、 かれがそのことを遂行しないために或る人の明白ではっきりとした要求をむなしくし、 或る人がかれのために自分のものを奪われ、もしくはだましとられてしまうという 意味では。
23 :
名無しさん@3周年 :04/02/19 00:27
>>20 >何かっていうとカトリックとプロテスタントで、正教と聖公会は無視かよ。
そうではなく、「キリスト教」が主旨の話し合いですから宗派に関係なく
議論や話し合いに参加くださって結構です。よろしく。
24 :
名無しさん@3周年 :04/02/19 00:28
だが他者に当然帰すべきこと、属することが問題になるときには、ただちに(そして いつも)新しい事態が生ずる。すなわち人は他者にたいして、他者のもの、もしくは 他者が自分のものとして要求しうることがらを認め、もしくは返してやるように義務 づけられているからして(またそのかぎりにおいて)、おいめある者となるのである。 或ることが法的(もしくは法律的、問58)な意味でおいめとなるのは、そのことが 或る者(ないしは多くの人々)に、専有的に属すべきもの、与えられるべきものとなる、 ということを通じてである。 3 たとえば売買や賃銀契約などの場合、われわれは「均等価値」ということを問題に する。これは仕事とそれにたいする支払いが厳密に同等でなければならない――ことがら を正しく処理するためには――ということである。法は平等を制約し、つくりだす。 それは各人が自分のものをただあいまいにうけとるのではなく、自らに当然属すべき もの、自分がやったことに相当するものを、きっちりとうけとるべきことを要求する。 この規準をこえるものも、この規準にみたないものも、自由な好意としてかもしくは 法(権利)の侵害として、法の枠外に出ることになる。法はまさに人々の間に平等を 確立し、確保することを使命としているが、その平等とはかれらがお互いに負うており、 したがってお互いから要求できるようなものなのである。
25 :
名無しさん@3周年 :04/02/19 00:31
4 つぎのことをはっきりと強調しておかねばならぬ。すなわち右に説明した三つの 条件は法にとって本質的なものであって、いやしくも真にして厳密な法が問題となる ためには、欠如してはならないのである。したがってこの三つの条件のうちの一つでも 欠けるときは広義の法、ないしは多少とも厳格でない意味での法が生ずるのであり、 ここからして特殊な種類の正義ではなくて、正義の下属的もしくは補助的な徳が生ずる ことになる。これについては再言する。 (a) 両親と子供、夫と妻はお互いのものであって、かれらは「他者」「平等な者」 として関係しているのではない。もちろんかれらはひとしく人間人格であり、 そのかぎりではかれらの間にも厳密な法が見出される(父はその子供を殺したり、 傷つけたり、あやまちもないのに罰したり、カトリック信仰の表明を禁じたり、 うそをつき、ぬすみ、偽証することを命じたりしてはならない)。しかし婚姻 および家族共同体そのものは、厳密な法の下にあるのではなく、尊敬と愛とに もとづくおもいやりを基調とする。
26 :
名無しさん@3周年 :04/02/19 00:32
(b) われわれはつぎのような場合をたくさん知っている。すなわち、人々がお互いに まったくの「他者」として、すなわちお互いに独立的な人格として出会い、 等価値の返済をなすべき立場におかれていて、しかもこの返済は厳密なおいめの 性格をおびてはいないような場合を。われわれは或る贈物をもらってそれと同じ 価値のものでお返しをし、相手と同じように親しみぶかく、開放的で、ものおしみ しないという態度をとることができる。だがわれわれはこのようなやりかたで 「応じ」なくても、不正なことをするわけではない。なぜなら他者からかれの ものをなんら奪うわけではないのだから。感謝、礼節、大度さ、率直さなどの 徳はこの分野に属する。 (c) さいごに、或る者が他者に或ることを厳密な意味で負うていて、しかもこの おいめを(うけたものに)等しい価値のもので返すことができない、という場合が ある。われわれは主なる神に礼拝、感謝、罪のつぐないを負うているが、いかなる 被造物も自分が負うているものをそっくり神にかえすことはできない。両親と 祖国とには献身をもってつくさねばならないが、ひとはつねにその両親と祖国に たいしては(借りをかえしつくせない)「債務者」なのである。》 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥以上で問57の引用は終わり‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
27 :
名無しさん@3周年 :04/02/19 00:33
【91 正義がかかわるのはどのようなことか?】 ●正義がかかわるのは外的な善や外的な行動のみである。 1 すべての徳について内的行為と外的行為(活動、行動)とを区別しなければならぬ。 人はまず善を欲しなければならぬ、つまりその徳がかれに要求するところを内的に肯定し、 追求しなければならない。ついでかれはその徳の善を、行動を通じて実現しなければ ならぬ、すなわち内的な行動に対応するところの外的行動にうつらねばならない。 〔例〕 忍耐の徳はまず人間が内的に自らの怒りをおさえ、ついで外的にも自らを抑制 することを要求する。――また、自らの適量(たとえば飲食において)をこえない ことのみを欲する人が節制ある人といわれる。したがってかれは自分にとって適当な 量だけ食べ、飲むべきであって、さもなくば不節制ということになろう。 2 (正義を除いて)ほかのすべての徳の場合には、外的行為は内的行為の発展、当然の 帰結、成果、結果、にすぎない。すなわち、外的行為の価値、無価値はまったく内的行為に 依存する。秩序ある内的行為は秩序ある外的行為を生じ、ひきおこすのである。内的行為の 対象や正しさは、外部からではなく、内部から規定される。自らの内的欲求を規制する者が 節制ある者であり、そこからしてかれは事実上なにかを享受する場合に自己を抑制するので ある。正義においては別の事態が見出される。なぜなら、正義は「他者へ向う」もので あって、人々の相互間の関係を規制するからである――各人が他の者にたいして、後者に 属するところのものを与えるかぎりにおいて。このような秩序は外的行動において遂行 されるのであって、外的行動には外的な善が対応する。
28 :
名無しさん@3周年 :04/02/19 01:01
キリスト教は退化(旧約化)する一方
>>1 お前が言っているのは聖書から信仰を始めようと言ってることだ。
神への愛と人への愛の成長=聖書が言っていること。
30 :
名無しさん@3周年 :04/02/19 23:24
>>29 聖書の内容を実現する努力は、聖書を読むことから始めても、教会生活から
始めてもどちらでも良いのだと思います。この点について発言者がどちらの立場で
あるかということはまったく問いません。この点は、ご理解下さい。
〔例〕 ひとは内的な自由を他人に与えることもとりあげることもできない――外的な 自由ならできるが(だが外的自由の制限ないし破棄は間接的に内的自由を侵害する ――直接的な干渉は不可能であるが)。 売買ということは、一人がある品物、他の者が同価値の品物もしくはお金を渡すところ に成立する。いずれの場合にも外的行為と外的な財貨が問題となっている。生命、 健康、身体の保全、名誉、財産、人間にふさわしい住居の状態、これらすべては 外的な財貨であって、それらは外的活動によって供給ないし侵害されるのである。 3 ここからしてつぎの結論が生ずる。 (a) 内的な正義の行為は外的な行為によって規定される。外部からしてもたらされた 正しい要求をその通りに遂行する人の意志だけが正しいといえる。ところでかれは そのような要求を、他の者にたいして負うている外的な行動をなすか、他の者に負うて いる外的な財貨を与えるか(これはさらに外的な行動によってのみ果しうる)、に よってのみ遂行できる。このように外的な行動や財貨が、意志の正・不正を決定する ための規範であり尺度なのである。 〔例〕 なにかを買おうとする人はまずその値段を尋ねる。値段がわかってはじめて どれだけ支払うべきかがわかる――つまり、或る金額を支払った場合にのみ 正しく行動したことになるのである。このように、その人の意志は、かれが 自己を品物と値段の間の均等関係に服せしめるときにのみ、正しいといえる のである。
32 :
名無しさん@3周年 :04/02/19 23:27
(b) だが正義においても外的行為は、内的行為の実行であり成就である。すなわち、 人は外的行為を、内的な心構えからしてまた内的な心構えをもって、自らが外的に負うて いるところのものを与えもしくは遂行するために、なすのである。このようにして 円環は完結する――ひとは正義の掟を欲求し、実行するのである。 右の関係を図示するとこうなる。 外的な財貨および実行* ┌─────────────────┴──────────────────┐ *は内的な行為なしにも与えられる。 ↑ *が正しい意図を基礎づけ(内的行為) | ↓ | それが正しい行動をひきおこす。 └―――――(外的行為) (c) 内的と外的行為とのこのような関係からして、人は正義を行おうとの信念や 意志なしにも、すなわち内的に正しい行為をなすことなしにも、外的に正義の要求する ところを果すことができるという、特異の事態が説明される。このような場合、純粋に 外的に、つまり「法律的に」見るならば、ことがらは罪のうちどころがない。各人は 自らに属するものを事実上保ち、うけとっている。実定法および人間的な司法は このような外的な実行で足れりとしなければならない。これにたいして、倫理的な 見地からすれば、まさに重要なもの、つまり正義への内的な意向が欠如している。 〔例〕 労働者の主張が正しいと考えるからではなく、法律的に強制されて仕方なく 一定の賃銀を支払うやとい主。自分が見つけた高価なものを、他の人がそばで 見ていて、かくすことができないために返却する者。ただ法廷でそうするよう 判決をうけたために、自分がひきおこした損害の補償をする者。
>>32 は
図がうまくいきませんでしたが、勘弁してください。本文を正しく読めば、元の
図がどのようなものであったかは容易に推測がつくと思います。図中の「(外的行為)」
は、上向きの矢印につながります。
34 :
名無しさん@3周年 :04/02/19 23:36
(d) 外的な財貨や実行は、そのようなものを与えることのできる人によってのみ、 提供される(たとえば病気のために働けない場合、盗みにあって財産をなくした場合、 家から追払われた場合、自然の災害などは、おそらく完全な支払いを不可能にする)。 ここからして或る人が外的には義務を果たすことができなくても、内的に、つまり徳の 観点からすれば正しく行動する、ということがありうる。もちろん、とくべつの場合を 別にすれば、この場合義務は破棄されるのではなく、ただ延期されるのである。
35 :
名無しさん@3周年 :04/02/19 23:37
【92 「徳は中道である」との原則は、正義の場合にもあてはまるか?】 ●正義の徳も過度と不足との間の中道を保つものである。正義の場合、この中道は ことがら自体に基づいている。 1 人間の行動はそれが正しい理性と合致する場合に、つまり人間が、かれの理性が 道徳律にしたがいつつ、かく行動せよと命じもしくは許容する通りに行動する場合に、 有徳である。ところで倫理徳に特有なことは、過度と不足という二つの対立するもの の間の中道を保つということにほかならぬ。なぜなら、徳は人間の正しい行動にとって の規範、尺度にほかならないからである。ところが規範ないし尺度は二つの仕方で 無視されることが可能である――つまりそれを通り過ぎて行ってしまうことによって、 およびそこまで達しないことによって。勇気は臆病とむこうみずの中道、大度は物 おしみと濫費の中道、友愛はついしょうとけんか好きとの中道を保っている。理性は (賢慮の徳によって)個々の人間および個々の場合について、どこに中道があるかを 明らかにするという任務を持っている。ここからして倫理の「中道」は、理性に基づき、 理性にかなう中道(medium rationis)と呼ばれている。
36 :
名無しさん@3周年 :04/02/19 23:40
2 正義も過度と不足の間の中道を保つ。5マルクの価値の品物を売る人は、5マルク の支払いを要求するときに、正しい行動をしたといえる。もし6マルク要求するならば、 買い手を詐欺にかけており、4マルクだけ要求するならば、かれは自分の権利の一部を 放棄しており、その部分については正義によってではなく、ほかの配慮からして自己の 行動を決定しているのである(たとえば親切、同情、など)。この例からして、正義に おいては中道は事態そのものからして、つまり要求と遂行との間の事実上の合致からして、 きまってくるということがわかる。それゆえに、正義に関してはことがらに基づき、 ことがらにかなう中道(medium rei)ということがいわれる。理性はたんに均等さが いずこにあるかを確認し、あるいはせいぜい算定できるだけであって、このような 確認は、要求する者、および遂行の義務を負う者が何を考えているかには依存しない。 問題なのはまさに事実上の均等さなのである。時計を買う人が富んでいようと貧乏で あろうと、友人であろうと敵であろうと、値段にはそれ自体としてなんの影響も及ぼ さない。この点に関して賃銀交渉は多くの場合示唆に富んでいる。まず仕事を求める 側の人の仕事遂行能力が確定される。この可能的ないし期待されている仕事の遂行 ということに基づいて、いくら賃銀を支払うべきかが決定される。つまり仕事遂行と 報酬との間の事実上の均等さである。もし労働者がそれ以上の仕事をするならぱ、 もっと多く支払うべきであり、予定されていただけの仕事をなしえないならば、 それに応じてかれの銀はへらされるのである。
37 :
名無しさん@3周年 :04/02/19 23:41
【93 正義はどのように区分されるか?】 ●正義は一般的(また法律的、ないし共通善的とも呼ばれる)正義と特殊的正義とに 区分され、後者はさらに交換正義および配分正義にわかれる。 1 正義は人間を他者との関係において取り扱い、秩序づける。この「他者」は個人で あるか共同体、つまり人間がそれに属し、その部分でありメンバーであるところの、 社会的全体である。われわれはこの両者を考えに入れなければならないのであって、 さもなくば人間がそのうちにおいて生活しているところの実在を見落とすことになる。 2 個人は個人としてその特殊善(私的善)、固有の権利を有する。共同体も自らに 固有の目的、全体的な福祉(共通善)を有する。この共通善は個人に固有的な善の 総和ではなくて、独立的な善、つまり程度や量に基づいてではなく、本質的に私的善 から区別されるものである。それはすべてのメンバーに共通の善であるから、共同体の メンバーたる者はすべて自らのわけ前を要求できる。もしかれが自らに属するものを 受ける場合には、このかれのわけ前がかれの固有善となる。ここからしてつぎの結論が 生ずる。 (a) 共同体はその善、つまり共通善を有する。 (b) 各個人はその善、つまり固有善を有する。ところでこれには二つの種類がある。 T かれがこの特定の個人であるがゆえに、またそのかぎりにおいて、かれに 属するもの。 U かれが共同体のメンバーであるがゆえに、またそのかぎりにおいて、かれに 属するもの。
38 :
名無しさん@3周年 :04/02/19 23:41
3 或る徳の本質を規定するのは、いわゆる形相的対象である、つまりその徳に下に 入ってくる多数、多様なすべてのことがらではなくて、そこからしてすべてが把え られへ秩序づけられるところの、明確な固有的観点である。或る新しい独立的な観点が あるところ、そこには一つの新しい課題と新しい徳が見出される。われわれの問題に ついていうとこうなる――正義は正当なおいめを対象とするものであるから、或る 新しい、正当なおいめのあるところ、そこにそれぞれ異なった種類の正義が見出される のでなければならぬ。なぜならこれらのおいめがそれぞれの場合に、それぞれ根本的に 異なった正義の状況や課題(行動もしくは遂行)の条件となるのであるから。 ところで、まずそれぞれ本質的に異なっていることからして、二つの異なった種類の 正当なおいめの基礎となるところの、二つの善が存在する。すなわち、共同体の共同的 な福祉(ないしは善)は共同体に帰すべきものを基礎づけ、個人の特殊的善は個人に 帰すべきものを基礎づける。ここからして一般正義と特殊正義とは二つの徳として 区別されるのであって、たんにただ一つの徳の二つの課題としてではない。ところで 個人の特殊的善(私的善)は、正しく見る場合、個人がそれを私的な人間として要求 するか、それとも共同体のメンバーとして要求するかに応じて、まったく違った種類 のものとなる。というのは、個人は或る場合は個人として、他の場合には共同体の メンバーとして、或るものを自らのものなりと主張するのであるが、まさにその事態が 「かれのもの」にたいして本質的に異なった特色を与えるのであるから。このゆえに 特殊的正義はただ一つの徳ではありえず、二つの徳へと区分しなければならないので ある。
39 :
名無しさん@3周年 :04/02/19 23:44
‖‖‖‖‖‖‖‖‖【A 交換正義】‖‖‖‖‖‖‖‖‖‖ 【94 交換正義とはなにか?】 ●交換正義とは、人をしてかれと同じ権利を有する他者にたいして、後者に属するものを 完全に支払わしめるところの正義である。 1 交換正義は個人間の正しい関係を規制する。したがって、それは相互に法的に 同じ権利を享有する個人間の主張を均等化する(問95)。それが第一に(そればかり にかかわるのではないが)経済的な関係を規制するので、それはまた交換的ないし 流通的正義とも呼ばれる(経済、商業、財貨、取引的流通)。 〔例〕 一人が売り、他が買い、一人が貸し他が借り、一人が仕事をし、他が賃銀を 支払う。 2 交換正義はきわめて広い領域にわたっている。それは一人が他者に負い、または 負いうるところの、すべての財貨や遂行に及んでいる。生命(殺人)、身体の完全さ (身体に傷を負わせ、暴行を加えること)、名誉(ざん言)、所有権(盗み、強盗、 横領)、労働(協定された賃金の不払い)。 3 交換正義は、共同体ないしは共同体との関係において見られた個人にはなんら かかわらない。という意味で個人にのみ限られているのではない。それは個人間の 正しいかかわりあいというものを超えてゆくことがある――すなわち個人と共同体 (あるいはその逆)ないしは共同体相互の間で、それらが等しいレベルに立つと 見なされるかぎりにおいて、なんらかの権利(正)にかかわる行為がなされる場合 である(たとえば、国家が土地を貸借ないし買入れる場合、また役人に給料を支払い、 経済的組織を経営し、財産を一共同体から他の共同体へと移す場合)。
40 :
名無しさん@3周年 :04/02/19 23:44
【95 なぜ「交換」(「均等的」)正義と呼ばれるか?】 ●「交換」(「均等的」)正義と呼ばれるのは、与えるものと受取るものとが完全に 等しいもの(等価値)にされるからである。 1 完全な意味での均等は、二つの財貨もしくは遂行が、相互にはかりにかけた場合、 まったくひとしいものであるときに見出される。一つのものを他のものと交換しようと 欲している人物はここでは問題になっていないし、また問題にすることはできず、 ただ一つの物(もしくは遂行)の価値ともう一つのものの価値とを対置させ、相互に 比較することができるだけである。一人は他の者が提供、要求もしくは奪われている と厳密に同じものを、与えもしくは補償しなければならぬ。馬市においては、「この 馬を売ろうとする農夫は何という名前か」といった問は発せられず、むしろ「この馬 はどれだけの価値があるか」と問われる。或る盗みの事件にさいして償還額を決めな ければならない場合は、「何が盗まれたのか」「盗まれた品物はいかほどの価値か」 が問題になる。 このような絶対的な均等性は計算の場合にもっとも明確かつ明白にあらわれる。 ここからして数的、算数的均等性(数ないしは量に基づく均等化)といった表現が 用いられる。 5=5;8=3+5;21=3×7 1時間1.5マルクあたりでの6時間労働=9マルク 服1着=5ないし6足の靴 (両者の品質に応じて)
41 :
名無しさん@3周年 :04/02/19 23:45
2 つぎのことがらに注意すべきである。 (a) 物質的な財貨ではなく、より高い善が問題になる場合には、交換正義に したがってなにほどのものを支払うべきかを算定することはきわめて困難になる (精神的もしくは芸術的な働きにたいする報酬、身体の傷害、暴行、不当な拘禁など にたいする賠償)。この難しさの理由は、このような高い善もしくは働きを、 物質的な財貨によって計算しなおすさいの尺度といったものがない、ということに ほかならぬ。同じ秩序に属する価値だけが直接にお互いに比較できるのであり、 物質的な価値のみが数や量といったもので表わすことができるのである。 (b) 人が不正をなすのは有意的になす場合にかぎられるのであり、不正を蒙る のは意志に反してである。この原理は第一に、そして無制限的に倫理の領域について 当てはまる。だがそれはさらに広く法的領域にも妥当する。なぜなら裁判官の下す 判決も当事者にどれだけ責任があるかというその程度を考慮に入れなければならない からである(怠慢、悪意)。他の人にたいしてまったく知らずに、またそのような 意志なしに害を与えた者(たとえば、まったくの過失や不幸な出来事の結果として) は、真の意味ではなんの不正も働いてはいない――或る場合にはその損害について 責任をとらなければならないが。さらに或る不利益を覚悟でなんらかの行動、処置 に同意する者は、なんらの不正も蒙っていない(たとえば、暴行に身をまかせる 少女、強制されたわけでないのに標準以下の賃銀で働く職工)。 (c) 交換正義が侵された場合には、直ちに問題の事物を返還ないしとりかえる よう告訴することができる――事項的訴権。
42 :
名無しさん@3周年 :04/02/19 23:47
【96 交換正義はどのような特別の課題をになっているか?】 ●交換正義が特別の課題としてになっているのは、他人のものを返却ないし払い もどすこと(返還ないしは補償とも呼ばれる)である。 1 返還(Restitutionもとはラテン語)とは或る人をしてかれのものをふたたび 所有せしめることを意味する。つまり或る人にたいして、かれに属するもの、 もしくはそれと等価値の別のものが手渡されるようにすることである。 返還できるのは、他者に属しているのに、その人が目下所有していないものである (借りたもの、盗まれたもの)。このようなものがもはや存在していない場合、 ないしは或る人が自分ではなんら得るところなしに他の人に損害を与えた場合には、 返却は(失われたものと)等価値のものを通じてのみなされる――補償、弁償。 2 まずつぎのことがらに注意すべきである。 (a) 返却義務には二つの根拠がある、すなわち他者のものと、他者の損害である。 他人のものはその持主に返さねばならぬし、損害を与えた者は補償しなければならぬ。 (b) 不当に手に入れたものだけでなく、正当な手続きで或る人によって所有(使用) されているところの、他人のものも返却しなければならぬ(たとえば拾ったもの、 借りたもの、あずがっているもの、そのような意図なしに入手した品物、など)。 (c) 或る人が他人のものに手をふれず、他人のものをそこなわず、また他人の ものや他人の権利に属するものについていさかいをおこすようなことをしないこと、 このようなことも返還、弁償というカテゴリーに入る。
43 :
名無しさん@3周年 :04/02/19 23:48
【97 ひとは返還の義務を負うているか?】 ●ひとは他人のものを返却し、ひきおこした損害を弁償するよう、しかも――なにか 違ったふうに協定がなされていない以上――できるかぎり速やかにそのことをなすよう、 その良心において義務づけられている。 1 正義はひとが倫理的に善い生活をおくりうるためには、絶対的にまっとうする ことを要するところの徳の一つである。だが正義は各人が自らのものを保ち、または 返還をうけることを要求する。それゆえに返還ないしは補償を拒否する者、一部だけ しか返還ないし弁償しない者、もしくは返還や弁償をわざと延引する者、これらの者 は不正を働く者である。隣人にたいして加えられる不正の重大さは、ことがらの価値、 ならびに損害を蒙った者の困窮によってきまる。さらに返還の義務を負うている者の 返済能力もなんらかの役割を演ずる――たとえば、いつ、またいかほど返還すべきか との問題に関して(項2参照)。いずれにしても返還の義務は良心を拘束する(こと がらや損害が僅少の場合も!)。この理由はすでにのべた。すなわち、正義の要求は 最終目的と必然的に結びついているのである。この要求に重大な仕方で背く者は、 最終目的に反する行動をする者である――なぜならかれは被造物を創られざる善の 上においているからである。つぎのキリストの言葉はそのような者に適中する。 「汝は神とマモンとに兼ね仕えることはできぬ」(マタイ、6−24)。
44 :
名無しさん@3周年 :04/02/19 23:49
2 返還の時期はつぎの二つの規則にしたがって決定すべきである。 (a) 結ばれた協定は、責任をとりえないような困難が入ってこないかぎり厳守 すべきである(週の終りに支払う賃銀、月の始めもしくは末に支払う給料、賃銀契約、 勘定書の支払い、利子や代金の支払い)。自分の過ちからして時期を著しく遅らせる 者は、時としては正義にたいする重大な背反を犯すことになる。この背反の重大さは、 当の他者が自分に属するところのもの(返還さるべきもの)を、どのていどたよりに しているかということによって、本質的に定まってくる(たとえば労働者や雇われて いる者は多くの場合、自分達の賃銀を長い間待っているということはできない。家屋 や土地の所有者の多くは、利子や貸し賃で生計をたてている。職工、職人は借りて いる道具、あるいは奪い取られた道具を返してもらわないと、時としては働くことが できない。) (b) 不当な財貨は直ちに返還し、引き起こした損害は直ちに弁償しなければならぬ。 なぜなら隣人は自らのものをいつでも自由に処理しうる状態で持っている権利を有する からである――そのようなことをできなくする正当な理由がない以上。最大の善意を もってしても即座に返却ができない場合には、すくなくともその時期においてなしうる ことをして、あとはできるだけ速かに片付けるべきである。全負債を返却するまでは、 その人は自らの義務をまっとうできるよう、つつましく生活しなければならぬ。 すなわち、自分の身分とのつりあいは保ちつつも他の点ではつつましい生活の仕方、 にまで自分をきりつめなければならぬ。時としては、負債の大きさや損害を受けた者 の困窮によっては、もっと大きな自己放棄が要求されることもある。
カトリック教徒は変態の集まりです。 至る所に貼り付けましょう。
米で半世紀間に1万1千件 聖職者の性的虐待調査
http://news.goo.ne.jp/news/kyodo/kokusai/20040217/20040217a3390.html 【ニューヨーク16日共同】米CNNテレビは16日、全米で1950年から
2002年までにカトリック聖職者約4450人が約1万1000件以上に上る少
年への性的虐待に関与していたことが分かったと報じた。
CNNによると、米カトリック司教協議会が委託した調査報告書を同テレビが入手
した。報告書はまだ草稿段階で、27日に公表される予定。
報告書によると、半世紀余りの調査対象期間中に全米で司祭を務めた11万人のう
ち約4%が性的虐待を行ったことになる。被害者の78%は11歳から17歳、
16%が8歳から10歳、6%が7歳以下だった。
全体のうち約6700件については既に調査、立証済み、約1000件は立証され
ておらず、約3300件は当事者の司祭が死亡するなどして調査不能としている。
46 :
名無しさん@3周年 :04/02/19 23:51
3 或る人を返還の義務から全面的もしくは部分的、ないしは一時的に免除するところ の理由はいろいろある。たとえば、所有者もしくは被害者の権利放棄、病気、徴兵、 自らの持物の喪失(火災、天災、破産、盗難などにより)による不能。 4 返還ないし弁償をしなければならないのは、他人の品物を持っている者もしくは 損害を引き起こした者である。この義務は相続者におよぶ――相続したもの(他の 仕方で獲得したものでなく)をその負債の解消のために使用しなければならないかぎり において。
47 :
名無しさん@3周年 :04/02/19 23:52
【98 交換正義は(人間的)実定法の規定に服するか?】 ●実定法は、間接的もしくは直接的に交換正義にかかわるところの規定をつくる権限を そなえている。 それ自体において見るとき、交換正義にとっての規準は財貨もしくは働きの量的、 価値的な均等性のうちに見出される(問95)。この均等性は国家の命ずるところ からは独立であって、事物の本性もしくは自由な協定、ないしは共同的な合意に 基づく。だが交換正義もまた共通善の内部にあり、その外にあるのではない。 それゆえに、交換正義もまた共通善が秩序ある確実な仕方で到達できるよう、運用 されねばならないのである。 1 共通善はまず自然的な正しさが保持されることを要求する。したがってそれは、 人々がお互いに与えるものと受取るものとの間の均等さに留意し、それを確立する ことを要求する。この点において実定法は交換正義の運用を保護するという課題を 持っている――個人にたいしてその持物、ならびにかれが自らのものを使用する 権利とを保障することによって、およびその違反(盗み、詐欺、悪口、などを罰する こと)によって。
48 :
名無しさん@3周年 :04/02/19 23:52
2 税金およびその他の賦課――共通善を目的として課せられるところの――は すくなくとも間接的に交換正義にかかわりを持つ。それらは不断に変更することを 余儀なくし、制限を不可能にし、財産の所有および使用の可能性を制限する。価格の 確定、関税、国家の専売ならびにこの種の処置は、間接的に交換正義に影響を与える。 3 共通善は、正義に基づく協調と平和を保障するような行動がなされることを 要求し、また正当とする。ところで交換正義の領域においては、ことがらや状況に ついて見通しをつけ判断を下すことが困難である場合がすくなくないので、実定法 による規定がないと事態は不明瞭なものにとどまる。ここからしてしばしば重大な 争いや不和が生じてくる。このような危険はさけることができるし、またさけなければ ならぬ。 〔例〕 婚姻に関する財産規定、遺言の正当さについての規定、道路使用規定、 賃銀率協定の合法的な形態についての規定。
キリスト教徒は変態の集まりです。 至る所に貼り付けましょう。
米で半世紀間に1万1千件 聖職者の性的虐待調査
http://news.goo.ne.jp/news/kyodo/kokusai/20040217/20040217a3390.html 【ニューヨーク16日共同】米CNNテレビは16日、全米で1950年から
2002年までにカトリック聖職者約4450人が約1万1000件以上に上る少
年への性的虐待に関与していたことが分かったと報じた。
CNNによると、米カトリック司教協議会が委託した調査報告書を同テレビが入手
した。報告書はまだ草稿段階で、27日に公表される予定。
報告書によると、半世紀余りの調査対象期間中に全米で司祭を務めた11万人のう
ち約4%が性的虐待を行ったことになる。被害者の78%は11歳から17歳、
16%が8歳から10歳、6%が7歳以下だった。
全体のうち約6700件については既に調査、立証済み、約1000件は立証され
ておらず、約3300件は当事者の司祭が死亡するなどして調査不能としている。
50 :
48からのつづき :04/02/21 06:34
‖‖‖‖‖‖‖‖‖【B 配分正義】‖‖‖‖‖‖‖‖‖‖ 【99 配分正義とはなにか?】 ●配分正義とは、諸々の善や負担を共同体の諸メンバーに均衡のとれた仕方で配分 することを任とする、かの正義である。 共通善、つまり全共同体の善、ないしは「統一された多数者」の共同的な善は、 共同体の諸メンバーに二つの仕方でかかわってくる。 (a) すべての者が、共通善を維持し、推進するために協力しなければならぬ。 共同体に属する者は、全体が秩序ある有益な仕方で生存し、活動できるように、 自らの分を寄与しなければならない。 (b) 共通善はすべての人のためにあり、すべての人の益とならねばならぬ。 すなわち、配分正義は共通的な善や負担が恣意的に或る特定の人にふりむけ られたり課せられたりすることなく、「適正な仕方で」配分されるよう、つまり その部分との関係において全体にふさわしい仕方で配分を行うよう配慮せねば ならぬ。まさにこのゆえに、それは「配分」正義と呼ばれるのである。
51 :
名無しさん@3周年 :04/02/21 06:34
1 配分正義において問題となっているのは共同体のメンバーの厳密な意味での 権利である――つまり、これらのメンバーが共同体に属しており、共同体が かれらにたいして義務づけられているとの理由で、これらメンバーに当然帰せ らるべきもの、それが問題となっているのである。それゆえに、共同体は善に 関しても負担に関しても正しい配分を行わねばならぬ。なぜならメンバーは つぎのような要求をなしうるからである――すなわち、すべての者のためにあり、 すべての者によって実現されたものが、自分達から取りあげられてはならない こと、および自分たちにたいして適当なもの以上の負担が課せられてはならない ことを。 2 諸メンバーの権利は「事物における権利」(jus in re)ではなく、「事物 にたいする権利」(jus ad rem)、つまり共通善の一定の部分がかれらの手に うつり、かれらのものとなる、ということである。このようなわけまえが 与えられない場合には、メンバーは直接に事物にむかってではないが、共同体 ないしはその代表者を告訴することができる。
52 :
名無しさん@3周年 :04/02/21 06:35
3 配分正義は人間の必須的な徳に属する。なせなら、その課題の多くのものが なんびとにたいしても課せられることになるからである(問101)。だが とくにこの徳を必要とするのは共同体を統治し、共通善を管理ないし配分する 人々である。 〔注意〕 配分正義においては権利の要求(法的要求)が問題になっているという ことは、たとえばつぎの例からして明らかである。すなわちそれと大度との相違 ――或る持主は誰をどの程度援助しようかということを、自分の選択でもって、 決めることができる。これは大度の徳に属する。これにたいして、多数の人に 報酬を与えようとする人は、それらの者の功労を規準にしなければならぬ―― これは配分正義に属する。ここからして、われわれは一方では正しい、ないしは 不正な報酬といった表現を用いるが、他方、賢明もしくは無思慮な慈善、適切な もしくはふさわしくない援助、というふうに言うのである。
53 :
名無しさん@3周年 :04/02/21 06:37
【100 均等さを確立せよとの掟は配分正義の場合にもあてはまるか?】 ●配分正義は真の、しかしながら比例的な均等さを確立する。 〔例〕(1) 或る家族の子供達は無差別的に平等ではなく、それぞれに適当な食事、 衣服、教育を与えられ、ないしは保護される。これらすべては年令、 性別、健康状態、才能、傾向、勤勉さ、などに応じて定められる。 だが各々の子供は「かれのもの」つまり他の者との関係において かれに属するもの、を受取る。 (2) 一万マルクの家族手当を十家族にそれぞれの必要に応じて配分する よう委任された者は、簡単に各家族に千マルクずつ渡すことはできない。 かれはそれらの家族における困窮(必要)程度の違いを考慮に入れ なければならない。それは、たとえば、子供の数、父親の収入、 健康か病気か、困窮期間の長さ、居住地における物価、などの 諸条件に依存する。 だが各家族はかれのもの、すなわち他との関係においてかれに帰す べきものを受取るのであって、各家族はその状態および配分さるべき 総額に基づいて、右の「かれのもの」を要求できるのである。 (3) 収益のわけまえは協力者の状態に応じて計算すべきである――つまり、 収入の額、自らの過失による労働時間の不足、勤務年数、例外的な業績、 など。この場合も、とにかく各人になにかが配分されるというのではなく、 正しい形態における配分がなされるのである。 右の例からしてつぎのことが言える。
54 :
名無しさん@3周年 :04/02/21 06:38
1 利益や負担の分けまえは個々の人間においてきわめて不等なものとなりうるが、 それらはお互いの比例においては均等である[※]。この比例は人々の不平等、つまり 全体によって制約されているところの諸メンバーにおける、お互いに等しくない 状態に基づくのである(問101)。ここからして比例的(幾何学的)均等という ことが言われるがこれもまた真正の均等性の一種である。 2/5=4/10 A/3=B/9 というふうに、各々が自らに適合し、ふさわしいものを受取る。 ※ たとえば或る人は百マルク、もう一人は二百マルクの税金を払い、しかも両者 ともその収入の三パーセント(つまり同率)を払うことになるという方法をとる こともできるし、あるいはつぎのような方法をとることもできる。 二千マルクの収入の者は……………………3% 二千 ―― 五千マルク………………………5% 五千 ―― 一万マルク………………………8% というふうに、より大きな生産能力、およびすべての者に保護されている安定性が より大きな意義を持ってくるに応じて(異なった率の)税金が負担されるのである。
55 :
名無しさん@3周年 :04/02/21 06:38
2 注意深く観察する者は、配分正義においては二重の事態が見出され、留意さる べきことを認めるであろう。 (a) 諸人格間の、もしくはかれらり働き、功績(もしくはかれらの仕事能力、 才能)などの間の関係。 (b) 諸人格との関係における、利益や負担などの割合、たとえば、四千マルクが 均等に二つの家族に分けられるべきか、四つの家族に分配さるべきか、という ことは同じ問題ではない。第一の場合は、各家族は二千マルク、つまり半分を、 第二の場合には千マルク、つまり四分の一を受取ることになる。 3 配分正義において決定的な意味を持つのは、或る特定の共同体のメンバーである かぎりにおいての諸人格に特有な(かれらはそのようにメンバーたるかぎりにおいて 共同体にたいする要求と義務を有するのであるが)、かの性質ないし貢献である。 このように、ひとはまず共同体に属するものでなければならぬ。ところで問題になって いるのが或る特定の課題への招きということであるなら、われわれはその共同体の 目的や性格またはその課題に適合するような素質を持っていなければならぬ。一言に していえば、共同体が或る特定の機能や仕事について要求ないし必要とするところの、 かの諸条件をみたしていなければならぬ。かくしてつねに問題なのはつぎのことを 承知することである――すなわち、諸要求もしくは義務が、まさにこの共同体の メンバーであるとの事実に基づいて提出され課されているのか、またどの程度まで そうなのか、ということを。
56 :
名無しさん@3周年 :04/02/21 06:39
〔例〕 或るフットポール・チームのメンバーは、自分が高い職業の地位を占めて いるかとか、良い声を持っているという理由によってではなく、有能なフット ポール・プレイヤーとしてそのチームによる善い競技を保障できるとの理由で、 或る試合に参加することを要求しうるのである。官職への任命は、それぞれの 官職にむいているかどうかとの尺度に基づいてなさるべきである。家族手当は 子供の数や年令、収入の充分さ、不充分さなどに基づくものである。勲章は 仕事や功績に応じて与えられる。 4 配分正義における比例的均等は、多くの場合交換正義の純粋に算数的な均等性 よりも確定し難い。その理由は明白である。すなわち、事物と事物、働きと働きとを 直接に比べることはできず、諸メンバーが全体に対してどのような関係に立つもので あるかを考慮に入れなければならず(つまり、かれらが他の者と比べて、全体の ためにどのような仕事をしており、もしくはなしうるかということを)、また全体 との関係においてお互いにどのように異なっているかを考慮しなければならない。 その後にはじめてなにが各人に属すべきものであるかを(できるだけ数字をもって) 厳密に確定ないしは算定できよう。にもかかわらす゜、配分正義は理性に基づく 中道のみならず、事物に基づく中道を有する(問92)。なぜなら、それは客観的 に現存する事態について評価するものであるから(たとえば、特定の人が現実に 共通善のためにどのようなことをしたか?だれが事実上適任か?いずこにおいて 困窮はより大か、ここにおいてか、それともかしこにおいてか?)。
57 :
名無しさん@3周年 :04/02/21 06:42
【101 配分正義はどのような責務を有するか?】 ●配分正義は、(1)何が正しいかを決定し (2)この決定の尺度にしたがって正しく 配分し (3)共同体メンバーの諸権利を効果的に保護する、という責務を有する。 配分――ここで取扱っている正義はここからその名称を得ているのであるが―― は、各人が共同体のうちにおいて、他の人々との関係において、わがものとして 要求しうるものを受取り、またなんびとも他の人々との関係においてかれが荷わ なければならないもの以上の負担を課せられないときに、正しいといえる(問100)。 ここでトマス・アクィナスがとくに強調していることを補足しておくべきであろう。 すなわち、諸々の共同的な善の配分にあたっては全体の福祉(これを危険にさらしては ならぬ)に留意しつつ、注意ぶかくなすべきである。すなわち、配分の度がすぎて 共同体がもはや成立ないし活動をいとなみえなくなる、ということは無意味かつ 無責任である(たとえば、或る企業における資本基礎の破壊)。
58 :
名無しさん@3周年 :04/02/21 06:42
1 配分が行われる前に、共同体の諸メンバーに割り当てられるべきわけまえの 額を確立しなければならない。すなわち、特定の個人にとってどれだけのものが 正しいかを明確にし、決定するところの判断が必要とされる。ところで判断を下す のは理性であるが、理性は意志によって正義の命令、衝動の下におかれる――この 正義は人間をして、かれの判断を誤らせることのできるすべての考慮を排除させ、 判断を下すにあたってはひたすら事実そのものが要求するところに従わしめるの である。個々の場合についてなにが正で何が不正であるかを明らかにすべき人間は、 正義へと向う確乎とした意志によって生かされるのでなければならぬ。このことは とくに裁判官についていえることであり、ここからしてアリストテレスは裁判官を 「生ける正義」と呼んでいる。裁判官は通常は明文ないしは「現存の」法に基づいて 判決を下す。だがこのような法律(法)が明白に自然道徳律に反するか、もしくは あきらかに公共福祉に有害な作用をなす場合には、裁判官は自然道徳律と合致し、 公共福祉を阻害しないような判決を下す勇気(および自由)を持っていなければ ならぬ。明白な不正をひきおこすことなしには現存の法律を適用できないような 事態が生じたときには、法律をすぐに改正しなければならない。しかし裁判官は 自然道徳律に訴えることによって、欠陥をうめなければならないのである。 〔例〕 それ自体として不正であるところの高すぎる値段も重大な理由からして 正当化されることがある(そうしなければ破産する場合、或る企業の活動を 維持することができない場合、闇市の問題)。非常時にあたって法律的に 確立され、合法的であるとされた刑罰が、普通の時期にはきわめて不正なもの となることがある(前線において、もしくは国内での訓練中に脱走した者に たいする死刑や懲役刑)。
59 :
名無しさん@3周年 :04/02/21 06:43
2 人格ならびに事物という尺度に基づいてなされるところの、なにが正であるか との判断ないし規定につづいて配分、つまり財貨の供給ないし負担のわりあてが 行われる。官職の場合には叙任、任命、任務の割当、法律や法令の場合には適用、 施行といった表現が用いられる。配分が右の判断ないし決定の通りに行われなければ ならぬことはいうまでもない。とくに配分という機能のみをつかさどっている者は、 自力で当の判断を変更したり、その遂行を阻止ないし延引する権限を与えられている のではない――このような権限がかれらにはっきりと認められないかぎり(問102 −103)。 3 さいごに、配分正義はつぎのことを監視また配慮するという重大な任務を 有する。すなわち、共同体の内部においてメンバーの自由、権利および福祉が維持、 確保されること、なんらかの口実の下に、もしくは権力をかさにきる者の手によって、 諸メンバーが自分達に当然属するものを奪われ、制限され、短縮されることがない、 ということについて。この危険は共同体全体からくることもあれば、そのメンバーから くることもある。配分正義は補助性(問52)の原理の尊重ならびに実施を保障 する――すなわち、この原理にしたがって諸メンバーは、自然的もしくは実定法に よって保障されている権利に基づいてかれらがなしうることを、実行にうつす権限を 与えられているのであるが。このように配分正義の確保は全体主義的国家、経済的 ならびに文化的共同体における「絶対主義的立場」、および不正な課税に抗する、 有効な防壁を提供する。
60 :
名無しさん@3周年 :04/02/21 06:43
【102 人間はどのような場合に配分正義にそむくか?】 ●人はとくに「えこひいき」をすることによって配分正義にそむく。 1 「えこひいき」(Ansehen der Person)とは不正な特別優遇ないし差別待遇と 同じ意味である。そこでは利益および負担の分けまえがかの考慮、つまりそれのみが 決定的なものであるべき考慮を無視して、わりあてられている。正しい尺度の代りに 誤った尺度が適用され、誤った手段が用いられている。ひとは偏見に支配され、 党派的になっている。 〔例〕 官職、栄誉、補助金などが適任者、功労者、必要とする者(それが唯一の 正しい規準なのであるが)などにそれぞれ与えられないで、その代わりに親類 (縁者ひいき)意見をともにする人々、党員、「政治的に信頼できる者」に 与えられる場合。ひとが収賄あるいはこれに類したことをなすとき、裁判官の 判決がかれの好き嫌いによって、もしくは社会的ないし党派政治的な考慮に よって左右されるとき(人民裁判)、税務官が友人の脱税を大目に見る場合。 右のすべての場合において、配分の根拠がずれたり間違ったものになっている ――なぜなら事実に基づかない配慮によって配分が定められているからである。 2 これよりも広汎で、しばしばきわめて軽々しく犯されている過ちは、無法な判断 である。十分な理由もなく誤解もしくは誤って解釈された証拠に基づいて、人はその 仲間を疑ったり責めたり、その過ちを誇張したり歪曲したり、また仲間が全然やらな かったか、いずれにしてもそんなつもりでやったのではないし、またその通りやった のではないことがらを、かれになすりつける。多くの場合その背後にある動機は個人 的なものである――うらやみやねたみ、意趣や怨恨、つらい経験、さらに階級的偏見、 政治的見解、政党政治的な扇動、など。
61 :
名無しさん@3周年 :04/02/21 06:46
【103 配分正義は補償の義務を課するか?】 ●配分正義に違反する者は、もしかれが同時に交換正義にも違反しているならば、 補償の義務を負う。 右の解答は、こんにちカトリックの倫理説において一般に主張され、支持されて いる見解を伝えるものである。その基礎づけのためには主としてつぎのように論が 進められる。すなわち、補償(返還)とは或る人をしてかれのものをふたたび所有 せしめることであり、したがって他者に属していてしかも不当に取上げられたもの (ないしは奪われたり、破壊されたりしたもの)を償還することを意味する。ここ からして補償の義務はつぎの二つのことがらを前提とする。 (a) 他者が事物についての明白、厳密かつ本来的な意味での権利を有すること。 (b) 不正があますところなくただされること(数的ないし算数的な均等性、 問95、1)。 これら二つの前提は交換正義の場合にのみ満足せしめられる。ここからして交換 正義のみが補償の義務を基礎づけることができる。ところが或る人が直接的には 配分正義にそむいて、しかも同時に他の人の正当な持物や要求に損害を与える、 といった場合がある。その場合、その人は(教科書ふうの表現を用いると)「附帯 的に」交換正義にそむいているのであり、まさにそのゆえに補償の義務を負うので ある。
62 :
名無しさん@3周年 :04/02/21 06:46
‖‖‖‖‖‖‖‖‖【C 一般的もしくは法律的正義】‖‖‖‖‖‖‖‖‖‖ 【104 一般的もしくは法律的正義とはなにか?】 ●一般的もしくは法律的正義とは、共同体にたいして、それに属するものを帰する よう、人間の意志を傾かしめるところの、かの徳である。 1 人間は社会的素質をそなえており、共同体的存在としてのみ自らの本性に かなった完全性に到達することができるのであるから、共同体は必要なものである。 だが共同体は、そのメンバーがその秩序に合致するような仕方で生活をいとなまない 場合、もしくはそのメンバーが共同体の存立と順調な発展のために必要とされる ことがらを遂行しない場合には、秩序正しい発展をとげることはできない。 ここからして共同体はそのメンバーにたいしてつぎのことがら、すなわち自らの 課題をはたしうるために必要とすることがらを要求する、という権限を持って いなければならない。メンバーはこれらの要求を認め、実現する義務を負うている。
63 :
名無しさん@3周年 :04/02/21 06:47
2 人は自分が共同体に負うところきわめて大きなものがあり、また共同体は 自分が協力し、すすんで協同することを怠るならば、存立することも繁栄すること もできないと承知しているが、経験の示すところによるとかれはあまりにも しばしば、共同体にたいするかれの義務をはたすことをこばんでいる。かれは おのずと共同的なことがらではなく自分の利益を強く追求する――とくに共同の 課題に協力することによってなんらの個人的な利益もえられず、せいぜい不利益が 生じてくるような場合に、そうである。また共同体の益になるようなにごとをなす べきか、どのようにしたらよりよい結果がえられるか、といったことについて 決定することは必ずしも容易ではない。個人の見解はしばしばひっこめなければ ならぬ(法律の必要性と内容、団体への寄付の額、指導機関の有能さ、剰余金の 有効な使用、などの問題について、ときとしてはてしなくつづけられる討論を 参照するだけで十分であろう)。右の理由からして人間の意志は、共同体にたして それに属するものを帰すよう、自己を傾かしめるところの、一つの特別の徳を 必要とするのである。
64 :
名無しさん@3周年 :04/02/22 03:38
【105 一般的正義の対象はなにか?】 ●一般的正義は共通善を対象とする――この後者が、共同体のメンバーにたいして なされる正当な要求を基礎づけるかぎりにおいて 1 すべての徳は、自らに固有で、他の徳から種的に異なった対象を有しなければ ならぬ。共通善はたんに程度や量の上でではなく、本質的に私的善から区別される。 それは一つのまったく異なった、新しい性格を有する善である(問25.94)。 それゆえに、共通善は一つの特別の徳の本質を規定するものとなりうる。このさい 二つのことに注意しなくてはならない。 (a) 共通善はここで漠然となんらかの善いもの、したがって追求に価するもの、 としてではなく、むしろ共同体に属するところのかの特殊的な善、しかもそれ自体 において、もっぱら共同体のものなる善として考えなければならぬ――つまり、 共同体の秩序、所有物、善き発展がそれである。 (b) このように見られるとき、共通善は諸メンバーが共同体にたいして負う ところの、はっきりとした一定の貢献を基礎づける。すなわち、法的な(たんに 倫理的でなく)諸要求を基礎づけるのであり、この後者は正義の下にふくまる べきものである――ないしは、それらは厳密な意味での正義の一種と考えるべき、 一つの徳を基礎づけるのである。
65 :
名無しさん@3周年 :04/02/22 03:39
2 共通(一般的)善は、その名称が示すごとく、一般的な関連を持つ――つまり、 共同体に属するところのすべての者の善にかかわっている。右のことが、この徳が 「一般的」正義と呼ばれる第一の理由である。この名称のよって来る第二の根拠は、 この徳――それはほかのすべての徳を共通善へと秩序づける――の領域の包括性の うちに見出される(問107)。一般的正義は、まったき正当さをもって、「共通 善」的正義とも呼ばれる。一般的正義をそのように称することが適当かどうかは、 われわれが「社会」正義(それにたいしても共通善的正義という表現が用いられる) をいかに解するかにかかっている(問110−111)。 3 一般的正義は「法律的」正義と称せられることがより多い。そのように呼ばれる 理由は、共通善の要求するところを義務として宣言し、要求するのは法律の義務 だからである。なぜなら、法律とは法(正)の実現のための規範であるから(問 58)。ここからして、法律がわれわれを共通善の実現のために不可欠な貢献へと 義務づける場合(またそのかぎりにおいて)、そこで問題になっているのは法律的 もしくは法的なおいめである――つまり、メンバーが法の命ずるところによって 与えなければならないもの、にかかわっている。法律的な規定は、一つの行為―― このような事情がなければおそらく自由なものであったところの――を、法的な 意味で義務的な行為へと高めるのである。
66 :
名無しさん@3周年 :04/02/22 03:39
【106 一般的正義はどのようなことがらにかかわっているか?】 ●一般的正義は実定法によって命ぜられることがら、ならびに(とくに)自然道徳律 が命ずることがらにかかわっている。 1 共同体の諸目的には二つの種類がある。第一の種類のものは人間本性に基づいて いる。それらは人間そのもの、したがって人類そのものに固有である。すなわち、 それらは各人に、まさにかれが人間であるがゆえに属するところの義務である。 自然道徳律がこれらの義務をすべての人間にたいして要求する。 第二の種類のものはそれぞれの具体的な(歴史的に形成された)共同体の特殊的な 性格に基づいている。それらは、或る共同体がいまここにおいて存在し活動しなければ ならないがゆえに、直面するところの目的である。これらの目的は、公共福祉のために いかなることをなすべきかを権威をもって確定し、命ずるところの、人間的−実定的 法律において表現されている(問27)。
67 :
名無しさん@3周年 :04/02/22 03:40
2 具体的な共同体目的は、けっして自然本性的な目的を無効にすることはできない (問46−47)。とりわけ重要なのはつぎのことである。すなわち自然的な責務は つねにいたるところにおいて妥当するのであって、実定法によって明確にくりかえされ あらたに確認される以前においてもしかりである。いな、たといそれらが実定法に よって疑問視され、(僭越なる権力をもって)非拘束的であると宣言されたとしても、 その効力にかわりはない(問72−76)。 3 ここからしてわれわれは一般的正義の二重の機能を区別することができる。 第一は、自然的もしくは自然法的なものである。これはすべての人間にとって、 各人が大いなる人類共同体の一員であるとの理由からして、確立さるべきものである。 第二は実定的もしくは実定法的なものである。これは当の共同体全体――個人 もしくは下位共同体は、それらの特殊な歴史的状況のゆえにこの共同体に属する―― の内部において確立さるべきものである。この第二のものは、正しい(人間的) 実定法にたいする服従を要求する。
68 :
名無しさん@3周年 :04/02/22 03:42
【107 いかなる人間行動が一般的正義のもとに入ってくるか?】 ●すべての外的な行動が、共通善の観点からして法律によって命ぜられるかぎりに おいて、一般的(法律的)正義の下に入ってくる。 1 一般的正義の内的行為は、共通善を欲求することに存する。人間は共通善を自ら の行動にとって義務的な規範として認める。かれは共通善が義務や犠牲の形で命ずる ところをなすように、傾いており、決意している。 2 共通善はすべての徳の領域に属する外的行動を、必要かくべからざるものとする ことができる。このように、ほかの徳に属する外的行為は、一般的正義によって直接 的に包括されるところの領域となる。この正義はすべてのほかの徳の行為を自らの 目的へと秩序づける。それはこれらの行為に動機を与え、作用原因としてそれらの 行為をひきおこす。すべての徳に属する外的行動は共通善に関係づけられることが できる。なぜなら、それらはそれ自体として、共同体の秩序にとって直接に重要性を 持つものとなりうるからである。それらは、共同体がそれらの行動を必要とする場合 には(したがってそれらを命じ、それらに反することを禁止する場合には)、共通善 に関係づけなくてはならないのである。 〔例〕 大いなる生命の危険に屈しないことは剛毅の徳にかかわることである。 ところで公けの危機(戦争、反乱、自然的災害、犯罪の防止)にさいしては、 ひとは自らを生命の危険にさらすよう義務づけられる(あるいはそのような ことになろう)。かくしてそれ自体においてみるときには剛毅の徳にとって の課題であることが(またそれに変わりないのだが)、共通善のゆえに、 共同体への法的義務となる。不作、封鎖その他これに類する状況によって ひきおこされた食糧危機にさいしては、食料品の配給制度によって諸々の 制度(本来は節制の徳に属するところの)が課せられる。所得税は、一定の 金額を大蔵省へと引渡すよう義務づけられる。つまり交換正義に属する行為が、 法律的な義務とされているのである。
69 :
名無しさん@3周年 :04/02/22 03:43
3 或る外的行動はしばしば直接に自然道徳律によって命ぜられる。われわれは 最大の死の危険にひんしている人間を見たら、自分を犠牲にしても助けてやらな ければならない――もし助けてやることが可能であり、またそれによって自己 ないしは自己の家族を同じような危険にさらすことがないならば(たとえば物質 的な援助によって――これは自分が物質的な犠牲を忍ぶことを意味する)。 このように、多くの場合、或る法的責務が成立するために、共同体の側から特別に 命令が下されることは必要でない。むしろこの責務は、それぞれの状況において 生ずるところの、人間本性の諸要求に由来するのである。自然道徳律は、人間に おける「人間的なもの」を尊敬せよと命ずる。それは人間社会において、人々の 間柄において存在すべき諸価値が推進せしめられ、そのような目的が追求され、 そのような規範と配慮が保持されるよう命ずる。自然的な正しさに基づいて、 人々はつぎのような責務を負う――すなわちお互いに侮ったり世の中を住みにくく することなく、相互に人間としての尊厳さを認めあい、社会における平和が確立、 維持されるよう協力すること(社会平和を乱すようなふるまいをつつしむこと、 つまり、不信実、破壊的な思想や闘争、不正で有害なストライキなどを避ける こと)。
70 :
名無しさん@3周年 :04/02/22 03:44
【108 一般的正義はいかなる意味において均等性を確立するか?】 ●一般的(法律的)正義は、共同体の要求とメンバーの貢献との間の正しい 均等性を、法律が規定するところにしたがって確立する。 1 事態に基づく均等性が厳密な正義の本質的な徴しである。一般的正義は 諸メンバーを、共同体が共通善のために要求せざるをえないところのことがらに 従わしめる。それゆえに一般的正義は事態に基づく均等性を確立する――なぜ なら、それは客観的な必要性ならびに客観的に規定できる義務にかかわっている からである。ところで法律は諸メンバーが共通善にたいしてどのような、また どのていどに義務づけられているか、を規定する。したがって、法律が自分に 要求するところを果す者は、共同体に共同体のものを帰すことになる――しかも 均等さをもってそうするのである。なぜなら、かれは自分が果すよう義務づけ られていることを果すのであるから。
71 :
名無しさん@3周年 :04/02/22 03:44
2 このことはまず実定法(これはいかなることをなすべきかを厳密に規定 できる)についてあてはまる。自然道徳律に関しては、個人がなにを、どの程度 なせば、かれの行為といまここでかれに義務として課せられている自然的な 要求との間に一致がもたらされるか、ということを確定することはしばしば きわめて困難である(たとえば、一般的困窮にさいしてどれほど衣食住をきり つめなくてはならないかを厳密に言える人があるだろうか。また個人は大いなる 災害を避け、もしくは除去するためにどれほど協力しなければならないか、 ということをだれが厳密に明言できるだろうか?)。たしかに自然道徳律は 良心を(内的に)拘束するだけでなく、人間共同体においても拘束力を持つ ――それが外的な責務、その怠慢や外的な背反にかかわるかぎりにおいて。 それゆえに人間による裁判(法廷)も自然道徳律の見地からして重大で「明白 な」事件について、判決を下し刑罰を課する権限を持っている(人道に反する 犯罪!)。いうまでもなく裁判は公正に行われ、偏見を交えないものでなければ ならぬ。つまり、すべての不利的、有利的な事情を十分に考慮しなければならない。 一般には、ひとは自然道徳律そのものが命ずるところを、自らの良心にしたがって 決定し、行わなければならない。すなわち、かれは実定法によって義務づけられる のではない――そのような法律は存在しないからである。残念にも人々はしばしば かれらの自然法的な責務をあまりにも軽く見る傾向がある――じっさいは、 それらは実定法的な責務よりもずっと重大で根源的なものであるのに。したがって、 或ることが「法律によって命ぜられていない」という言訳は、しばしば浅薄で 不正直な言いのがれである。
72 :
名無しさん@3周年 :04/02/22 03:46
3 補償義務に関しては、こんにちのカトリック倫理説は、配分正義の場合と同じ 立場をとっている(問103)。一般的もしくは法律的正義にそむいた者は、かれ が同時に交換正義にそむいている場合にのみ、補償の義務を負わされる。一般的 正義は共通善の立場から義務を課する。それはまず正しい法律にたいする服従を 命ずる。共通善にたいする自らの(法律によって課せられた)義務を果さない者は、 うたがいもなく――時としては重大な仕方で――過ちを犯している。だがメンバー が共同体にたいして負うているもののうちには財貨以外のものもふくまれている ので(すべての倫理徳に属する行動は一般的正義にふくまれることが可能である、 問107)、またさらに共同体に帰すべきものと諸メンバーに帰すべきものとの 間には、なんらの算数的な均等性も見出されないので(問95、1、問100 参照)、たんに一般的正義にたいする背反からはなんの補償義務も生じない。だが ここにおいても「付帯的に」、つまり共通善にたいする背反にともない、またその 結果として交換正義にそむく行為がなされることが可能であり、その場合に補償の 義務が生ずるのである(適正な税金がとりたてられることのないよう、税務官吏に 贈賄する場合) さきにFaidherbeの研究についてなした言及をここで補足する必要がある。 もしも補償の義務が交換正義からのみでなく配分正義からも生じうるもの ならば、同様のことが一般的もしくは法律的正義にもあてはまる筈である、 なぜなら後者もまた法的に厳密な意味でのおいめを対象とするものである から(問105、3)、前述のFaidherbeの研究にしたがえば、われわれは つぎのように言わねばならぬ。一般的ないし法律的正義にそむく者は、まさに その理由からして――付帯的に交換正義にもそむくとの理由によるのみならず ――補償の義務を負うのである、と。
73 :
名無しさん@3周年 :04/02/22 03:47
4 (人間的)実定法ないしは人間的権威はその下にある者にたいして、はっきり とした、そして時としてきわめて著しく不正な負担を課するものであるから(つまり 合則的に損害を与える)、補償の義務はしばしば解消する。すなわち人は共同体との 関係において、共通善のために現実にどうしても必要であり、配分正義の規範に 基づいてかれにふりあてられる犠牲行為のみを果せばよいのである。或る貧困な 民族の共通善は、たとえば高価な事業、計画ないし課題――ただ勢威、便宜、娯楽 などにのみ奉仕するような――といったものをけっして正当化しない。こんにちに おける誤った指導、無益な投資、およびいろいろの権力濫用を目にするとき、共同体 にたいして「秘められたる補償」(公けの形をとらない損害賠償)をまったく正当に 要求できるのである。
人の声は平等をなしえない。 神であるわが啓示を受けるように心がけよ。
75 :
名無しさん@3周年 :04/02/22 03:47
【109 一般的正義はどのような課題を遂行するか?】 ●一般的(法律的)正義はつぎの諸課題を遂行すべきものである。 1 人間の意志をして共通善を正しく認めさせ、その実現へと積極的に協同せしめる。 2 われわれをして自然の法原則にたいする忠実さ、すなわち人間本性がその目的、 価値、義務に関してふくんでいるところの(全体的な人類目的、人間の権利) ことがらすべてにたいする尊重と保障、の実現を可能ならしめ、またそれへと むかって動かす。 3 共同体の要求するところと調和するような人格の発展を追求し、実現する(個人 に固有的なものを、共同的なものへと秩序づける)。 4 共同体が保証できず、またそれぞれの状況の下で実現不可能なことがらを要求 しないよう(共同体のメンバーに)命じ、勧告する(節倹、質素な生活に甘んずる こと、状況を直ちに変えることができない場合の忍耐)。 5 公共福祉と個人の福祉とを正しくみのり多き均等へともたらすことによって、 社会平和を実現する(社会的対立の克服)。 [注意] 聖トマス・アクィナスはアリストテレスにしたがって――かれは後者の説を いちじるしく補足し、改善したのであるが――一般的(法律的)正義を、厳密な意味での 正義の最高の形、同時に純粋に自然的な人生秩序における最高にしてもっとも重要な徳 なりとしている。かれはこう論ずる。超自然的―キリスト教的な愛がすべてを最終目的 なる神へと秩序づけるように、一般的正義はすべてを共通善へ、つまり総体的な人間的 善へと秩序づけ、かくして正しい、共同体のうちにおいてのみ到達されうる人格の発展 へと秩序づけられるのである。
なぜ他人の主張する正義を求めるのか。 他人の主張は、ある人が、嘗てその主張をしたことで快感を得たという 歴史を物語っているに過ぎない。
77 :
名無しさん@3周年 :04/02/22 13:27
>>76 真理ですね。他人の主張はすでに他人によって
味わい尽くされたあとの、「残りかす」みたいなものです。
78 :
名無しさん@3周年 :04/02/23 03:31
>>74 >>76 >>77 >人の声は平等をなしえない。
>神であるわが啓示を受けるように心がけよ。
>なぜ他人の主張する正義を求めるのか。
>他人の主張は、ある人が、嘗てその主張をしたことで快感を得たという
>歴史を物語っているに過ぎない。
正義の基礎は、愛に基づくのだと言えるのかもしれません。レスはあり難いですが、
これから大事な「愛」についての引用をしますから、それを暫らくお読みになって
下さるようにお願いします。
人間の選択は、快感から引き出されるのではなく、なんらかの原則に基づいた
将来への「明るい見とおし」が左右していると自分は考えています。だれかの主張が
その人に快感を与えたのだとしたら、それはどんな原則に基づくどんな明るい見通し
に結びつくのかを考えることがまず必要なのではないでしょうか?それがくだらない
ものである可能性もありますが、考慮に価するものであることがあります。いま、
自分がここで引用している正義や愛についての倫理は自分は考慮に価するものだと
考えています。今後は、正義に関することが一段落して、いよいよ「愛」について
の部分の引用に入りますから、暫らくはレスを入れずにココのスレを眺めていて
下さい。よろしくどうぞ。
79 :
名無しさん@3周年 :04/02/23 03:31
>>77 >真理ですね。他人の主張はすでに他人によって
>味わい尽くされたあとの、「残りかす」みたいなものです。
あなたのような斜交いに構えた物事の受け止め方をしていると、色々と損なんじゃ
ないでしょうか?以下の記述を思い出しましたのであなたに贈ります。興味があったら
この本、買って読んでみてください。レス、ありがと。
『われわれの精神のまえにおなじようなかたちでさまざまな観念があらわれた場合、
もしわれわれが誠実であるならは、それらすべての観念のなかで、他のものより多少
ともまさっていて、より推奨に価する観念が存在することを認めるにちがいない。
それを知ることを拒否するならば、それは怠惰のゆえであり、より有無を言わさぬ
明証性を求めようとする習性のゆえであり、かつまた、くやしまぎれからである。
なぜなら、そのような明証性を追い求めたあげく、なにも到達せず、謎にぶつかって
しまうことがしばしばであり、その結果われわれは、われわれを阻止した観念に
怨恨をいだくからである。』
[『神の足跡を求めて』 ジャック・リヴィエール 彌生書房P174より抜粋]
80 :
名無しさん@3周年 :04/02/23 03:33
‖‖‖‖‖‖‖‖‖【D 社会正義】‖‖‖‖‖‖‖‖‖‖ この表現は新しいものであり、用いられはじめられてからまだ数十年にしかならない。 それがこんにちのような意義をかちえたのは、まさにピオ十一世の偉大な回勅(クワラ ドラゼシモ・アンノ)によるものである。だがいずれにしても、こんにちでは一般的 ないし法律的正義よりも「社会的」正義の方が人の口にのぼることが多い。 「社会正義」という表現がこんなに速やかにまたしっかりと根を下したということに ついては、「社会的」が「一般的」よりも意味ぶかく、また「法律的」よりも人間的だ、 という事実が与って力があるということは確かである。重大な点は、多くの人がつぎの ように考えているとの事実である。すなわち、伝統的な正義の三分法はまったく新しい 社会的状況を把え、規制するには不十分である。最近、まったく新しい社会的―法的 事態が生じた。新しい社会的階層がこれまで知られていなかった問題を生ぜしめた。 とくに経済ならびに政治生活における著しい進歩と変化とは、つぎのような新しい考慮 と決定とをわれわれに要求する――すなわち正義についての伝統的な教説を第四の種類 の正義、つまり社会正義によって補足しなければならない、ということを。個々の場合 についていえば、とくにつぎの諸事実を指摘できよう。現代における産業経済――それ は資本と労働との対立をふくみ、プロレタリアとプロレタリア解放の問題、労働者に 固有の労働権および団結権の必要性などをふくむ。前時代の「政治的共同体」とは きわめて異なったものである「近代国家」――それは当初から権力の拡大、国家全能( 全体性)へと向った。このような国家の肩を持って、法律的正義の義務を強調すること はきわめて危険であろう。なぜならそれは法律や権利を共通善にではなく、自らの 無制限的な権力欲望に奉仕せしめるのであるから……といった論がなされる。さらに、
81 :
名無しさん@3周年 :04/02/23 03:34
より大いなる経済―政治単位へと向う発展は進んでやまず、これまで間に合っていた 小規模の尺度ではもはや十分でない。このような超国家的ないし国際的なからみあいが いたるところで事態に大きな影響を与え、そのため社会的全体がそのメンバー(部分) にたいして有する関係はあらたに規定を要するようになった。「国家」はしだいに全体 的たることをやめるようになってきており、それは――まったく没落してしまわない ためには――より高度の全体における一部分としてのみ生存することができるのである。 …… なんびとも右の諸事実が真実であり、十分に傾聴すべきものだということを否定しない であろう。いかなる代価を払っても伝統的な分類を固執しようとすることは無意味で あろう。他方、その真価が確証された徳論の原則および徳の分類を放棄するいわれもない。 この問題において決定的なのは、時代的な諸問題の多数さや多様さではなくて、ただ 諸々の観点や秩序における本質的な差異なのである(問110、1参照)。正義の分類に 関する論争よりも重大なことは、(1) いずこに、またいかなる理由で法的義務が見出 されるか、についてのできるかぎり包括的な指示 (2) これらの義務をすべてあます ところなく遂行しようとする、確乎とした意志、である。
82 :
名無しさん@3周年 :04/02/23 03:36
【110 社会正義とはなにか?】 ●社会正義はけっして一つの新しい、独立的な正義の種類ではなく、たんに法律的正義と 配分正義とをあわせたものを指す新しい表現にすぎない。 すでにペッシュ(H.Pesch,S.J.,1854-1926)は、社会正義とは法律的と配分正義とを 一しょにしたものにたいする名称にすぎない、との見解をとっていた。かれにつづく 著者たちもそれと同意見であった。だが社会正義を独立的な、第四の正義であるとする 人々もある――すなわち、これによってそれまで不完全だった正義の分類が補完され、 完全になったというのである。したがってこの見解によると正義にはつぎの四種がある ことになる――一般的、交換的、配分的および社会的。だがこの立場において一般的 (法律的)正義はあまり言及されず、しばしば付帯的に言及されているにとどまる。 われわれは第一の見解に同意する。問題になっているのは一つの新しい徳ではなくて、 かの二つの種類の正義にとっての一つの新しい用語なのである――これらの正義は全体 がそのメンバーにたいして有する関係およびその逆の関係を規制し、かくして両者とも 直接に共通善に、したがってまた共同体における秩序にかかわっている。「社会正義」 という用語は確かに社会的時代に大いにふさわしいものである。それは一般的および 配分的正義の新しい側面ないし機能をあかるみにだす。正義の徳全体の内的構造が変化 したのではないが、各々の種類の正義が相互補足の関係にたっていることが一層明らか
83 :
名無しさん@3周年 :04/02/23 03:37
にされ、またそれらがこんにちの状況との関係において確証さるべきかぎりにおいて より明らかに理解されている。したがって社会正義は、メンバーが共通善にたいして 負うているものならびに共同体が共通善からしてメンバーにたいして負うているもの、 をふくんでいる。したがってそれを共通善的正義と呼ぶことはきわめて正しい。倫理 的にいって重大な諸々の問題ないし点は、原則的にいって以前と変わっていない。 財貨がなんびとに属するか、どの程度までそれらを処分する権限があるか、なにゆえに それらは或る特定の仕方で配分し、分与しなければならないか、いかなる場合に、また どの程度まで共通善は私的善に優越するか? ┌ 法律的ないし一般的 ┐ 正義 ┤ ├ 社会正義 │ ┌ 配分的 ┘ └ 特殊的┤ └ 交換的
84 :
名無しさん@3周年 :04/02/23 03:37
1 或る新しい徳の存在が認められるのは、或る独自の、これまで忘れられていた 「形相的対象」があかるみにだされる場合にかぎられる。すなわち、あることがらに ついて一つのまったく新しい観点がうかびあがってくる場合である――それはそのとき までは、それまでに存在していた見方や動機の外にあったために把えられなかったので ある。これにたいして、或る徳によって処理されるべき個別的な問題がたんに数多く なり複雑化したという場合、時代的・状況的な原因からして或る徳の領域を見渡し、 諸々の義務を個々の場合について規定することがより困難になったという場合、その ような場合これまでの徳の分類や枚挙に欠陥が生じたことにはならないのである。 まさに三つの関係が原則的にいって社会生活を確立し、秩序づける――すなわち、 全体が部分にたいして、部分が全体にたいして、および部分が相互間に有する関係 である。これらの関係はそれぞれの場合に特定の形をとり、発展の度合にしたがって いろいろに変化することもできる。だが原則的にその数はふえることも減ることもない。 これら三重の関係に三重の「おいめ」が対応する――すなわちなにかが法的に帰せらる べきであり、また遂行さるべきであると言われるさいの三つの仕方が。そして このような「おいめ」(debitum)の区別だけが正義の種類を規定するさいのよりどころ となるのである。 [注意] とくに人気があるのは、社会正義とは長い間むなしく求められてきた経済 正義である、との見解である。その課題は経済的なことがらを秩序づけることだ、と いわれる。これにたいしてはつぎのように答える。経済がかかわっているところの 物的な財は、正義の内部において或る独立の種類を成立させる、規定ないし分類の 根拠とはなりえない。それは正義の三つの種類すべての対象となるのであって、 それぞれによって、それらに固有のおいめの性質にしたがって把握されるのである。
85 :
名無しさん@3周年 :04/02/23 03:38
2 「各人にかれのものを」という命題はたんに特殊的な(個人的)正義の原理として のみ問題になりうるのであるが、これにたいして社会正義の原則は「社会秩序ないしは 共通善は確保さるべし」という命題である、と主張する人々がある。これにたいしては つぎのように答える。すべての種類の厳密な正義が「各人にかれのものを」という標語 に服する。「かれのもの」という正義の媒介概念は、それをゆがめるという危険を おかすことなしには、個人主義的な意味にせばめてしまうことはできない。社会秩序は まさに、共同体全体にたいしてもメンバーにたいしてもそれぞれかれのものが与え られる、ということによって維持され、保障されるのである。共同体全体にとっての 「かれのもの」は一言にしていえば秩序であり、それゆえに共通善への意志は社会秩序 への意志と同じものを意味する(全体は秩序ある仕方によってのみ存立し、発展する ことができるのである)。 3 とくに注意すべきことは、法律的正義の内部における自然的および実定法的な機能 の相違である(問107、3)。自然法的機能は自然の目的ならびに意志へと導かれる。 それは実定法が包括し、規制することのできないさまざまの考慮が看過されたり無視 されたりすることのないよう、保護する。それは具体的な秩序につねに自然的な秩序を 先行させるかぎりにおいて、立法に「柔軟性」を与える。それはまた人間の全体的な 善が新しい可能性や状況に一致する仕方で追求され、実現されるための余地がつくり だされるよう、配慮する。
86 :
名無しさん@3周年 :04/02/23 03:41
4 技術的・経済的ならびに政治的発展が進行するにつれて、われわれはつぎのような 状態に近づいてゆく――すなわち、共通善のまったき内容、つまり「人間の総体的な 善」(問26)がただ超国家的な秩序においてのみ実現され、保障されるような状態に。 これまでの秩序はいよいよその不十分さを明らかにしてきている、なぜならこんにちの 政治的機構はこの人間の総体的な善の諸条件および要求を創りだしたり実現したりする ことが前にもましてできなくなりつつあるからである。これに応じて一般的ならびに 配分正義(したがって社会正義の)の重要な諸課題は、より包括的で高いレベルに おいて持ち出され解決されねばならないようになろう。このように、全体―部分の 関係が新しい具体的な形をとって現れつつある。こんにちにおいてなお全体的な共同体 としての性格を持っている(あるいは持っているように見える)社会構造は、この 将来の秩序においてはもっぱら(下位の)メンバー共同体としての性格をおびなければ ならないであろう。だが原則的には社会的諸関係―部分にたいする全体、全体にたい する部分、部分相互間――は変化をうけない。だが現代の社会倫理学にはこれまでより もより強度の注意と顧慮とを要する、一つの緊急な問題があり、つぎの問でそれをとり あげることになる。
87 :
名無しさん@3周年 :04/02/23 03:42
【111 「社会正義」という表現はとくにいかなることを明示しているか。】 ●「社会正義」という表現はとくにつぎのことがらを明示している。 1 メンバー(部分的)共同体が上位の全体的共同体にたいして、ならびに相互間に 有する義務。 2 メンバーが社会的発展にたいして有する義務。 1 共同体をつくりあげているのは、個々の人格だけではなく、その起源ならびに目的 からしてより高い全体的共同体に属するよう定められているところの、(下位の)諸 共同体である。これらのメンバー共同体は、全体的共同体(共通善)にたいして、 それらのみが果しうるところの一定の義務を持っている。またそれらは、全体的共同体 によって尊重され、保障さるべき諸権利を持っている(問51−52)。したがって メンバー共同体は、自己ならびに自己が全体的共同体にたいして有する意義を認識し、 それに基づいて発展してゆくようにしなければならぬ。それらの目的や課題が自然に よって確立されていないかぎりにおいて(問26−27)、共通善がかなりの考慮を 要求できる。なぜなら、ある場合、つまり必要かくべからざる事情が生じたさいには、 一定のことがらが直ちになされねばならず、そしてこのことは特定のメンバー共同体 にかなりの制限を課することが可能だからである。 メンバー共同体は相互に独立的な構造として関係しているのみでなく、メンバー つまり同じ全体的共同体の部分として関係している。この後者の観点からして、 それらは相互に寛容のみならず自己抑制と奨励とを負うている――それぞれが共通善に たいして有する意義に応ずる程度において。たとえばスポーツや友交推進のための 共同体があまりに威張りすぎて、人々がより高い文化的な諸善からそれさせられ、 ひきはなされることは正しくない。また演劇や映画が、教育機関が損害をこうむる ほどの援助を要求することも正しくない。
88 :
名無しさん@3周年 :04/02/23 03:42
2 現代は社会生活ならびに社会秩序がいかに変動的であるかを、おそるべき仕方で 示した。人々は共通善に関してつねに新しい課題に直面している。共通善はけっして、 いつでもまたいたるところにおいて同様の仕方で実現されるのではない(農業および 工業国家、長い平和時代、困難な戦争期間、人口分布における区別と変動、亡命者や 追放者の問題)。ここからして共通善を実現しようとの純粋な意志は、その時々の 必要に応じて社会秩序に奉仕し、時宜に適した仕方で適切な法律的基礎をつくりだし、 時が要求する不可避的な犠牲を甘受しようとするところの、心構えを意味し、内含 している。 疑いもなく、真の意味での社会的な思考や行動は、ひとが伝統をかたくなに固執 することなく、まさに生命的なものに順応してゆくところに見出される。したがって、 この意味において「社会正義」という表現はたしかになんらかの新しいことがらを 強調している――すなわち、最近の発展が社会秩序の不安定さ、つまりそれが変動の 危険にさらされていることをこれまでになかったほど明確に示したかぎりにおいて、 それはなんらか新しいものなのである。
89 :
名無しさん@3周年 :04/02/23 03:45
次回からは、いよいよ「愛」のことについてです。では一端、休みます。
キリストキョウは便利な宗教ではあるので、いい部分だけ利用すればいい
91 :
名無しさん@3周年 :04/02/25 03:26
>>90 >キリストキョウは便利な宗教ではあるので、いい部分だけ利用すればいい
まだ引用が途中ですから、茶々は入れないように!キリスト教はそんな甘くない
と思います。個人的に。
92 :
名無しさん@3周年 :04/02/25 03:26
〓〓〓〓〓第五課 社会生活における愛〓〓〓〓〓 社会生活が秩序あるふさわしい道にそって進められるためには、なんびとでも経験し また認めなければならないことであるが、正義とならんで愛が必要である。ここでは どのような愛が考えられているのか? それはどのように作用するのか? 正義とは どのような関係にあるか?
93 :
名無しさん@3周年 :04/02/25 03:27
‖‖‖‖‖‖‖‖‖【序言】‖‖‖‖‖‖‖‖‖‖ 1 「愛」という言葉は多くの意味を持っており、まずつぎのようなことがらを指す ことができる。 (a) すべての被造物に内在しており、そのものに適合した目的(善)、したがって またそのものの本性に応じた完全性に到達するための、自然本性的な傾向ないしは衝動。 それゆえに、古代の英知は自然の「重み」(pondus)について語っている。すべての ものはその完全性を追求(愛)し、平和をのぞむ(愛する)(聖アクグスチヌス)。 (b) 感覚的な欲求能力が知覚された個別的善にたいして有する、第一の根源的な 働き、すなわち情念、ないし根本的情緒としての愛。感覚によって把えられたものは 直ちに感覚的欲求能力のうちに満足を生ぜしめるのである。 (c) 意志が善にたいして有する傾きないし満足。意志と善との間の最初の出会い、 理性が意志にたいして善、つまり欲求に価するものとして提示するところのものへ 向う、意志の直接的な傾き。この点からすれば、愛はすべての追求、決定、行動の根拠 であり、始源であり不可避的な前提である。あこがれや悦び、いな拒否や羨望や憎しみ もそこに根ざしている。愛はあらゆる目的の意図、目的のための手段について行われる あらゆる選択に先立つものである。 [注意] これにつづく説明において、「愛」という言葉のこれ以外の意味が解明 される。ところで「自然の重み」として、またとりわけ情念の意味に解された愛が 社会生活にとっていかに重大(時として致命的!)であるとしても、倫理の領域に おいて決定的なのは精神的・意志的な力および徳としての愛である――したがって、 精神的な認識にともない、さらに自分の側からこの精神的な認識をふたたび生命づけ、 豊かなものにするところの愛である。たしかに人間は自分が認識するものだけを 愛しうるのであるが、愛はかれをかりたてていよいよ深く認識(理解)せしめる のである。なぜなら愛は自らの愛するものについてのたんに一般的ないしは表面的 な認識では満足せず、その個人的な秘密や遺言を知ろうとするからである。
94 :
名無しさん@3周年 :04/02/25 03:27
2 意志はその満足をつぎのものに向けることができる。 (a) 事物。 なんらかの価値ある事物ないし事態が、それが必要不可欠であるか、 もしくは有用であるがゆえに、または或る人物の完全性に寄与するがゆえに、また そのかぎりにおいて追求される(知識、徳、権力、勢威、富)。このように、問題 になるのはたんに物質的なものにかぎられない。 (b) 人物。 或る他人、「汝」が意志の対象ないし目標となる。したがってこの 愛は精神的な本性における同等性、ないしはすくなくとも類似性を前提とし、人格 の間においてのみ成立することができる。或る人格にたいする愛のみが、本来的 かつまったき意味において、「愛」の名前に価する(人は動物を大事にできるが 愛することはできない)。このさいつぎのことがらに注意しなければならぬ。 (T) 他者の人格がそれ自体のゆえに愛される場合。愛する者は他者に善を欲する ――後者がそれに価するがゆえに――、そして愛する者は他者が完全であること (善、幸福)を見ようと欲し、またそのようにしようと欲する。これは好意の愛 であり、功利的でない没我的な愛である。 (U) 他者の人格が、愛する者自身の利害から愛される場合。愛する者は他者が 自分に役立ち、利益をもたらすかぎりにおいて、後者に結びついており、愛する 者は他者からなんらかのことがらを希望ないし期待しているがゆえに、その者と 結合している。これは自己追求的、功利的、利己的な愛である(必ずしも悪い 意味での利己主義的愛ではない)。 (V) 二人あるいはそれ以上の人格が相互に好意をもって出会うときには、その愛 は友愛的な愛となる。真の友愛はつぎのことを特徴とする――すなわち、各人が 完全に他者に奉仕しようと欲し、各人が他者に自己と自己のものとをまったき、 自由な献身の精神をもって与えること(一人は他の者の「自我」となる、「与え る」愛)。この友愛的な愛は当然つぎの場合に最高潮に達する。すなわち、 一人がこのような献身を遂行し、他者からこのような献身をうけとる場合に―― しかもそのさいなんら内的な豊かさというものを生ぜしめることなしに(自らが 恩寵を注いだ被造物にたいする神の愛)。
95 :
名無しさん@3周年 :04/02/25 03:35
3 人々の間にはいくつかの(相互的な)愛の形態がある。 (a) まったく人格的な愛情(結婚、家族、人格的な友愛)。動機となるのは直接的 かつ専ら他者の人格――その人格に固有の長所もしくは自然的な結びつきに基づいて ――である。この愛は愛する者自身に最高の収穫をもたらすのみでなく、その輝きと 影響の及ぶところ、多くの人々、場合によっては或る諸民族や時代全体にとって最大 の意義を持ち、最大の恵みをもたらすものとなりうるのである。 (b) 普遍的な人間愛。その動機は人間本性、すなわち本質、目的、課題における 自然本性的な一致と平等である。すなわち、一人は他を(すべての者を)、後者が 人間であるがゆえに、また人間であるかぎりにおいて愛する。この愛は自然的・ 社会 的な正義の前提である(この正義は広い領域にわたってこの愛の要求を実現 しなければならない――すなわち、人間本性の善がおいめとしての性格を有する場合 にはいつでも)。ところでこのことはまさに、もっとも根源的で高貴な自然本性の 善についていえる(問71)。だが普遍的な人間愛は、キリスト教的な隣人愛の名 の下に行われるのではないところの、多くの慈善事業にさいして推進力となっている (福祉事業、社会奉仕)。この愛は社会生活において疑いもなくきわめて高い意義を 有する。
96 :
名無しさん@3周年 :04/02/25 03:35
(c) 社会的な愛。或る特定の共同体の諸メンバー間の愛、つまり統一的な目的として の共通善、ないしは同じ共同体に共同的に属するということに基づく愛。この愛の 対象は共同体の福祉、まり共同体に秩序づけられており、ともどもに共同体のうちに 生活しているすべてのメンバーの福祉、である。追求に価する目的としての共通善に たいする愛は、共通善をおいめ、つまり法の基礎とみなすところの、社会正義に先行 する。社会的な愛が共同体へと豊かな恵みをもたらす(この愛が支配し、影響力を 及ぼす場合に)ということについては、あらためて指摘するまでもないであろう。 なぜならめんばーが共通善を愛する、つまり善として進んで肯定し追求すればする ほど、共同体にたいする義務を進んでより熱心に実践するようになり、ますます相互 に一体化してゆくからである。 (d) キリスト教的隣人愛。これは本質的に異なった高い、超自然的な救済および 恩寵の秩序に属する。これこそ救われたる世界のうちにおける根本的な力であり、 個人と共同体の生命における根本的な力である。これについては二、三のことを 注意しておく必要がある。
97 :
名無しさん@3周年 :04/02/25 03:36
【112 キリスト教的隣人愛とはなにか?】 ●キリスト教的隣人愛とは、神から同胞へとおしひろげられたかぎりにおいての、 超自然的な神愛の徳にほかならない。 神愛と隣人愛とは同一の徳である。これは超自然的なものであって、神によって 成聖の恩寵と同時に人間(人間の意志)に注入されたものである。その直接的ないし 主要な対象は神自身、つまり人間の最高の善にして最終目的である、三位一体なる 神である。神がかれ自身のゆえに、その無限の善のゆえに愛されるのである。 [注意] この愛の根源、対象ならびに目的が神自身であることからして、それは 「対紳徳」と呼ばれる。 この愛の第二の、すぐあとに続く対象は、神に恩寵を授けられ、「神の本性に 与り」(ペテロ後書、1−4)、次の世における神の直観と愛とに召され、たかめ られているかぎりにおいての、理性的被造物である。この愛は神から神のかたどり、 神の子供へと向う。だがかれらは「神において」愛されるのであり、神がこのような 被造物にたいする愛の動機である。かれらは神において「隣人」となるのである。
98 :
名無しさん@3周年 :04/02/25 03:36
【113 なぜこの隣人愛は「キリスト教的」と呼ばれるか?】 ●この隣人愛はつぎの理由からキリスト教的と呼ばれる。 1 キリストがわれわれのために恩寵と共にこの愛の力と徳とをかちえ、われわれに 与えた。 2 キリストが自らこの愛を最高度にまで実践し、またこの愛を主な掟として、 キリストに従う者のしるしとして、宣明した 3 それゆえにわれわれは、われわれの同胞を「キリストのために」愛するよう 召され、義務づけられている。 世界および人々の間における秩序は神自らによって決定的に、人となった神の子 たるキリストを基礎として確立されている。万人の救いはキリストによって十字架上 でかちえられた。人間への神の恩寵の賜物はそれゆえに唯一人の仲介者にして救い主 なるイエズス・キリストのしるしをおびている。それらはキリストの恩寵なのである。 1 隣人愛とはキリストによって救われた同胞への愛、つまりキリストにおける兄弟 愛である。このようにキリストは、この愛を宣言するにとどまらず、この愛の動機で ある。すなわち、われわれは同胞をキリストのゆえに、キリストがかれらのうちに おいてわれわれと出会うがゆえに、愛するのである(「なんじらがわたしの兄弟の いと小さき者になしたことは、わたしになしたのである」)。
99 :
名無しさん@3周年 :04/02/25 03:39
2 二重の観点からして隣人愛は万人におしひろげられる。 (T)万人が神のかたどりであり、神の子となるよう召されている。 (U)すべての者が救われており、イエズス・キリストの体の肢体である。 3 キリストが隣人愛を自らの生活ならびに教えの前面におしだしているとの事実 からして、われわれは、この愛の掟の重要さと困難さを見てとることができる。 人間の試みはこれをまっとうするか否かにかかっている(最後の審判における、 救われた者と呪われた者との分離)。そして、自己放棄と十字架との宗教は、 けっして容易なものではなく、疑いもなくもっとも困難な掟を、試金石として かかげているのである。 [注意] さいきん人々は隣人愛の責務的な性格を、つぎのように言うことによって 疑問視しようと試みている。すなわち、隣人愛の掟は厳密な意味での掟ではない なぜなら「愛」は命令できるものではなく、自発的に示し、与えられるものだ、と いうのである。これにたいしてはつぎのように答える。 T キリスト自ら隣人愛の掟についてまったく明確に語っている。「わたしは 汝等に新しい掟を与える、汝等お互いに愛せよ。わたしが汝等を愛したごとくに。」 キリストはこの場合明らかに外的な愛の業についてのみでなく、心情としての、 意志の行為としての愛を頭においているのである。 U 意志の自由な行為は、自由であることをやめることなしに、命令され、従順 によっておこなわれることができる。 V 愛の動機は掟によってけっして損われたり、弱められたり、除外されたり するものではなく、隣人愛は動機からしてその特徴、いわば形をえてくるのである。 愛は愛に固有の動機によって導かれるがゆえに、またそのかぎりにおいてのみ愛で ある。この動機は愛の特徴をなす献身をひきおこす。掟はこのような事情をなんら 変更(ないしは破壊)するものではない。
100 :
名無しさん@3周年 :04/02/26 02:03
【114 隣人愛は社会生活にたいしてどのような影響を及ぼすか?】 ●隣人愛は社会生活にたいして測りしれぬほど広く、深く、有益な影響を与える。 1 愛は真理の探求および伝達へとかりたてる。 誤謬と無知とは一般に正しい生活にとって、とくに正しい社会秩序にとっての、 二つの主要障害である。無知が民族のあらゆる階層にひろがり、人生の重要な諸 問題におよび、さらにたくみに偽装された偽りの思想が、不確かでよりどころの なくなった人々をかき乱す場合には、危険はきわめて大である。そのような状態 から人々を救いうるのは真理のみである。隣人愛はわれわれをかりたてて、根こそぎ にされた人々にたいしてまずできうるかぎり真理への道を示し、知らせることに よって、同情をそそがしめる(精神的な慈愛事業のうちには、誤りにおちた者に教え、 疑いを抱いている者に助言を与えることがふくまれる)。愛は「真理への奉仕」 において忍耐づよく没我的である。すなわち愛のあるところ、人は真理の追求 ならびに深化と結びついているところの、苦労をいとわない。愛はわれわれを燃え たたせ、真理へと導くところのふさわしい言葉を見出す術を知っている(説教や 講義、新聞やラジオの使徒職、対話、あらゆる真理にたいして心を開くこと、 そこからして結びつきのいとぐちが見出される)。
101 :
名無しさん@3周年 :04/02/26 02:03
2 愛によってわれわれは人間にたいする高い尊敬へと導かれ、かれの苦難を深く理解 できるようになる。 愛こそは愛の対象にたいする開かれた眼を有する(愛する者こそ相手を深く理解 できる)。キリスト教的隣人愛は同胞を神において、神からして、すなわち神の かたどり、神の子として見、抱擁する。さらにキリストにおいて、キリストからして、 すなわちキリストの血によって救われ、キリストの恩寵によって聖化された者として、 知り、かき抱く。これよりも高い見方や標準はない。すべての社会的秩序がそこに 始るところの人間の価値を、これよりも明らかに、また効果的に照明することは できない。たとえば聖トマス・アクィナスのごとき神学者は愛の効果の一つとして mutua inhaesio、すなわち愛する人々の一体化を挙げている。すなわち、あらゆる 不和が姿を消して、思考、努力、行動における真の一致が成就され、人々はお互いを 見知らぬ人のように冷淡にあしらうことはなくなる。愛は同胞の特性ならびに状況に ついてのもっとも深い理解を可能にし、他者の苦難を明白にし、敏感に感じさせる のである。
102 :
名無しさん@3周年 :04/02/26 02:04
3 愛のみが社会生活における最大の障害である利己主義にうちかつ。 愛は「自らのことを追求しない。」超自然的な愛は成聖の恩寵の結果として人間に 与えられるものであるから、それはいやす力を持っている。それは最悪の傷、すなわち 自我へのあやまれる執着をいやしてくれる。いづれにしても人間は本性からして大いに 容易かつ進んで自らのものを追求し、他人もしくは他と共通のことがらを追求はしない。 原罪はこの自然的な傾きを、それ自体としてみれば正しいところの道からそれさせて、 自我へのおそろしい「執念」を生ぜしめた。この後者は無数の形をとって現れ、いずれ の場合にも同胞と共同体とに害を与える(問19)。これにたいする効果的な対抗力は キリスト教的な隣人愛のみである。なぜならそれのみが適切にして決定的な動機と、 内的で霊的な援助を与えうるからである。すべての同胞において神とキリストが見られ、 出会われるときのみ、対立は、神的な助力のより高い統一と力とによってうちかたれる のである。 [注意] 最近の諸教皇は社会生活にとって犠牲、償いないし痛悔の有する意義とその 必要性とを強く説いている。人々はそのための動機と力とを超自然的な愛からえている ――愛によって人は進んで、また勇敢に犠牲と償いをささげるのである。
103 :
名無しさん@3周年 :04/02/26 02:06
4 愛はすべての徳に形相を与え、それらを行為へと動かす。 聖パウロは愛を「完徳の絆」と呼んでいる。愛はほかのすべての徳を把えて生気 づける。なぜならそれはすべての徳を最高の目的なる神へと秩序づけ、人間をして つねに「神の愛のゆえに」行動せしめるからである。すべての徳は隣人愛に仕え、 その呼びかけ、推進に服する。隣人愛は大度と友愛、忍耐と自足へと導く。それは また自然的な愛の心情および義務をもひきうけ、普遍的な人間愛ならびに社会的な 愛がその課題を遂行するように配慮する(問119)。
104 :
名無しさん@3周年 :04/02/26 02:06
5 愛は社会的進歩の源泉である。 ここで進歩というのは狭い意味にとられており、社会的なるものの把握(たとえば 資本と労働、財貨の生産と消費)、社会的立法、社会的秩序の建設、社会制度、 などにおける進歩を指す。社会的なるものの領域において、新しい洞察や施策へ 導くところの個々の理由は沢山ある。たとえば、労働力の保持、経済的収益性、 国民の健康にたいする危険、ある階層全体による自助運動(賃銀労働者の闘争)、 さらには国民の防衛力についての配慮、すなわち事的考慮(ビスマルクの社会政策) など。だが現実に社会的な進歩を人類のためになしとげてくれたのは、なんと いっても第一にキリスト的隣人愛の偉大なる戦士たち、かれらの勧告、模範、 行為などである。
105 :
名無しさん@3周年 :04/03/01 22:24
【115 隣人愛は正義からどのように区別されるか?】 ●愛徳と正義の徳とは、対象、動機、およびそれらが課する責務の種類にしたがって 相互に区別される。 1 正義はおいめ、すなわち他の者に属し、その者がそれにたいして厳密な要求を なしうるところのものにかかわっている。愛の対象は善である――それが他者を完全 にし、かれに贈られるかぎりにおいて、また愛する者が他者に好意を有し、かれを 好むかぎりにおいて(正義の対象は「汝のもの」であるのにたいして、愛の対象は 「わたしのもの」であり、自発的に提供されるものである)。 2 正義は他の人々を、要求するもの、要求をかかげて迫る「他者」として見る。 このことが要求ならびに「ふさわしい」均等性なるものの本質をなす。これにたいして 愛は他の人々を自らとひとしき者、神とキリストにおいて結ばれ、身近で一体化 された者とみなす。 3 正義の責務は客観的に確定できる主張に由来するものであり、厳密に規定でき、 それが遂行されない場合には強制できる。これにたいして隣人愛の責務は好意の気持、 ないしはわれわれがすべての人のうちにおいて、神とキリスト(全面的な愛にあたい し、われわれが愛の心情と行為とを通じてあやかってゆくところの)に出会う、 ということに由来するのである。それゆえに隣人愛はその本質からして適度という ことを知らない(ひとは十分に愛するとか、まして愛しすぎるということはでき ない)のであり、それば神(および善)への内面的な愛着からして自由に与えられる ものでなければならず、強制することは不可能である。たしかに愛の掟はあるが、 強制された愛の行為というものはない。そのような行為は強制されることによって 愛のしるしとしての性格を失うであろう。愛や慈善の業において賢明さや不賢明さ があるように、愛の秩序にたいする背反というものが可能である。しかし愛そのもの について度がすぎるといったことは不可能である。
106 :
名無しさん@3周年 :04/03/01 22:25
【116 隣人愛は正義にとってどのような意義を有するか?】 ●隣人愛は(1)正義の代用となるのではなく、正義を前提とする(2)正義が 課する責務の忠実な遂行へと動かす(3)とくに正義ではまにあわないところに おいてその力を発揮する。 ピオ十一世(回勅Quadraesimo Anno,1931.5.15「社会秩序について」4)「…… 立法によってあまりにもしばしば見過ごされ、時として是認さえされているところの、 正義にたいする背反を自らのマントをもって覆うことが、あたかも隣人愛の仕事で あるとでも言うかのように」。 ピオ十一世(回勅Quadraesimo Anno,1931.5.15「社会秩序について」137) 「したがって、ひたすら正義、それも交換正義だけの確立を念じて、愛の協力を 高慢にも斥けるところの思慮のたりない改革者は、すべて大きな誤りにおちいって いる。たしかに愛は、当然なければならないのに否定された正義の代用品とは なりえない。だがひとが正義にしたがって確保すべきものをすべて確保した、 まさにそのときに、いつでも愛にとっての広い領域がのこされている。正義は それがいかに忠実に実行される場合にも、世界から社会的な対立の原因を除き去る ことができるだけで、人々の心を内面的に結びつけることはできない。ところが、 成員の間の内的な心の結びつきこそ、社会平和の確保、ならびに人々の間の協力の 推進のための、すべての組織にとっての確実な基礎なのである」。
107 :
名無しさん@3周年 :04/03/01 22:26
ビオ十一世(回勅Divini Redemptoris,1937.3.19「無神論的共産主義に反対して」; Marmy,Emil.Mensch und Gemeinschaft in christlicher Schau,Paulusdruckerei, Freiburg,1832年から1944年にいたる教皇文書を収載 213 f)「だが愛は それが正義をも満足させているのでなければ、真の愛であるとはいえない。使徒 パウロはこう教えている。隣人を愛する者は律法を完遂し、それを基礎づけている。 けだし、姦淫するなかれ、殺すなかれ、盗むなかれ……などすべての掟は一つの 言葉にまとめられる。すなわち、隣人をおのれのごとくに愛せよとの言葉に。 このように使徒によればすべての義務は、真の愛という一つの掟に帰せられるので あり、たとえば殺すなかれ、盗むなかれといった、厳格な正義によって要求される 義務もそれにもれないのである。労働者にたいして、かれの厳密な権利に属する ところの賃銀を与えないような愛は、愛ではなく空虚な言葉にすぎず、空ろなみせ かけの愛にすぎない」。 ピオ十二世(回勅Summi Pontificatus,1936.10.20「人類の宗教的崩壊と宗教的再 教育について」;Marmy,Emil.Mensch und Gemeinschaft in christlicher Schau, Paulusdruckerei,Freiburg,1832年から1944年にいたる教皇文書を収載 1297) 「こんにちひろまっているところの危険な諸誤謬のうちの第一のものは、 われわれが人々の間の連帯性と愛との法則を忘却してしまっているということに 存する。すなわちこの法則は、すべての人間の共同の起源ならびに(民族の如何を 問わず)同一の理性的な本性によって命ぜられ、課せられたものであり、また イエズス・キリストが十字架の祭壇において罪深い人類のために天の父に捧げた、 救いの犠牲によって命ぜられたものである」。
108 :
名無しさん@3周年 :04/03/01 22:29
1 隣人愛はその他の徳にその真のつまり最終的な価値を与える。といっても、善き 有徳な行動は愛なしには無価値であるとか、神がそのほかの徳の代用品となりうると いうのではない。だが超自然的な倫理観はそもそも超自然的な神―隣人愛(唯一の徳 である!)によって超自然的な目的へと秩序づけられ、まさにそれによって完き意味 での徳となる。なぜなら、人間の行動ならびに人間を最終目的との関係において善い ものたらしめることが、徳の本質に属するからである。隣人愛はわれわれを正義の 課する義務から解放し、正義を不要にし、その意義ならびに要請力を弱めるのだと 考えることは、粗雑で宿命的な誤謬である。まさにその反対が真実なのだ。愛は あらゆる形における善を求める。しかるに法(正)は疑いもなく高い善である。法と 正義なしには、いかなる社会秩序もありえない。法の歪曲と侵害のあるところ、 もっとも容易に争いと不和とが生ずる。 〔例〕 負債を返済し、労働者に正しい賃銀を払う代りに慈善をすることは正しく ない。ひとは愛の動機からうそをついたり、盗んだりしてはならない。妊娠 中絶(堕胎)や安楽死は、それ自体において正しくないから、たとい同情に 発するもの、人情からのものであっても、決して行ってはならない。 2 隣人愛は人をうながして、かれが正義の命ずる義務をすべて忠実に果たすように しむける。人は「愛からして」正しくありうるし、またあらねばならぬ。かれが 同朋を愛するがゆえに、また人々のうちに神とキリストを見出すがゆえに(そのゆえに かれらにたいして、進んでかれらに属するものを確保し、与えるように全力をつくす のである)。キリスト自身こうのべている。「自分が人々にこうしてもらいたいと 欲すること、そのことをかれらにたいしてもなせ」(マタイ7・12)。 そのほか、愛は社会正義を最後のものと解するのではない。なぜなら自然および 創造主の意思にかなうような状態をつくりだすことが社会正義の義務であり、愛は このような状態が実現され保障されることに最大の関心を有するからである。
109 :
名無しさん@3周年 :04/03/01 22:29
3 正義がつつみ、秩序づけるのは特定の諸関係、つまり法的な諸関係のみである。 この場合正義はただ事実を考慮に入れることができるのみである。なぜならそれは 人々の間においておいめが均等なものとなるよう、あるいは均等なものが回復され るよう、配慮することができるのみであるから。それが緊急な場合を考慮に入れる のは、それらに一定のおいめ(当然帰すべきもの)が依存しているかぎりにおいて である(負担の均等化が要求される場合における、一定の収入および財産を租税と して収める義務、人口過剰の場合に一定の制限内で住居を徴用する可能性)。他面、 緊急事態や災害の救済は正義の役割ではなく、またそのようなことは可能でもない。 反対に、一面的およびかたくなに法の立場を固執する場合には、人々は冷酷かつ 鈍感となる。それゆえに人々の間には隣人愛が支配しなければならぬ、さもなくぱ 社会生活は堪えがたいものとなり、援助をもっとも必要とする人々、つまり貧困で 困窮にあえぐ人々が看過されるということになるであろう。 隣人愛は正義が終るところに始る。愛が手をさしのべるのはまさに苦しんでいる 者、助けを必要とする者である。こうして愛は慈愛へと転ずるのである(問124)。 [注意]正義と愛との間の関係についてはつぎの二つのことがらに大いに注意し なければならぬ。 (a) われわれはしばしばつぎのような表現を耳にする。「このことは正義からして ではなく、ただ愛の立場から義務であるにすぎない」(たとえば貧しい者や、人生に 絶望している者を助けること、落胆者を力づけ、迷っている者に助言を与えること、 など)。このような言い方はしばしば、愛の立場からの責務はそれほどまじめに とらなくてもよい、すくなくとも正義からする責務のようにはまじめにとらなくても よい、との印象を与える(ただ愛に基づくもので、正義に基づくものではない、 との言い方は愛をほとんど無意味なことにしてしまうようなひびきを持つ)。 (T)それ自体において見るとき愛の義務は法の義務よりも高いものである―― 一般に後者をまず果たさなければならないとはいえ。義務の高さは徳の高さに ともなう。愛こそは第一、最大、そしてもっとも重要な徳である。
110 :
名無しさん@3周年 :04/03/01 22:30
(U)「愛による義務だけ」との表現は一般に責務の程度、困難さにではなく、 ただ義務の種類にふれているのみであり、とくにそこで遂行さるべき回復(補償) が考慮に入れられている。法的な要求は契約の形をとることができ、事情に よっては提訴される。それを無視ないし違反する者は、不正を行う者であって、 そのことについて責任を問われ、「告訴」されることも可能である。人は愛の しるしをふさわしいこと、あるいはさらに義務として期待することはできるが、 それを怠る者はなんら不正をなす者ではなく、(法的に)それを遂行するよう 強制されることもありえない――たとえかれが神の前においては重大なあやまち を犯しているにしても。 (b) 「愛を要求する権利」ないしは「愛の権利」なるものがあるだろうか?旧約も 新約も愛の掟をふくんでいる。このように愛は律法および服従の対象となることが できる。だが、そのことによって愛が一種の権利になるのだろうか? 掟の下に入ってくるのはいつも行為の遂行だけである。すなわち掟は神・隣人愛の 行為をなせと命ずる。また掟はなんびとが隣人であり、したがって愛をどこまでおし ひろげなければならないかを示す。さいごに、掟は一般にどれほどの助力を与えるべき かを規定できる。だがこれらのことはすべて愛の本質にふれるものではない。愛の 行為は、人がまさに愛の動機からして自由に欲し行動するところにのみ見出される。 或る人にたいして神と隣人を愛すべきだ、と何百回、何千回となく命令できる。だが その人が愛の行為をなすのはただつぎの場合にかぎられる。すなわち、かれが内的な 自由な意思からして最高の善なる神に身をゆだね、同朋にたいして善くあろうと( かれらのうちにおいて神とキリストに出会うがゆえに)欲する場合。愛の業もまた つねにその固有の性質、つまり、内的な、強制されたものではなくて自由に与えられた 好意のしるしとしての性格、を保つ。愛によって聖化され、栄光あるものとされ、 補足さた権利というものはありうるが、愛の権利というものはない。愛の義務は 法的義務よりも、より先なる源泉、より高い位置を有し、またより強度のものである。
111 :
名無しさん@3周年 :04/03/01 22:32
【117 隣人愛はどのような性質をそなえていなければならないか?】 ●隣人愛はつぎのようなものでなければならぬ。(1)普遍的(2)秩序或る愛 (3)実践的(4)時宜をえたものであること(5)慈善的。 これらの特性はつぎの諸問において説明される。この愛が、より大いなる隣人愛に よるのでなければうちかつことができないような事態が生じた場合に、とくに発揮 されなければならないことはいうまでもない。ここからして多くの点から見て、愛の 責務はいつでも同じ大きさや強さを持つものではない。
112 :
名無しさん@3周年 :04/03/01 22:33
【118 どのような場合に愛は普遍的か?】 ●愛は、それがなんびとをも排除せず、万人をつつみ、できるかぎりすべての人を 助けようとするとき、普遍的であるといえる。 だれでも知っているように、キリスト教的な隣人愛は敵をも愛するところまでいたる。 それは自然的な抵抗や対立、憎しみやそのほかの邪悪さにうちかつ。このたの力は、 この愛の超自然的な動機、および恩寵の力に由来する。 或る人が他の人を愛から除外する理由はいろいろある。こんにち隣人愛の普遍性は、 とくに国民中のさまざまの階層の間の関係において発揮されなくてはならない。愛は すべての人におよぶ――経済的な地位、収入の程度、経済的な独立性や依存性、などに かかわらず。隣人愛は階級闘争、二つの陣営(労働市場における党派、つまり労働者と 資本家)への人々の分割、財産の有・無による評価、などに対立する。
113 :
名無しさん@3周年 :04/03/01 23:28
【119 愛はどのような場合に秩序あるものといえるか?】 ●愛は正しい基準によって導かれるときに、秩序あるものといえる。 隣人愛はたしかにすべての人々を包みこむものであるが、だからといって万人を同じ 程度に、また同じ仕方で愛さなければならない(またそうしてよい)ということには ならない。「愛の秩序」なるものが存在するのであって、この秩序の検討は重大である。 けだし実践上の諸決定はそれに依存するか、あるいは大いに影響をうけるのであるから。 1 愛の秩序について決定的な意味を持つのはつぎの三つの考慮である。 (a) 隣人愛の価値、自然的な結びつき、助けの必要性。 (b) 価値(諸善)の高さ。 (c) それぞれの関心事の緊急性。 愛の秩序は内的ならびに外的な行為、つまり善意ならびに善行にかかっている。いう までもなく外的行為にたいしては、内的行為にたいするよりも、より厳密な限界が ひかれる。 2 つぎの事実を認めなければならない。 (a) 人はすべての人々を個別的に愛することはできない――その理由はまさに ほとんどの人を個人的にはまったく知らないということである。 (b) 最大の善意をもっていても、人が助けることができるのはごく少数の人々のみ であり、助けたいと思う人々をすべて助けることはできないし、助けなければ ならないと承知している人々についても、いつも助けることができるわけではない。 人間の意思と能力にはかぎりがあり、これにたいして神の意志と力は無限である。
114 :
名無しさん@3周年 :04/03/01 23:29
3 愛の秩序についてはつぎの諸原理があてはまる。 (a) 愛の対象および動機は神自身、もしくは神的な善(bonum divinum)であるから、 人間はより聖でありより神と一体化して生きるほど、またかれが恩寵と神の子たる の資格においてより成長すればするほど、それ自体においてより愛に値する者と なる。客観的にいってふさわしい愛の高さは、聖性の段階に基づくのである(人間 としてのキリスト、聖母、さまざまの徳の充満に達した聖人達)。われわれは このように恩寵をうけ、高められた者にたいして神に与えられた豊かさおよび かれらにふさわしい栄誉をおしみなく悦び、望むのである。 (B) 隣人愛はその主体的―情緒的な面についていえば、愛するもの自体に結びついて いる、つまり愛の自然的な動機ならびに責務に結びついている(身内、共同体、 仲間、感謝の念)。われわれが自分に近い者、自分がもっとも緊密かつしっかりと 結びついていると意識しているところの人々を、ほかの人々よりもより強く愛する ということは、決して誤りではなく、まったく正しいことなのである(夫婦愛、 親子の愛、友愛)。 (c) 時として重要なのは、隣人が(自然的もしくは超自然的な)共同体の内部で、 共通善との関係において有する位置である。すなわち、全体にたいする考慮から して、つぎのことが示唆されもしくは義務となることすらある――すなわち共通善 にとって不可欠の働きをなすところの人々にたいして特別の援助を与えることが… …たといこのような援助が身内もしくは身近の者から除外されるような場合にも。 〔例〕 或る人が輸血によって、いずれも重大な死の危険にひんしている、病める 兄弟もしくは病める司祭のいずれかを救う、という選択に直面しているとする。 ところでかはつぎの理由からして司祭を救う決心をする。すなわち、今ここにおいて (たとえば戦争において、宗教迫害のさなかにおいて、もしくは布教地において) 人々は司祭なしにはおれない、との理由からして。
115 :
名無しさん@3周年 :04/03/01 23:30
(d) 価値の高低ならびに問題の緊急性は隣人愛にとってどうでもよいことではない。 なぜなら隣人愛は無差別的に善へと向うべきではないし、まして自らの好むままに 善について処置してゆくということはできないからである。困窮が大である場合 には、より速やかに、またゆたかに助けを与えなければならぬ。霊的な問題はしば しばとくに速やかで効果的な援助を必要とする。精神的な価値は物質的な価値に 優先せしめるべきである――危機にさいしてはしばしば第二次的なものとしなければ ならないが(学者にたいして、病人の世話をしたり、生計をたてるために肉体的な 仕事に従事する、といったことのために、研究活動を一時中止することを義務づけ うる)。ただ、なんびとといえども倫理的な正しさに反して行動することは許され ない。人はその彼岸的・永遠的な救いに直接に違反すること、自然的および神的な 道徳律と一致しないようなこと、を決してなすべきではない。キリスト教的な表現を 用いるならば、隣人愛は罪、すなわち神に背くということを代価にして完うする ことはできない。とくにこの意味においてつぎの言葉が妥当する。「各人は自らに とっての隣人である。」すなわち、なんびとといえども自らの不死なる霊魂を代価に 隣人の意にしたがったり、助けたりすることはできないのである。 1 真の自己愛と隣人愛とが和解しえないような仕方で対立せしめられることはない。 人は隣人のためにおおいなる犠牲をなすことによって、ないしは隣人のために多くの こと――たとえば祈りへの参加――を放棄することによってさえ(神の愛がかれを かりたててこのようなことをなさしめる)、かれは自己、つまり自らの霊魂の救いに 奉仕し、自己に益あることをしているのである。けだし、正しい精神をもって行われた 善は、すべて必然的にそれをなした者に帰ってくるからである。行為者はかれのすべて の善き行為によって第一かつ不可避的に完全にされ、価値ある者、豊かな者たらしめ られるのである。
116 :
名無しさん@3周年 :04/03/01 23:32
[注意] 右にのべたことがらにてらして見るとき、個々の場合においてことがらは 時おりきわめて複雑化しており、人はいかにして自らの義務を果すべきかについて 疑いを持つことが可能であり、また慎重に考慮をめぐらさねばならぬ、ということは 驚くにあたらない。この点についてNell−Breuningがつぎのように指摘 しているのは正しい「われわれがこのような方法的―科学的な仕方で導きだしたところ の秩序ないし順序と同じものを、誤った教育を受けていない人は幸いにもその健全な 人間理性をもって見出す――実際生活における大多数の場合について易々と、また 重要なことがらについても自力で間違いなく」。われわれはこれにつぎのように付言 しよう。誤った教育を受けていない人間および現実に隣人を愛し、この愛によって 導かれている(すべての)者について同じことが言える。なぜならトマス・アクィナス が言っているように、有徳な人間は何らかのまったく根源的で間違いのない確実さを もって、当の徳にかかわりあるすべてのことについて判断するからである。かれは、 かれが善つまり徳にたいして有する内的な親近性に基づいて、徳そのものをいかに 実行にうつすべきかという仕方についての正しい感覚をも有するのである。すなわち、 かれはすすんで、また適切に、徳のめざすところならびにその基準にしたがって決断 を下すのである。
117 :
名無しさん@3周年 :04/03/01 23:33
【120 愛はいかなる場合に実践的か?】 ●愛は、善意(好意)が善業(善い仕業や行為)の形をとるときに、実践的といえる。 聖書の呼びかけ、キリストの模範。 真の愛は自らをわかち与える方へ向う。それは与えること、助けることへとかりたてる。 こんにちとくに注意すべきことはつぎの三つである。 1 愛は法律が命令するまで、もしくは命令するぞと脅かすまで実行を待っていない。 それは法的な命令よりも前に来る。 2 未来、つまり未来の事件や「変革」にたいする怖れ(不安)は、けっして真の愛の 動機とはなりえない。たんに怖れからして行動する者(援助し、大いなる権利を譲り、 均等に協力する者)は、自らの利益、適当な時期における「再保障」の望みによって かりたてられているのであって、好意や没我的な人助けの心がまえによって動かされて いるのではない。 3 愛はまず自らが実行できる課題へと、しかもただちに向う。愛は、大いなることがら が自分の力をこえており、あるいは全般の事態がきょうあすには改善できないから といって、より小さな課題を放置するといったことは許さないのであり、むしろ自分に できることをするのである。大いなることは、小さなことが沢山集ってできている。 個々の、もしくは僅かの人間(家族)を助けることは、やりがいのあることなのだ。
118 :
名無しさん@3周年 :04/03/01 23:36
【121 どのような場合に愛は時宜をえたものか?】 ●愛は状勢にあった仕方で実行されるとき、時宜をえたものといえる。 いいかえると、いまここにおいて最善でもっとも効果的な(そしてもっともデリケート な)仕方で人を助けることができるようなことを愛が実行する場合、である。すべての 状況が独自のものである。時としてただ一言の親切な言葉で立直る(もしくはすくなくとも 緩和されうる)ことがある。或る場合には適切に行動するためにいくつかの仕方で問題に 対処することができる(たとえば貧困は直接に援助を与えることによって、もしくは仕事 を与えることによって救済できる)。愛は当の状況に合致し、それをできるかぎり効果的に 克服できるような一つの方法、ないしは最善の方法を求め、見出す。(家のない者に深い 同情の言葉をかけても役に立たないし、働けるのに怠けている人間にお金を与えるのは 適当ではない)。偉大なる模範は神とキリストの愛である。子なる神をつかわし、また かれによって成就された救いによって神はまさに世界が必要としていたことをなした―― すなわち、世界が悪の力から救いだされ、神のもとへ呼び返されることを。キリストが 行った奇跡はいつもかれが出会った困窮の事態に合致するものだった。かれは病者を いやし、飢えた者に食させ、そのひとり息子を失って悲しんでいるやもめに息子を生き かえらせて与えた。慈悲深いサマリヤ人のたとえはきわめて意味深長である。司祭や レヴィ人でなく、ただこの者のみが隣人愛を実践している、なぜならかれはいまここに おいてなすべきことをなしているから。 時宜をえた行動をせよとの要求はつぎのような場合にあてはまる。 1 個人と個人の間の個々の状況において(家庭間の援助、隣りどうしの助けあい)。
119 :
名無しさん@3周年 :04/03/01 23:37
2 それは歴史的な全体的状況についてもいえる。ここでの問題は、現代の状況が歴史の 支配者なる神の意志にかなうよう発展してゆくためには、いかなる目的、力、および決定 を把え、よびさましてゆくべきか、ということである。その根底にはつぎのような確乎と した(超自然的―救済的な)信仰がある。すなわち、いかなる事件も変革も、また社会的 見解や運動も(それらがいかにうけいれがたいものであっても)、偶然的なものではなく、 また将来の道程(つまり方向)にとってどうでもよいこととはいえない、との信仰が。 信仰によって照らされた理性の判断に堪えないことがらも、その不十分さや誤りさえ にもかかわらず、その歴史的な意義という立場から見られ、またその影響力という度合に 応じて真剣にうけとられねばならぬ。なぜなら正しい決定なるものは(しかも時として きわめて重大な仕方で)それらのことがらにも依存しているからである。誤謬もまた神の 摂理が世界について、また世界のうちにおいて実現するところの計画の外にあるのではない。 それらは真理に奉仕するのみならず、(世界の)浄化と試練とに寄与するのである。
120 :
名無しさん@3周年 :04/03/04 22:51
【122 どのような場合に愛は慈悲深いものといえるか?】 ●愛は没我的に他人の困窮にあわれみをかけるとき、慈悲ぶかいものといえる。 神とキリストの模範、キリスト教的慈善事業の歴史、その諸形態(献身的な疫病患者の 世話、捕虜の身代り、癩病人の看病)。 1 慈悲深さはなんら特別の徳ではなく、困窮していて、助けを必要とする者に向けられた かぎりにおいての、隣人愛の徳である。慈悲深さはとくに隣人愛の没我性を要求し、また それをあらわにする。なぜなら、それは人がしばしば最大の克己を実行し、最小の報いしか 期待できない場合にも、助けにのりだすからである。慈悲的な愛の前提となっているのは 同情や共感である(ニーチェはこれらをまともな人間にはふさわしくないものときめつけて いる)。すなわち人は他人が困窮していることに動かされ、それにかかわり、自らの心を 開くということがその前提である。 [注意] 慈善には精神的な仕事と肉体的な仕事がある。それらの多くは現代において ふたたびきわめて意義深いものとなっている(戦争の被害者、被爆者、追放者、帰国者など にたいして。人生の失敗者、失意の人、深い悲しみにみたされている人などにたいして。 犯罪者、迫害者などにたいして、強制労働・集団収容所につながれているとらわれの人々に たいして)。 2 教会はまったく妨げをうけることなくキリスト教的慈善事業を実行する権利を持って いる。自由な慈善の活動は一般的にいって、それが正しい法律にふれるか、明白な濫用が 摘発された場合にのみ制限をうけることができる。人となった神にして万代の師である キリストは、かれの掟として実践的な愛を宣言し、教会ならびに信者をこの掟によって 義務づけた。教会はこの点において自由である。教会は神的な権利に基づいてキリスト教 的な慈善事業を行い、したがってまたその仕事のために必要なことをすべてなしうるので ある(財産の獲得と管理、慈善事業の施設の設立と維持、慈善的な目的のための寄付を つのること、など)。教会はさらに慈善事業のために修道会や団体を創設し、認可する ことができる。
121 :
名無しさん@3周年 :04/03/04 22:52
3 「自由な」愛の(慈善的)活動とは、個々の信者ないしはとくにそのためにつくられた 団体によって、実行されるところのものである(修道会団体、教会の団体、病院)。 このような活動は、ほかのすべての公共的な活動と同じく、全般的な秩序を保つための 法律によって拘束されるが、そのほかの点については自由である――すなわち、それらは いかなる法律的な規制、強制、公的権威による介入にも服しない。その自然的な限界は、 他の人の権利が侵害されるか、あるいは責務がなおざりにされるという場合に、見出される (たとえば、或る人が代金して支払うべきお金を、慈善の目的で寄付するとか、社会的― 慈善的な事業のために家族にきゅうくつな思いをさせる場合。共通善にたいする配慮から して国家や自治団体は、正しい法律を遵守することを要求できる(たとえば、財産の獲得、 遺言、特定の税金、届出、団体の登録など)。共同体に害をなすような濫用が行われた 場合には、公的権威はまず警告を発し、ついでそれを除去することができるし、事情に よってはそうしなければならぬ。 [注意] もしも教会自体、もしくは教会によって委託された機関による慈善活動が、 共通善にとって有害な結果を生じているとの印象がつくりだされるならば、その場合 唯一の正しい道は実力に訴えることではなく、つねに目的へと導びくところの率直で おだやかな話しあいである。国家や自治団体は教会が行う慈善的活動のはかり知れぬ ほどの恵みを認める義務がある。それは共通善にとっての、もっとも貴重ないしずえ なのだ。
122 :
名無しさん@3周年 :04/03/04 22:52
【123 隣人愛は社会生活にたいしてなにを保障するか?】 ●隣人愛は社会生活にたいして、平和、すなわち真の、確乎とした、永続的な協調を保障 する。 聖アクズクチヌスが言っているように、平和は「秩序あるところに見出されるやすらかさ」 である。ところで秩序とは、聖トマス・アクィナスの言葉によると、「調整された多くの もののうちに見出される統一」である(※問45)。 1 平和が人々の間において支配するためには、まず正義が必要である。ここからして 聖書にも「平和は正義の業なり」( opus justitiae pax)とある。なぜなら、各人が他の 人にかれのものを与えない場合には、不穏と不和とが避けられないからである。だが 正義だけでは十分でない。その理由は問116においてのべた。 2 すでに言及した聖トマス・アクィナスの教説にもう一度ふれなければならない(※1)。 すなわち、つぎの二つを区別するべきである。 ※1 参照。※問44、註(U―U,29)この問題はとくに司牧の見地からきわめて 重要なので、隣人愛についての章においてふたたび言及する必要がある。人々が つぎのことをなしうるよう、つねにくりかえし導き、はげますことは、司牧の課題 である。すなわち、 1 内的な平和を保ち、回復し、堅固にし、深めること、 2 さらに右のことによって外的な平和の確立のための義務を進んで理解、遂行 すること を望み、またそれをなしうるようになること。 だが外的平和の必要性と義務とを、少なくとも一般的な仕方で示すことも、 司牧の任務に属する。なぜならここにおいても、キリスト信者が無視することの できない、神の側からの真の呼びかけが問題となっているからである。じっさい これらの義務はキリスト信者としての責任の外にあるのでなく、それにふくまれて いるのである(※問10、19)。
123 :
名無しさん@3周年 :04/03/04 22:55
※‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥参考:問10・19・44・45‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 《【10 カトリック社会倫理学は、こんにちとくにどのようなことに留意しなければ ならないか?】 ●現在のところ二つの課題がとくに重要である。 1 現存する無秩序の原因と範囲とを認識すること。 2 それ自体において明白で疑いをいれない原理を、正しくかつ時代に即した仕方で 適用すること。 1 教会も、教会の教えによって導かれる学問も、それらが現代と現代人に対して 有する使命を遂行しなければならぬ。「すべての時代は神に属する」……そして、 あらゆる時代の人々がその救いを認識しうるはずである。 われわれの世紀は規準と支えとを喪失した危機におちいっている。いたるところに おいて前の秩序は、おそろしく苦痛にみちた無秩序に道をゆずり、われわれはこの 時代を「まったく根こそぎにされた」、「ニヒリズム」(つまり、すべての生命の 基礎と確実さとの喪失)、望みなき虚脱と不安の時代だと呼ばざるをえないように 迫られている。人間生活のいかなる領域といえども無事ではない。だがもっとも 重大なのは、人間かれ自らが一つの危機に直面していて、そこからぬけ出す道を 見出すことができないということである(宗教的・倫理的な混乱、無関心、荒廃。 すべての確乎たる信念の欠如。宗教的信仰の代用品としての「世界観」。それを 作りあげた人間に君臨する悪魔的な技術。階級、民族、強国、「東西陣営」へと 人々が区分されること、全体主義的理念と勢力の災い、完全に、そしてあらゆる 面でゆきづまった現世的な理解の仕方や文化、など)。この危機の最も深い原因は キリストと神とを疎外したしたこと――この傾向は中世の盛時以来不断に進展して きたのであるが――に存する(自然科学、近代の哲学の影響。ルネサンス、啓蒙、 ヒニーマニズム)。人類についてもつぎの言葉のまことなることが立証された。
124 :
名無しさん@3周年 :04/03/04 22:56
すなわち、「統一の根拠が失われると、諸々の部分も分解し、崩壊してしまう。」 神からの脱落は対立と分解を生じたのである。ところで根こそぎにされたものは あらたに植えつけられねばならぬ。しかしそのさい、人類がもともと生えてきた ところに植えられねばならぬ。それ以外の試みは失敗するに違いない――なぜなら 人間を任意の、勝手にえらんだ土地に植えて、しかもそこで人間が同じように りっぱに繁栄する、ないしはそもそも繁栄することができようとは考えられない からである。 カトリック社会倫理学はこんにちにおいてつぎの課題をになっている。すなわち、 最終的にして最も深い源泉にまでたちかえり、その基礎や主な原理の革新力を示す ――そこからして現代の無秩序に確信をもって、また効果的に対決してゆくことが できるよう――という課題を。根源的でありそれゆえに常に常に正しい秩序―― いかなる時代でもこれを無視し、破壊するときには罰をうけるのであるが――を 人々が自覚するにいたらねばならぬのである。 2 それぞれの時代が自分に特有の問題と困難な自体をかかえている。われわれの 時代の特徴をなしているのは、大いなる変革――すべてのひとがそれがさけがたい ものであることを確信している――が起こりつつあるということである。これらの 変革は人々の見方や考え方が変ったということに基づくのみでなく、これまでの (社会的)諸関係や秩序がいちじるしく破壊されて、もとの形においては回復でき なくなっているということにも由来している。直線的にずっと発展してゆくことは 不可能である。なぜなら前世紀におけるあやまった目的の設定や行き方の結果として、 この発展はまったくゆきづまってしまったか、ないしはよこ道にそれてしまったから である。人類は現実に新しい問題と決断――これらは社会生活の面においても私的 生活の面においても異常なほど深い意味を持っている――とに直面している。
125 :
名無しさん@3周年 :04/03/04 22:58
カトリック社会倫理学は理性および啓示からして、第一のそして最も普遍的な 原理や要請を把握する。これらの原理や要請は、時間および空間に依存しないが ゆえに、その正しさと効力とを決して――全体的にも部分的にも――失うことは ないのである。これらのものからさらに(第二次的な)原理や要請が生ずる。 それらは前者ほどに根源的でも普遍的でもなく、したがって(大はばの例外は見出 されないとはいえ)何らかの裁量や拡張解釈を許容するのである(自然法に関する 部分、問61以下を参照)。人間的行為は常に個別的なものであり変化する状況と 結びついているからして、最も多様なものであり、まさに同じような結果を生ずる 場合もきわめて異なった価値をおびる(殺人と正当防衛のために相手を殺すこと とは、結果においては似ているが、倫理的・法的にはまったく相反する判定を下す べきものである)。社会的生活は常に(人間に)ふさわしいものであり、秩序ある ものでなければならぬが、この秩序がそれぞれの場合にいかに把えられ、確立さる べきかは、一つの(それがいかによいものであっても)秩序像から一度かぎり決定 的に導きだすというわけにはいかない(民主主義的国家は君主国家と同じような 仕方で秩序づけられるべきではないし、或る富める国において秩序あるものと称せ られる財の所有の状態は、或る貧しい国においてはおそらくきわめて無秩序なものと 考えられるであろう)。だからして社会規範の時代に即した(状況にかなった) 適用ということは、常にあらたに求め、見出されるのでなければならぬ。かくして カトリック社会倫理学は、開放的な態度ならびに適応性(これらも必要なもので ある)を、確乎として慎重な態度(これも欠くべからざるものである)と結びつける という課題、および同時に容易ならぬ困難な事態に直面している。人々はつぎのこと を要求できる――すなわち、かれらに対する要請(それは部分的にはかなりの負担と 犠牲とをふくむものである)は、ただ完全に正当な範囲にかぎってなされるべきだ、
126 :
名無しさん@3周年 :04/03/04 23:00
つまり(人々に対する)不必要な制限はすべて避けられるべきだ、ということを。 だがこのような「譲歩」は、理性と信仰とか不可侵なものとして宣言することがら のうちから、何らかのことを放棄するという方向へと導くものであってはならぬ。 他方、それは自由を拡大するあまり社会生活が破壊されてしまう、という方向に 導くものであってもならぬ。ところで社会生活の多様性と、解決さるべき諸問題の 困難さからして、自分達の陣営においてもいろいろの見解が生じてきている。それ ゆえにお互いに寛容であることはふさわしいことであるのみならず、まさに義務 なのである。 [注意]前述したように(問6、第四節)最近の諸教皇の諸告示は、時代に即する とともに、原理に忠実な解釈や適用の適例である。それらは、社会的悪をその根底 まで見きわめ、かつ全世界の前であからさまにその名を呼ぶことをおそれない。 また狭い偏見にとらわれない自由な立場から、いやしと革新へと向う、こんにちに おいて正しくかつ実現可能な道を示す。
127 :
名無しさん@3周年 :04/03/04 23:01
ピオ十二世(クリスマスメッセージ;Marmy,Emil.Mensch und Gemeinschaft in christlicher Schau,Paulusdruckerei,Freiburg,1832年から1944年にいたる 教皇文書を収載 1208/9) 「われらは、しだいに進んでゆく非キリスト化という悲しむべき出来ごと―― これは倫理の弛緩に端を発し、真理と諸々の力、つまり真理の光を発揚させて 善意の概念を明らかにし、家族や私的、国家的および公的な生活を強めるべき 力とをしだいに弱め、まったく否定してしまうに到る――に対してわれらの眼を 閉じることはできない。このように神の疎外や非キリスト化に由来する倫理的な 空白状態においては、人々の考えや計画、事業や事物についての判断、かれらの 行動や働きなどは、一面的につぎのような方向に進みつづけざるを得ない。すな わち、物質的なもの、単なる空間的な拡大、抑制を知らない諸々の財や力の増大 へ向う努力、物質的な上昇や進歩が要求すると思われるところのすべてのものを、 より速く、より豊かであり、よりよい仕方で生産しようとする競争へと。これに 対して政治において特徴的なのは、道徳に対する考慮なしに拡大と政治的影響力 へと向う、無拘束かつ勢いをましてゆく衝動である……経済の領域においては 巨大な企業や会社の支配である……社会生活においては巨大な都市や商工業の 盛んな地区へのぼう大な数の大衆の集中であり、そこにおいては多数の人間が 定まった家や居住地、故郷や職業、および愛や友情を欠く場合にそれに伴って 生ずるところの、かの動揺が見出されるのである。
128 :
名無しさん@3周年 :04/03/04 23:01
《【19 原罪は人間およびその行動にとってどのような帰結をもたらしたか?】 ●原罪は人間の自然的な性質を破壊することはなかったが、かれの自然的な能力を 弱めた。それゆえに人間は恩寵の助けをかりないではなんら自然(秩序)的に 正しい生活ならびに社会秩序に到達できない この根本的なカトリックの教え――それが啓示に敵対する人々や思想傾向によって 最も鋭く斥けられていることはいうまでもないが――はしばしばわれわれ自身の間 でもあまりに注意されていない。人間は原罪のあとでも人間たることに変りは なかった。かれは救いへと導く恩寵やほかのすべての超自然的な特典を失ったさい、 思考し意志する能力をなくしたのではない。かれは、自然理性によって認識できる 真理への道をまったくとざされ、もはや自然的な善を追求することも行なうことも できなくなってしまうほどの、ひどい秩序の乱れのうちへおちこんでしまったのでは ない。 だが人間は弱められ、その諸能力は不具にされ、束縛されている。このことは とくに倫理的な生活についてあてはまる――というのは、意志と情念(衝動、傾向) の横暴さによって、善についての把握はくらまされ、善へと向う決断は異常なほど 困難になっているから。しかり、意志は唯一の自然・超自然的な人生目的である神 から脱落したことによって、目的への志向を失い、本性は「自分自身へとたちもどった」 (トマス・アクィナス)のである。つまり、人間は神の恩寵によってふたたび真の 目的へとむすびつけられないかぎり、自分自身を最終目的として追求するのである。 このようにして秩序はさかさまにされたのであり、ただ恩寵によってのみもとに復せ しめられることができる。恩寵はまた堕落してけがされた本性をいやし、自然的な 善を完全にあますところなく実現できるような状態に人間をおき、かくしてかれが 自然的に善く、かつ高貴な人間になるようにするという任務ならびに力を持っている。 恩寵は人間に対して、無軌道な欲求にうちかち、人間の内部において精神の支配を ふたたびうちたて、より高き価値のための戦いにおいて勝利を収める力を与える。 原罪についての教えのみがつぎのことがらを説明する。
129 :
名無しさん@3周年 :04/03/04 23:04
1 人類がどうしていろいろの誤った道をたどるか――これは社会的な領域において はさほどではないというわけではなく、かえって多くの複雑な事態からして誤りの 可能性はきわめて大きいのである。 2 真にして正しい社会秩序を目指す、たんに自然的・人間的な努力はすべて成功の 見込みがないこと。原罪に由来するおそろしい重荷――利己主義、自己中心主義―― 葉、人々の社会生活においてとくに鋭い影響力を発揮せざるをえない。したがって、 まさにここにおいてこそ利己主義を克服し、他の人々と社会とに属することがらを 配慮し、追求することが重大なのである。 このようなわけであるから、世界はキリスト教的にならねばならぬ――世界が そもそも自らを社会的に真にあらたなものにしてゆくことができ、またそのことを 欲するためには(問8)。それゆえにすべてのキリスト教的な社会改革は、世界を 「キリスト化」し、人々をキリストへの信仰およびキリストにおける生活へとつれ もどす、ということに始り、一貫してそのことに力をつくさねばならぬ。このこと については、歴史がきびしい、しかし否定することのできない経験的証明を与えて いる。人々がキリストと、その教えおよび恩寵から遠ざかるにつれて、共同体は 無秩序へとおちいり、またさまざまの形における利己主義(経済的、民族的、政治 的)がいよいよひどく勝ちほこることになる。最近の教皇は世界に対して、もしも 真実に秩序と平和とを欲するならばキリストとその法とをふたたび認めなければ ならないことを説得し、よびかけて惓むことを知らなかった。
130 :
名無しさん@3周年 :04/03/04 23:04
レオ十三世(回勅Rerum Novarum,1891.5.15「労働者の問題について」22) 「もしわれわれが人間社会を救い出したいと思うならば、われわれはキリスト教 的生命とキリスト教的制度にたちもどることによってのみそのことをなしうる。 なぜなら、没落への急速な歩みをたどる社会に対する最善の処方は、もし回復 したいならばはじめに立返れ、ということだからである。けだしすべての社会の 完全性は、かの目的――そのために当の社会がうちたてられたところの目的―― をめざし、それに到達することにほかならないのである。かくして、社会を存在 へともたらしたのと同じ目的が、その社会的な生活および行動をうみだすのである。 この目的から外れることは衰亡を意味し、これに対してこの目的へたちかえる ことはいやしを意味する」。 ビオ十一世(回勅Quadragesimo Anno,1931.5.15「社会秩序について」127) 「より深く透徹した考察によってつぎのことがあきらかになる。すなわち、その ようにも熱烈に渇望されている社会の革新は、キリスト教的な精神に基づく まったく内的な革新――これを非常に多くの人々が経済的な生活において拒絶して いるのであるが――を前提としなければならぬということが。さもなくば、われ われの努力はすべて空しく、建物は岩の上にではなくもろい砂の上に建てられる ことになろう」。
131 :
名無しさん@3周年 :04/03/04 23:05
ピオ十二世(挨拶1946年 Nr.6) 「教会は第一に人間自体を求める。教会はつぎのような人間、すなわちそのうちに おいて神との類似が形成され完成されるべき人間の育成に尽力する。教会の仕事は 各々の人間の心のうちにおいて遂行されるが、その影響力は各々の人間の全生涯 およびすべての活動領域におよぶ。このように形成された人間でもって、教会は 人間社会に対して一つの基礎――社会がその上に堅固に築かれるような――を提供 する。ところが近代の帝国主義はこれとは逆の道をたどっている」。 ピオ十二世(クリスマスメッセージ1946年;Herder KorrespondenzW,164) 「これらの社会組織――そのいづれも神の計画からへだたりまた対立しているので あるが――の支持者たちが、自然とキリスト教との諸原理に立帰るよう説得され くどきおとされんことを。これらの原理は、真の正義を正しい自由に対する尊重の 念、ならびに万人がその固有の侵すべからざる権威に関するかぎり平等であることを 認識することによって、人々をして同胞たがいに憎みあう状態におとしいれている 無益な戦いが終結する、ということの上に築くものである」。
132 :
名無しさん@3周年 :04/03/04 23:08
《【44 社会生活における統一性の根本法則とはいかなるものか?】 ●社会生活は闘争や不和、ないしはたんなる多数性(多数者もしくは群集)に基づくの ではなく、協調や和合にもとづく。 存在し、存在を保つべきものは、なんらかの仕方でまとまりを持たなければならず、 諸々の部分や断片へと四散してしまってはならない――なぜなら、もしそうなったら まったく存在を失ってしまうか、すくなくともそのものに特有の性格(そのものとして の完全さ)を失ってしまうからである。或る木をばらばらにする者、もしくは椅子から 足をとりはずしてしまう(そうすることによって諸部分のむすびつきを解消する)者は、 その当のものを破壊するか傷つけてしまう。自然の事物は自らの統一性を保ち、それに よって自分自身を保とうと努力する。原子といえども力でもって分裂させなくてはならぬ ――そうでなければそれらは自らの統一を放棄しない。 人々は一体となり、お互いに結びついているがゆえに、またそのかぎりにおいてのみ 社会生活をいとなむことができる――そうでなければかれらは非社会的な生き方をする ことになる(お互いにさからってか、あるいはただとなりあって)。いずれの場合にも 社会生活はちっそくさせられるか、もしくはそもそも成立してこない。人々が統一を 「体験」ないし実現し、もしくはすくなくとも追求できるのは、かれらがその本性から してすでに一つであるからにほかならぬ。かれらは本質、能力、目的、相互依存、相互 希求などにおいて一致している。だが人々は自由意思を有し、誤りや幻想、ならびに 多くの衝動(たとえば所有、権力、地位などへの)におちいる危険にさらされている。 したがって、体験され実現された統一性という意味での社会的統一性は当初から存在する ものではなく、むしろ人々によってつくりだされ到達されなければならない。このことは いろいろな面における相互的な協調と一致をまってはじめて実現される。心を一つにする ことが必要であり、そこからして和合が生ずる(注1)。
133 :
名無しさん@3周年 :04/03/04 23:09
注1 聖トマス・アクィナスは「平和と協調とは同じものか」という表題の下に、 きわめて教えるところの多い論項をものしている(U−U,29,1)。この論項、 ならびにそれにつづく二つの論項において、かれはほぽつぎのように論をすすめて いる。「協調」とは多数者がその欲求において一つであり、一致していることを 意味する。これにたいして「平和」はまず一個の人間が内的に秩序づけられ、 一であること、かくして意志が人間の使命ないしは神のよびかけや望みに一致する ような仕方で、他の諸々の力を導き動かすことを意味する。協調は、右の内的な 秩序を欠く人々、つまり個人としてはなんら内的に秩序づけられた生活をおくって いない人々の間においても可能である。これにたいして真の社会平和はつぎのような ところにおいてのみ成立し維持される。すなわち内的に秩序づけられた人々が ともどもに生活し活動しているところ、つまりそれぞれに善い者であるか、あるいは すくなくとも善をめざして努力しようと心がけている人々がお互いに出会い、ともに 生活しているところにおいて。正しい見方をすると、内的な平和こそ外的な平和の 基礎であり、支えである。トマスは人間をその「実存的」、つまり超自然的・恩寵的 使命ならびに状況にむすびつけ、この後者において把える。(一個の)人間における 統一と、人々の間における真の統一とは、ともに超自然的な(キリスト教的)愛の 成果であり、特有の結果である。愛は人間を統一し、神へと秩序づける。愛によって 生きる者は、自らと自分のものすべてを神へと向ける。かれはその力と努力とを神の 望みにかない、神を悦ばすよう秩序づける。愛はさらに人間をして、かれの仲間を 隣人と見なすにいたらしめ、この者を「自らのごとくに」愛せしめる。それゆえに かれは、自らのために善を欲すると同じく、隣人にも善を与えることを欲する。
134 :
名無しさん@3周年 :04/03/04 23:09
かれは利己的に自分のことだけを考え、自分の意志をおし通そうとすることなく、 非利己的に他人のためを考え、他人が望むことを進んでなす。かくして人々の意志や 行動のうちに、真実にしてみのり豊かな一致が生ずる。ところでトマスがはっきりと 言っているように、この場合人々の間におけるあらゆる意見のくいちがいや緊張関係が なくなってしまう必要はない。そのようなことは不可能である。むしろつぎのことで 十分である。つまり人々が「重大なことがらについて」(in principalibus bonis) 一つの心になり協力すればよいので「些細なことがらについては」(in parvis et minimis)意見を異にしたままで善いのである。われわれは右の考察――それは直接 には小生活範囲にあてはまるのであるが――をつぎのように解釈してもよいであろう。 すなわち、重大な問題、とくに或る民族と時代全体の運命がそれにかかっているかも しれないような問題においては、かなりの見解の相違や烈しい論戦も必ずしも真の 協調を危険におとしいれることにはならない――人々が「善意」を有し、ほんとうに 決定的なことがら(principalia bona)をなによりも頭におき、まじめに追求する かぎり――といえよう。(参照。問123。そこにおいて右に引用した聖トマスの 論項がふたたび解明されている) 経験と洞察によってつぎのことが明らかとなる。 (a) 人々がお互いのために心を用いず、たんなる多数者ね多数の人間を形づくる にとどまるかぎり、われわれは共同体について語ることはできない。そこでは まさに肝要なもの、共同および相互奉仕の態度、たんに群集たることの克服という 要素が欠けている。
135 :
名無しさん@3周年 :04/03/04 23:10
(b) たとえば群集のうちで起ることであるが、多くの人々が一であることを知り、 或る共同のことのために「心を一つにして」努力する(抗議、要求など)ことも 可能である。にもかかわらずこのようなたんなる事実的な合同は真の共同体を つくりだすとはいえない。なぜなら人々はあまりに僅かの責任しか負わされて いないからである。群集は合言葉やスローガンにひっぱられる。かれらは扇動的な 影響や伝染によって左右され、「反応し」、典型的な集団意識を生みだす。だが われわれは、いかに社会的なものが統一性を前提とし、必要とするかを見てとる ことができよう。なぜならこのような多様でごったまぜであり、扇動された多数の 人間でさえ、合同し、一つの統一的な意志によってみたされ、動かされ、ないしは 支えられるときのみ(またそのゆえに)強力でありうるからである。 (c) 争闘や抵抗は社会生活においては不可避的なものである。またそれらは、 十分な根拠を持ち倫理的に正しい規準にしたがって遂行される場合には、それ自体 としてなんら不正なもの、不名誉なことではなく、命令されることすらありうる。 しかしそれらは相剋にではなく、和合に奉仕すぺきである。それらは協調や一致を めざすところの、一時的な緊急処置である。いずれにしてもそれらは――それらが 有意義であるためには――分裂にではなく統一へと向わねばならない。 (d) すべての社会的な構造は――それが家族であろうと民族であろうと、市・町・村 であろうと国家であろうと、手工業の仕事場であろうと工場であろうと――、統一性 が弱まるに応じて困難な事態におちいる。目的が相互に対立したり、人々がお互いに 争ったり、もしくは無関心になりはじめるときには、かれらの生命・活動・生産の 能力も低下する。
136 :
名無しさん@3周年 :04/03/04 23:13
《【45 社会生活における秩序の根本法則とは何か?】 ●統一性(前問で考察した)は、自然的な諸前提、人間の多様な素質や課題、ならびに 社会生活の諸々の目的領域ならびに必然性に合致するような形で追求し、実現しな ければならない。 われわれはこの根本法則をつぎのように表現することもできる――秩序の根本法則は、 社会生活が同一の形をとってではなく、多様な差異と段階とをもって発展してゆくこと を要求する。 1 統一性は単調さと同じものではない。諸々の部分もしくは協働者のつくりだす強い、 そして広汎な多様性があるところにおいても、或る事物ないしは現象(過程や行動)は 驚嘆にあたいするほどの統一性を示すことが可能である。ベートーベンのシンフォニー の演奏のためには多くの、そしてさまざまの楽器をそなえた大きなオーケストラが必要 であるが、それは一つのオーケストラであり、一つの演奏である。ただ秩序づけられた 多様性のみが(ならびに一つの統一的な指導)このような統一性をつくりだしうる。 このように秩序は多様な事物、現象、活動からして一つの統一をつくりだすことができる。 このゆえに秩序の統一(問21−22)と呼ばれる。 秩序はつぎのような場合に支配する。すなわち、すべてのものがその所をえており、 正しい仕方で遂行され、自らの意義と一致するやり方で順応する場合。また一つのものが 他のものをふさわしく補い、また理性的な考慮の後に、各々に対して、全体の議題ならび にほかの協働者との関係にてらしてそれぞれの役割をふりあてる場合。さらに恣意に よってではなくて、正義と適切さ、善意と最大限の考慮という規準にしたがって命令 および処置がなされ、義務が課され配分が行われる場合に。一言にしていえば、人々、 事物ならびに諸々の出来事がお互いに正しい関係に立つ場合に秩序が支配するのである。
137 :
名無しさん@3周年 :04/03/04 23:14
2 まったくの単調さという意味での統一性はどこにもない――ときとしては統一性が そのような外見を与えるかもしれないが。統一性はつねに秩序と結びついている。 均等化(平均化)ということはけっして神によって創られたものの徴しではない。 われわれがすでにのべたように、神そのもの、すなわちその本質が絶対的に単一で あってなんらの合成もふくまないところの神においても、お互いから発出し、お互いに 関連しあっている三つのペルソナが存在する。いかなる被造物も、なんらの内的な 相違および緊張をふくまないで、まったく単一である(いわばひらべったいものである) ということはない。すべての被造物において本質と実存とはお互いから区別される。 すべての被造物は能力を備え、活動を行う。力はそのものの本質のうちにあり、本質に 伴う。行為とは力の行使、使用および利用である。先なるものと後なるものとはお互い に秩序を保っている。目にうつる被造物は、いかに小さく「些細で」はかないもので あっても、二つの相互に関係しあう本質的な部分からできている。すなわち規定を うけるべき質料と、規定を与える形相とである。
138 :
名無しさん@3周年 :04/03/04 23:14
3 あきらかに人々は秩序ある生活をおくらねばならぬ。目に見える創造世界の冠であり 最高の部分である人間が、この宇宙の根本法則、つまり秩序ある統一の法則に背く ふるまいをするならば、かれらが自らをまともにかつふさわしい仕方で発展させることが できないことはいうまでもない。かくして、この秩序を認め、実現してゆくことは、 彼らの第一の社会的課題である。かれらはこの秩序のうちにおかれており、この秩序は かれらならびに全自然と合致し、かれらの調和的な発展とみのり豊かな共同生活はこの 秩序と結びついている。人々の間に、またかれらに(前もって)与えられている目的 および活動の領域には、必然的な相違(それはきわめて著しいものであるうる)が存在 するのであってみれば、平均化(均等化、均一化)によって社会的な統一や秩序をつくり だそうとする試みは、自然に背き誤ったものとして斥けなければならぬ。これに反して、 統一や秩序は多様性の根拠に立って追求され、体験されるかぎりにおいてのみ、理性的 であり持続することができる。 もちろん歴史は多くの区別が時間的および空間的に制約されていること、すなわち それらの区別は特定の時代や地域における考え方や状況に合致するとの理由からのみ 妥当する、ということを教えている(参照。資本と労働との関係は、つねに、そして いたるところで同じ仕方で現れてくるのではない。三級選挙権および普通・平等選挙権)。 ほとんどの場合、問題になっているのはこれらの区別が歴史的に形成されてできた現象 形式である。これらの区別はそのものは必然的なものであり、したがっていたるところで 妥当する。だがこれらの区別が現実に現れてくる場合にとるそれぞれの形式は偶然であり、 歴史的な発展を通じてひきおこされ、生ぜしめられるものである。これらの形式は したがってある限度まで変化しうるのであるが、このことは社会がこれらの区別をすべて 否定しもしくは廃してしまっても存在できる、ということを意味するのではない。
139 :
名無しさん@3周年 :04/03/05 00:23
上のいくつかのカキコは長すぎて読めませんが、「愛」という言葉は唱えるもので はなく、人知れず他者に与えるものではないでしょうか。思慮深い人は「愛」などと いう言葉を恥ずかしげもなく口にしないし、軽々しく口にする人は本当の愛など 持ち合わせていないのが通例です。歴史上そして現在も、キリスト教が愛を唱えな がら、誰よりも多くの人を殺してきた事実がそれを証明しています。
140 :
名無しさん@3周年 :04/03/05 20:21
愛を唱えたイエスの宗教は、パウロによって歪められました。 パウロが求めたのは救いだけです。 愛は単なる救いの為の手段に貶められました。 パウロ教に堕したキリスト教には、愛の成長する余地はありません。 今こそイエスの愛の教えに立ち返り、イエス教を復活させるべきではないでしょうか。
一人で長々と書くので、ようわからん・・・
超高級霊 シルバーバーチ より ・宗教に教義、経典、教祖、礼拝堂、賛美歌は必要ありません。 宗教とは利他愛の実践、一言で言えば「サービス」。これにつきます。 大切なのは利他愛の実践であって、神を信じるかどうかは関係ありません。 神を信じるからと言って神から寵愛される訳でもなく、 また神を信じないからと言って罰せられる訳ではありません。 ・神を崇拝し自分は選ばれた一人のつもりになり宗教的行事に傾倒している 人間よりも、転んだ人に手を差し伸べ、飢えた人にパンを分け与え、 悲しみに打たれている人に励ましの言葉をかける無神論者の方が 遥かに神に近く尊い人物である事ぐらい分からねばなりません。 ・因果律は絶対の摂理です。どんな偉人でも狂わす事は出来ません。 因果律は自動的に機能します。ツキ(運)と言うものも、偶然も 存在しません。賞罰は自分でこしらえているのです。しかし肉体と言う 鈍重で霊的視野の限られた人間からは、その存在(因果律)が感知できない のも無理ありません。死後こちらの世界においでになれば、そしてその時 あなたが過去の転生を見渡せるだけの資格に至る霊格を身に付けていれば、 自分が送ってきた幾度にも渡る転生の地上人生を見渡し、そこに神の公正 (因果律)が行き届いているのが分かります。
・地上の宗教では特定の神を信じれば救われ、反対にその組織が崇拝する神を 崇拝せねば救われないと説く宗派がいるようですがそのような事はありません。 もしそうであれば神の公正が根源から崩れてしまいます。邪悪で利己的な人生を 送った者が、その神を崇拝したからと言って素直で利他愛に富んだ人生を送った ものを差し置いて救われると言う事になってしまいます。 ・私(シルバーバーチ)を崇拝したからと言って苦しみが除かれる訳で はありません。私はマウスピースに過ぎません。感謝は神に捧げてください。 あなたが地上に再生してきた主な理由は、霊性の向上とカルマの滅却です。 地上に学びにきているのです。苦しみは人間から見ればごめんこうむりたい ものでしょうが、霊界側から見れば人間の霊性を進化させるものです。 それを無闇に取り除く訳にはまいりません。 ・あなたは肉体を備えた霊的存在です。霊を備えた肉体的存在では ありません。決して肉体と言う鈍重で低俗な存在ではありません。 死を迎え古い衣服を脱ぎ捨てるように肉体から離れる時がくれば、 あなたが住むべき霊性に応じた本来の世界へ戻ります。そこが地上に近い 幽界付近であるか高級霊の住む世界であるかはあなたの霊性の程度により ます。地上と霊界の異なる点は、地上では様々な霊性の霊が肉体をまとう 事により一緒に生活している事です。 ・神を崇拝しているからと言って、その人物の魂が高いランクに 属している訳ではありません。地上界には無心論者でも素晴らしい 霊格を備えた人物もいれば、毎日賛美歌を歌い「主よ主よ」と唱えてい ても霊格が幽界付近に属している人もいます。 ・また霊能力と霊格の高さは関係ありません。霊が見えるか、霊の声が 聞こえるかは霊格とはなんら関係ありません。
144 :
名無しさん@3周年 :04/03/05 22:25
>>139-140 あなたのおっしゃることは、半分くらい同意します。まだ、書籍からの引用が
続きますので、もうしばらく書込みを控えてくだされば幸いです。引用が一段落
しましたら、色々と意見を交し合いましょう、ヨロシク。
>>142-143 とりあえず、霊格がどうとか幽界がどうのとかいうことはここのスレでは
意味がなく扱う予定もありません。書き込んでくれた内容に対してのレスは、
しばらく待ってくだされば、ひょっとしてするかもしれません。とりあえず
こちらが書き込む引用文がもう少しで終わりますから、そのあとで考える
ということで・・・。
145 :
138の続き。 :04/03/05 22:28
……………以下
>>138 の続きです。……………
とくにつぎの区別にふれておかねばならぬ。
(a) 人々はお互いにきわめて著しい相違を持っている。たとえば才能や傾向、教育や
性格などにおける相違など。すべての人間から完ぺきなことを期待するのはまったく
の不合理であり、また或る将来の時代にこれらの区別がなくなってしまうとか、(
それほどではなくても)本質的に減少してしまうと信ずるのは狂気の沙汰である。
むしろすべての社会秩序はつぎの事実から出発するのである。すなわち、才能は
いろいろちがったふうに配分されており、人々の間において考え方は大いに動揺して
おり、万人が同じ仕方で教育や訓練を身につけることはできない、といった事実。
(b) 社会生活――最大のものから最少の共同体まですべてふくめて――は、もっとも
多様な種類の機能でいっぱいである(労働の分化、分類という社会学的現象)。これら
の活動の多くのものは十分な能力に加えて長い準備、学習を必要とする。これら
諸機能がつりあいや重要性にしたがってまとめあげられる場合にのみ(つまり正しい
関係にしたがって秩序づけられる場合にのみ)、動揺のないみのり豊かな発展が確保
される。
(c) 一方においては諸機能の相違、そして他方においてはその類似が、社会的な階層
もしくは身分の数多さと相違とにとっての根底となっている。すべての身分の違いを
一掃してしまうことはまったく不可能である。社会的な統一性とはすべての人が
隊列をととのえて、「歩調をそろえて」行進してゆくことを意味するのではない。
それが意味するのは、むしろ諸々の身分に属する者が――中世において身分が「秩序」
(ordo)と呼ばれたのは意義ぶかい――自分達をより大きな、すべてをふくむところの
全体のメンバーとして考え、それにしたがって秩序をととのえ、相互および共同の道を
見出してゆくことを意味する。すなわち人間の尊厳さ、もろもろの貢献の遂行、要求
などの尊重。
146 :
名無しさん@3周年 :04/03/05 22:29
(d) 社会生活とは人々が相互かつ共同的にいとなむ生活であるから、それはかの価値の 秩序ないし「秩序ある世界」――これは人間をかれの人間本性のゆえに、もしくは より高い命令のゆえに拘束する――を重んずるよう義務づけられている(問25−27)。 このような要請はこんにち激しい反対に出会っている。いかなる全体主義的国家も、 全体主義的な要求をかかげた党派も、これらの要請を実現しようとはしない。 つぎに個々の点について考察しよう。 T 人々は萎縮したり一面的な発展をとげるために共同体のうちに生活するのではなく、 その全面的な発展および完成に到達するためである――もちろんお互いに当然の配慮 を払いつつ。それゆえに社会生活は諸々の価値をその総体において追求し、保証する よう努力しなければならない。共同体は(超自然的―キリスト教的な)人間の生命の 充足にかかわりのある諸価値を、ごまかし、圧迫し、攻撃する(価値の闇取引といって もよかろう)権限は持っていない。特殊なキリスト教的諸価値が自然的な(個人的 ならびに社会的)生活の上に見出されるとの事実は、それらの妥当性を決して弱める ものではない。したがっていかなる共同体もそれらの価値を人々からとりあげたり、 それらについて言い逃れをしたり、その実現を困難にしたりする権利をもってはいない のである。
147 :
名無しさん@3周年 :04/03/05 22:30
U 諸々の価値の位階秩序は確保しなければならない。諸々の価値は同じレベルに位して いるのではなく、高い価値もあれば低い価値もある。そしてこのような相違は人間の 恣意に基づくのではなく、内容、価値そのものの重要性、ならびにそれらが人間の 発展にとって有する意義に基づいている。このような位階秩序をくつがえし、低い価値 を高い価値に先行させる者は、価値の顛倒という許すべからざる過ちを犯す者であり、 同時に人間が調和的な完成へとむかう道をさまたげることになる。この種の価値の 顛倒はこんにちにいたるまで何世紀にもわたって大規模に行われてきた。例をあげると、 国家の利害、民族の名誉、種族、経済的発展、商売などが最高の価値とみなされ、 「追求される」場合、とくにそのような顛倒が見られたのである。 V 価値の位階秩序と密接に結びついているのは、価値の緊急性である。それはある場合 には人間の困窮から導き出されるのであるが、この場合には物質的な財貨がより緊急な ものと考えられる。なぜなら人間はそもそも生存し、活動をなしつづけるために、それら を必要とするのであるから(たとえば、食物、衣服、住居、衛生設備、通信施設、など、 つまり生活に必要な経済的財貨の全領域)。しかし、それ自身において見るとき、また 人間の課題の全体を考えにいれると、精神的―倫理的な価値がより緊急である。なぜなら 本来的な意味での人間の発展はそれらに依存するのであるから。この場合、物質的な 財貨はその価値がおとしめられたのではなく、むしろその正しい場所へとおかれるに すぎないのである。諸々の価値の秩序ある追求ならびに実現は、つぎのような仕方で 行われねばならぬ。すなわち、物質的な価値が精神的―倫理的な価値との関連において 追求され、また人間の精神的―倫理的な完成が、物質的な財貨の欠乏によっても過剰に よっても失敗せしめられることのないような仕方でもたらされねばならぬ。「まわりの 世界の財貨」にあまりにも夢中になることは、それが窮乏によるものであろうと豊かさ に由来するものであろうと、精神的―倫理的な生活を脅かすものである。
148 :
名無しさん@3周年 :04/03/05 22:31
相互に異なった諸価値はそれぞれに、人間的活動ならびに努力にとっての固有目的を 提示するものであるから、(またそのかぎりにいて)、それらは文化領域が数多くある ということを基礎づける。これら文化領域の各々は独立的である――つまりそれ自体に おいて限界を有し、自らに特有の法則に服するところの、社会的(間・人間的)で 共同的な行動の領域を形づくっている(学問、宗教、教育、法律、芸術、経済など。 この各々の領域が自らに特有の課題を持っており、その各々の形成はまさにそれぞれの 領域にぴったりとする仕方で遂行されねばならぬ)。だが諸々の価値と同じく、諸々の 文化領域も一つの統一を形づくっている。それらは起源ならびに目的からして統一 されている。すなわち、それらは神の無限にして単一的な、充溢的で栄光ある価値の、 多様な反映であり多彩な投射である。各々の文化領域はそれぞれの仕方で神の英知と 力とを明示している。それらはまた直接的な目的においても統一されている。すなわち、 その目的というのは人間そのものを可能にし、発展させ、高貴ならしめることである。 さらに相互にも統一されている。すなわち、各々の領域は人間的価値の全体、つまり 全人間にとって要求されている、ないしは全人間に寄与するところの価値領域、の うちにおいて或る部分を占めているのである。ここからしてつぎのような結論が生ずる。 (1)個々の文化領域の独立性は決して絶対的なものではありえず、たんに相対的な ものである――つまり根本価値に対して相対的であり、価値の「秩序世界(コスモス)」の うちの一部分として相対的である(問5)。(2)諸々の文化領域がつくりあげている 統一はただ秩序的な統一でありうるにとどまる。すなわちこの統一のうちにおいて各々 の領域はその場所をしめ、意義(これは他の領域との関連において、当の領域に帰せ られる)を獲得する。(3)共同体はいろいろの文化領域の固有の発展を圧殺すべき ではなく、むしろ合理的な全体的秩序を阻害することなしにそのことが行われるかぎり において、個々の文化領域の発展を保証し、支持しなければならぬ。
149 :
名無しさん@3周年 :04/03/05 22:32
W 現代においては所得ならびに所有における相違――それは部分的には正当であり、 部分的には不当である――が多くの場所において分離をひきおこす隔壁であると 見なされているが、これについてはつぎのように言うべきである。すなわちこれらの 相違は自然的であり、したがって必然的であって、(この書物の第三巻、所有権に ついての箇所でさらに説明することになっているところの)多くの状況によって制約 をうけている、と。それらの状況とは、人間人格の自由、課題や寄与遂行の多様さ、 勤勉さと倹約など。社会生活における協調を、所得ならびに所有状況の画一化によって 実現できると期待するのはまったくのナンセンスである。協調はただ正しい所有権秩序 を通じてのみ到達しうるものである。差別をなくしてしまった均等さからではなく、 差別をふくみつつ秩序を保っている所有状況からして到達すべきものである。 X さいごに風土、種族、民族性、伝統、ならびにこの種のことがらと結びついている ところの諸々の特徴や相違(これらは歴史的に形づくられたものであり、そのかぎりに おいて偶然的であるが、無視することは不可能である)に注意をむけなければならない。 社会的(とくに政治的)な統一ならびに協調は、いろいろの民族内グループがその考え方、 習慣、愛好していることがら(それが倫理的に正しいものであるかぎりにおいて!)を 放棄すべきことを要求するのではない。反対に、このような多様性は民族全体の価値 および創造力をあらわにし、推進されるのである。 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥以上で問10・19・44・45の引用は終わり‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
150 :
名無しさん@3周年 :04/03/05 22:33
<以下は再び【123 隣人愛は社会生活にたいしてなにを保障するか?】引用続き> (a) 内的な秩序。すなわち霊魂の秩序、人間の霊魂の諸能力の間に見出される秩序。 これは「内的平和」ないしは端的に「平和」(Pax)と呼ばれる。 (b) 外的な平和。人々の間に見出される秩序、正しい理解、二人あるいはそれ以上の 人々の間の一致。「外的平和」もしくは「協調」(concordia)と呼ばれる。 内的および外的な秩序、平和と協調とはお互いに制約しあう。内的な平和を欠く人間 (飲酒癖、権勢欲、気まぐれ)は共同体へ動揺や争いをもたらす。外的な平和の欠如 (不和、対立)は内的平和を困難にし、いとわしいものにする。人が十分な力をそなえて いる場合には、外的な無秩序や誘惑にもかかわらず内的な平和を保つことができる( 迫害、牢獄における聖人、夫のかたくなさ、「気まぐれ」にたえてゆく妻、患者の たえまない不平やぐちをしのぶ看護婦)。内的な平和を有しない人間も、多くのことを 一致してやることはできるが、つまり「仲良く」やってゆくことはできるが、人間的に 善い、ふかい、そしてエレガントな仕方で共同生活をいとなむことはできない。かれらの 間の協調は真に堅固な基礎を欠いているのであって、それは利害、慣習、強制ないし 外的実力によって保たれているのである。
151 :
名無しさん@3周年 :04/03/05 22:35
3 右の区別にもとづいてつぎのことを言っておかなくてはならない。 (a) 人間が内的に秩序ある者となるのはつぎのことによる。すなわち、かれの意志が 最終目的なる神に確実に向けられ、霊魂のほかの能力が意志の命令に従う、ということ によって。この秩序は超自然的な神愛の結実、成果である。この愛が人間の意志を最高 善なる神に服せしめ、それのみが人間の罪によってこの世にもたらされた対立にうちかつ。 (b) 人間はかれの仲間を神において、また神からして愛することによって、内的に正しい 仕方でかれの仲間に秩序づけられる。仲間を神の子としてながめ、愛するのが正しい やり方である。この愛は超自然的な隣人愛にほかならない。それは人々の意志の間にかの 内的な一致をつくりだす――すなわち、神のうちに基礎をおき、キリストにおいて聖化 されたがゆえに、ゆらぐことなく確乎としており、あらゆる嵐に堪えうるところの一致を。 このように隣人愛は、キリストにおける人々の霊と心の一致をうみだすのである(使徒行、 4・32「信者の群は一つの心、一つの霊魂であった。」) (c) 外的な平和(協調)が真に純粋なもの、恒久的なものであるためには、それは人間の 内面に根ざしていなければならぬ、すなわち内的な平和に発し、つねにそこに基づいて いなければならない。
152 :
名無しさん@3周年 :04/03/05 22:36
(d) このように、つぎのことがあらためてあきらかとなる。すなわち、創造主の意志に かない、あらゆる状況に対処しうるような社会秩序は、キリスト教的な、キリスト教的に 生活している人間を必要とする……つまり、キリスト教的な隣人愛のみが社会平和を基礎 づけ、保障しうる、ということが。このことは小さな共同体、とくに人々が日々共同生活 をおくらねばならないところにおいて明白である(家族、近隣共同体、仕事場)。なぜ ならそこにおいてまさに必要とされる永続的な(他の人にたいする)配慮は、いつも自己 放棄、忍耐、大度さを要求するからである。だがこのことは大きな共同体――国家的 および超国家的な秩序をふくめて――についてもそのままあてはまる。人々が自分達は 「神の下において同胞」であることを信仰によって認識し、そこからして結論をひきだす とき、そのときはじめて世界の平和が確立されるのである。
153 :
名無しさん@3周年 :04/03/05 22:37
ピオ十一世(回勅 Quadragesimo Anno,1931.5.15「社会秩序について」137) 「ところで関係者の間に見出される内的な信念の一致こそ、社会平和を確保し、 人々の間における協働を推進するための、すべての組織にとっての、確実な基礎 である。このことはまさにこの種のもっとも優れた組織についてもあてはまる。 しかり、このような信念の一致なしには、もっとも賢明な規則もまったく無益で あることは、経験がつねに教えるところである。かくして共通善というただ ひとつの目的をめざすところの、万人の真の協働はただつぎの場合にのみ可能 である――すなわち、さまざまの社会的グループが自分達は一つの大いなる家族 (つまり同一の天にいます神の子供として)のメンバーとして一体なのだ、との 意識によってつらぬかれるときに。つまりかれらが自分達はキリストにおいて 一つの身体であって、お互いに肢体であり(ローマ書、12・5)、したがって 一つの肢体が苦しむ時は、他もかれと共に苦しむ(コリント前書、12−26)
154 :
名無しさん@3周年 :04/03/05 22:38
という感じを持つときに。そのとき、富める、影響力のあるグループは、それらが 地上の財貨に恵まれるところのすくない同胞達にたいして持っていた無関心の 態度をあらためて、配慮ある、実践的な愛をもってのぞむようになろう。また 後者の正当な要求にひろい心をもって応じ、すべての過失や誤りを理解ある態度で 許すようになろう。逆に労働者もすべての階級的憎しみやうらやみ(階級闘争の 扇動者がたくみにかきたてるすべを心得ているところの)を、率直にふりすてる であろう。かれらは神の摂理によって、人間社会の内部においてかれらにふり あてられている位置を、ただよろこんで占めるばかりでなく、かの価値と栄誉との 高い意識をもってそれをほこりに思うであろう。すなわち、これらの価値や 栄誉は、自らの位置において共通善のためにそれぞれの貢献を正しくなしてゆく ところの者、そのすべてに属するものである。しかり、かれらこそこう考えること ができる――すなわちとくに自分達こそ、神の栄光のうちに在ったにもかかわらず ここ地上において職人となり、職人の子と称されることを欲したところのかの者 (キリスト)のあとを、かれと同じ仕方で歩んでゆくのだ、と」。
155 :
名無しさん@3周年 :04/03/05 22:39
【124 これ以外のどのような愛の効果が社会生活にとって意義を有するか?】 ●さらに愛の効果としての悦びが社会生活にとって意義を有する。 平和と同じく悦びも愛の効果ないし成果である。愛された善の所有(現存)ないし はそれについての期待は人を楽しくする。聖書は平和と悦びとを、聖霊の効果のうちに 教えている(ガラテア書、5−22)。だがそこではそれらのものは特別の意味、 すなわち超自然的な恵み――聖霊の力と影響の下に行動しているところの人間に 与えられる――と解されている。 1 悦びがなんらか尊重すべきもの、許されるもの、必要かくべからざるものである ことは、とくに聖書(それはわれわれにたいして明確に悦ぶことを要請している)から して明白である。つぎの箇所を参照。ヨハネ、15・11、16・24。ロマ書 12・15。コリント後書13・11、フィリッピ書4・4。テサロニケ前書5・16、 ヨハネ第一書簡1・4。
156 :
名無しさん@3周年 :04/03/05 22:39
2 悦びにはいろいろなものがある。 (a) 内的および外的な悦び。前者は人間の霊魂、心を満すものであり、外的な動作に あらわれることも可能であるが、かならずしもその必要はない。後者は特定の態度や しるしを内容とする。それらは本来は内的悦びを指示するものであるが、人間は内的には ちっとも楽しくなくても、外的な悦びを示すことがある(「愉快な」気質、わらい)。 外的な悦びはしばしば「外的悦び」によって呼びおこされる(遊戯、友人の交り、ダンス、 機知、ユーモア、さらには疑わしい、もしくはまったく野卑な快楽によって)。 (b) 真の悦びと偽りの悦び。前者は善についての(まともな)悦びであり、神の意に かなうものである。その領域はけっして人々がしばしば考えているように狭いものではなく、 たんに宗教的なものや倫理的善についての悦び、家庭生活における悦び、仕事や職業に ついての悦びのみでなく、たとえばよい読書、劇や映画、スポーツの催し、まともな 祝祭などが与える悦びをもふくむ。後者はにせの(見せかけの)悦びであり、いろいろの 形や段階がある。たとえば悪についての悦び(すなわちそれ自体において罪悪的な悦び であり、禁じられた性交、他人を不当に取り扱うこと、強制収容所)、度をすぎた悦び (放縦さ、気違いじみた悦び)。みせかけの悦びもにせものである(ひとは内面では 楽しくないのに楽しいふりをすることがある。ときとして人は他の者をあざむき、 まどわすために悦びをよそおうことがあるが、これは罪悪的な悦びである。
157 :
名無しさん@3周年 :04/03/05 22:40
(c) 附帯的な悦びと追求された悦び。前者はとくべつに努力もしくは準備することを 要しないで、自然に生ずるものである。それは苦痛でないか、もしくは苦痛とは感じ 取られていないところの人間行為に結びついており、そこから生ずる(たとえば、ある 仕事の成功に伴う悦び、真に義務を果した場合の悦び、愛する人間と共にいる場合の 悦び、良心のやすらぎと悦び)。後者はとりたてて追及されるものである。人は故意に、 自己もしくは他の人を悦ばせるために努力する(悦びを「与える」ために)。 〔例〕 悲しみにうちかつために楽しい出来事や動機について考えをめぐらす。楽しい 気分になるために劇場へ行く。愛情を示し、相手を楽しくさせるために贈物をする。 気晴らしに役立つことのすべて、とくにしばしば人の目にたたず、世間から隠され ているところのことがら、ふさわくそして実行されていることがら、人々の生活、 とくに苛酷な試練にあい、さらに落胆している人々に「太陽」をもたらすところの ことがら、などがこれに属する(いわゆるささやかな悦びあるいは心づかい、 親切な言葉や病人の見舞い、など。われわれはまた自分およびほかの人に悦びが 与えられるよう祈ることができる)。
158 :
名無しさん@3周年 :04/03/05 22:41
3 真の(!)悦びが社会生活にたいしてどのような意義を有するかは、その善い効果 からして容易に認識することができる。 (a) 悦びは人間をたかめる。聖書にあるように、それは意志に翼を与え、心を ひろげる(イザヤ60・5)。人が楽しみを覚えるとき、ことがらはより容易にはこび、 多くの場合より熱心に、またよりよい仕事をする。 (b) 人々の間の緊張や対立を解消し弱める。悦びは人々をしてお互いに心を開き、 お互いの言うことを聴くようにしむける。楽しみを覚えている人間はより進んで譲歩し、 忘れ、和解する。かれはより容易に共同体生活のうちに見出される不可避的な不便さや 困難に堪え、うちかつ、かれはとにかく自分のまわりに、人々が気持よく感じ、「ほっと する」ような雰囲気をつくりだす。現代の社会的闘争がそのようにもはげしく消耗的なの は、それがうらみと頑強さの感情をもって遂行されているからであり、それはほとんど すべての自発的で「快活な」出会いを故意に避けているのである。
159 :
名無しさん@3周年 :04/03/05 22:42
4 悦びという高い善は、人々が真の悦びをかき乱し、抑圧し、奪うところのことがらに、 力強く、また根気強く立向うときにのみ、維持し増大することができる。 (a) 悦びにとっての本来の敵は悲しみではなく、むしろ不機嫌や不満(悪い気分、 不機嫌、憤懣など)である。それはまわりにいる者をまひさせ、時としては破壊的な 作用をする。またそれは悦びの表現もしくはその感情の芽をすら、すぐにつみとって しまう。とくに権威の保持者がこのような態度をとるとき、それは邪悪で堪えがたい ものとなる。なぜなら不機嫌さが生ぜしめるところの冷酷な雰囲気は、きわめて容易に 不安やおそれの感情をひきおこすからである。 (b) 邪推や根拠のない疑念、不信、うらみ、ねたみなどが人々の間の善い関係を 破壊しているところでは、真の悦びは生じえない。それらすべては社会生活のうちに 動揺と疑いを持ちこむ。それは人々をしてお互いに注意深い態度をとらせ、用心深く ひかえめにふるまい、お互いに心を閉じさせる。このような悦びの敵のもっとも おそろしく堕落した形は、全体主義国家において発達せしめられたスパイ組織のうち に見出される。秘密警察(密偵)は支配(ないしは圧制)の主要手段となる。それは すべてのもの、すべての人間をつつむので、なんびともなんびとに対しても信頼を 持てなくなる。このような低劣な現象における最悪のものは、人々がもっとおそろしい 脅迫とゆすりとによって、おたがいに見張り、おたがいに背いて証言し、相互に不利な 資料を集めるよう強制されている、ということにほかならない。その避けがたい言語 道断な結果として、なんびとももはやその生活に悦びを覚えることはできないのである。
160 :
名無しさん@3周年 :04/03/05 22:43
(c) ごく一般的にいって、さまざまの形をとって現れるところの利己主義は(いう までもなく、とくにそれが当の人間をまったく支配する場合)悦びに対立する。もの おしみする人間ややかましい人間、権勢欲にとりつかれた者や快楽におぼれている者、 なまけ者や心の狭い者、これらの者は自分および他人の生活を辛いものにする。かれら の悦びはたんにみせかけのものであるか、他の人々の悲嘆や良心の不安を代価にかち えられたものである。 (d) 真の悦びは過度の悦びや、とくに歪められた「娯楽」によって脅かされるか、 あるいはまったく破壊される。すなわち、人はたんなる娯楽や気晴し、さらに低い 願望や情欲の充足といったことのために、自らの欲望の満足とそのために必要な かわったことがらを追求するのである(「生活を楽しめ」との標語はきわめて誤った、 きわめて卑しむべきものとなりうる)。こんにちの世界は人々を、気晴し、刺激、 娯楽などの無数のチャンスでもって圧倒する。これらのチャンスは一部は善いもの であるか、あるいはすくなくとも無害であるが、一部はけっして善いものでも、 無害にとどまるものでもないのである。そのうちにはたとえばつぎのようなものが ふくまれている。愉快な遊戯ととばく場の悪魔的なしくみ、まともなダンスと酒場や 娼家の卑しい騒ぎ、良い小説と雑誌にのっているわいせつな話や不潔な露出的記事 など。
161 :
名無しさん@3周年 :04/03/05 22:49
5 悦びは教育(自己および他人の教育)におけるきわめて重要な目的であり手段で あって、共同体はこの点においてもそれが共同体にとって有する価値を十分に認め なければならない。さらに、とくに若者の教育に関して(若者は悦びへの権利を 有する)、まずつぎのことがらに注意しなければならぬ。 (a) 真の悦びの源泉、動機およびきわめて多様な可能性とを発達させることが 大事である。第一に人々は徳にたいする忠実さこそもっとも純粋で豊かな悦びを 生ずることを学び、納得すべきである。それなしにはいかなる真の悦びもありえない のである(良心的態度、自己抑制、祈りと仕事における熱心さ)。 (b) このような真の悦びへの積極的な導入とならんで、あやまれる悦びについて 警告を発し、それから遠ざける、という指導がなければならぬ。人々は許されざる 「娯楽」を避け、許されたる悦びにおいても節度を守る、ということを学ばねば ならぬ。このためには強い性格、自己放棄、犠牲の甘受などが必要である。 (c) 社会生活にとってとくに重要な意義を持つのはつぎのことである。 (T)真の悦びをひきおこす原因のうちで第一にくるのは善行、実践的な愛である (「わかちあう悦びは二倍の悦び」)。 (U)時として悦びを外にあらわすさいには多くの如才が必要である。外的な、 とくに騒々しい悦びはおしつけがましくうるさいものとなりうるし、大きな 悲しみにとざされているまわりの人を傷つけることもある。 (d) 教育的理由からして、真の悦びがさかえるような、そして強制的にしぼま されることのないような環境をつくりだすことがもっとも重要である。この点 についてはなすべきことはきわめて多い。秩序ある住居ならびに労働条件に ついての配慮、人々や若者をおかし毒しているところの、つつしみのない有害 なことがらや影響力から、小さな生活環境や公共を浄化しようとする運動( 不潔なものとの闘争)、社会的対立の緩和と克服、人々に真の悦びを約束しそう なことがらをすべてできるかぎり強力に推進すること、など。
162 :
正義についての項目列挙1 :04/03/05 23:11
【89 正義とはなにか?】
●正義とは「正」(Recht)を対象とし、人をして各人にかれのものを与えるよう、
しむけるところの徳である。
>>18-19 【90 正義に必要な条件とはどのようなものか?】
●「正」(法)の場合と同じく、正義にはつぎの三つの条件が属する。
>>21-22 >>24-26 1 自然としての「他者」。
2 対象としてのおいめ。
3 規準としての平等。
【91 正義がかかわるのはどのようなことか?】
●正義がかかわるのは外的な善や外的な行動のみである。
>>27 >>31-34 【92 「徳は中道である」との原則は、正義の場合にもあてはまるか?】
●正義の徳も過度と不足との間の中道を保つものである。正義の場合、この中道は
ことがら自体に基づいている。
>>35-36 【93 正義はどのように区分されるか?】
●正義は一般的(また法律的、ないし共通善的とも呼ばれる)正義と特殊的正義とに
区分され、後者はさらに交換正義および配分正義にわかれる。
>>37-38
163 :
正義についての項目列挙2 :04/03/05 23:12
【94 交換正義とはなにか?】
●交換正義とは、人をしてかれと同じ権利を有する他者にたいして、後者に属するものを
完全に支払わしめるところの正義である。
>>39 【95 なぜ「交換」(「均等的」)正義と呼ばれるか?】
●「交換」(「均等的」)正義と呼ばれるのは、与えるものと受取るものとが完全に
等しいもの(等価値)にされるからである。
>>40-41 【96 交換正義はどのような特別の課題をになっているか?】
●交換正義が特別の課題としてになっているのは、他人のものを返却ないし払い
もどすこと(返還ないしは補償とも呼ばれる)である。
>>42 【97 ひとは返還の義務を負うているか?】
●ひとは他人のものを返却し、ひきおこした損害を弁償するよう、しかも――なにか
違ったふうに協定がなされていない以上――できるかぎり速やかにそのことをなすよう、
その良心において義務づけられている。
>>43-44 >>46 【98 交換正義は(人間的)実定法の規定に服するか?】
●実定法は、間接的もしくは直接的に交換正義にかかわるところの規定をつくる権限を
そなえている。
>>47-48
164 :
正義についての項目列挙3 :04/03/05 23:14
【99 配分正義とはなにか?】
●配分正義とは、諸々の善や負担を共同体の諸メンバーに均衡のとれた仕方で配分
することを任とする、かの正義である。
>>50-52 【100 均等さを確立せよとの掟は配分正義の場合にもあてはまるか?】
●配分正義は真の、しかしながら比例的な均等さを確立する。
>>53-56 【101 配分正義はどのような責務を有するか?】
●配分正義は、(1)何が正しいかを決定し (2)この決定の尺度にしたがって正しく
配分し (3)共同体メンバーの諸権利を効果的に保護する、という責務を有する。
>>57-59 【102 人間はどのような場合に配分正義にそむくか?】
●人はとくに「えこひいき」をすることによって配分正義にそむく。
>>60 【103 配分正義は補償の義務を課するか?】
●配分正義に違反する者は、もしかれが同時に交換正義にも違反しているならば、
補償の義務を負う。
>>61
165 :
正義についての項目列挙4 :04/03/05 23:15
【104 一般的もしくは法律的正義とはなにか?】
●一般的もしくは法律的正義とは、共同体にたいして、それに属するものを帰する
よう、人間の意志を傾かしめるところの、かの徳である。
>>62-63 【105 一般的正義の対象はなにか?】
●一般的正義は共通善を対象とする――この後者が、共同体のメンバーにたいして
なされる正当な要求を基礎づけるかぎりにおいて
>>64-65 【106 一般的正義はどのようなことがらにかかわっているか?】
●一般的正義は実定法によって命ぜられることがら、ならびに(とくに)自然道徳律
が命ずることがらにかかわっている。
>>66-67 【107 いかなる人間行動が一般的正義のもとに入ってくるか?】
●すべての外的な行動が、共通善の観点からして法律によって命ぜられるかぎりに
おいて、一般的(法律的)正義の下に入ってくる。
>>68-69
166 :
正義についての項目列挙5 :04/03/05 23:17
【108 一般的正義はいかなる意味において均等性を確立するか?】
●一般的(法律的)正義は、共同体の要求とメンバーの貢献との間の正しい
均等性を、法律が規定するところにしたがって確立する。
>>70-73 【109 一般的正義はどのような課題を遂行するか?】
●一般的(法律的)正義はつぎの諸課題を遂行すべきものである。
>>75 1 人間の意志をして共通善を正しく認めさせ、その実現へと積極的に協同せしめる。
2 われわれをして自然の法原則にたいする忠実さ、すなわち人間本性がその目的、
価値、義務に関してふくんでいるところの(全体的な人類目的、人間の権利)
ことがらすべてにたいする尊重と保障、の実現を可能ならしめ、またそれへと
むかって動かす。
3 共同体の要求するところと調和するような人格の発展を追求し、実現する(個人
に固有的なものを、共同的なものへと秩序づける)。
4 共同体が保証できず、またそれぞれの状況の下で実現不可能なことがらを要求
しないよう(共同体のメンバーに)命じ、勧告する(節倹、質素な生活に甘んずる
こと、状況を直ちに変えることができない場合の忍耐)。
5 公共福祉と個人の福祉とを正しくみのり多き均等へともたらすことによって、
社会平和を実現する(社会的対立の克服)。
【110 社会正義とはなにか?】
●社会正義はけっして一つの新しい、独立的な正義の種類ではなく、たんに法律的正義と
配分正義とをあわせたものを指す新しい表現にすぎない。
>>80-86 【111 「社会正義」という表現はとくにいかなることを明示しているか。】
●「社会正義」という表現はとくにつぎのことがらを明示している。
1 メンバー(部分的)共同体が上位の全体的共同体にたいして、ならびに相互間に
有する義務。
2 メンバーが社会的発展にたいして有する義務。
>>87-88
167 :
愛についての項目列挙1 :04/03/05 23:37
冒頭・序言
>>92-96 【112 キリスト教的隣人愛とはなにか?】
●キリスト教的隣人愛とは、神から同胞へとおしひろげられたかぎりにおいての、
超自然的な神愛の徳にほかならない。
>>97 【113 なぜこの隣人愛は「キリスト教的」と呼ばれるか?】
●この隣人愛はつぎの理由からキリスト教的と呼ばれる。
>>98-99 1 キリストがわれわれのために恩寵と共にこの愛の力と徳とをかちえ、われわれに
与えた。
2 キリストが自らこの愛を最高度にまで実践し、またこの愛を主な掟として、
キリストに従う者のしるしとして、宣明した
3 それゆえにわれわれは、われわれの同胞を「キリストのために」愛するよう
召され、義務づけられている。
168 :
愛についての項目列挙2 :04/03/05 23:38
【114 隣人愛は社会生活にたいしてどのような影響を及ぼすか?】
●隣人愛は社会生活にたいして測りしれぬほど広く、深く、有益な影響を与える。
>>100 1 愛は真理の探求および伝達へとかりたてる。
>>100 2 愛によってわれわれは人間にたいする高い尊敬へと導かれ、かれの苦難を深く理解
できるようになる。
>>101 3 愛のみが社会生活における最大の障害である利己主義にうちかつ。
>>102 4 愛はすべての徳に形相を与え、それらを行為へと動かす。
>>103 5 愛は社会的進歩の源泉である。
>>104 【115 隣人愛は正義からどのように区別されるか?】
●愛徳と正義の徳とは、対象、動機、およびそれらが課する責務の種類にしたがって
相互に区別される。
>>105 【116 隣人愛は正義にとってどのような意義を有するか?】
●隣人愛は(1)正義の代用となるのではなく、正義を前提とする(2)正義が
課する責務の忠実な遂行へと動かす(3)とくに正義ではまにあわないところに
おいてその力を発揮する。
>>106-110
169 :
愛についての項目列挙3 :04/03/05 23:39
【117 隣人愛はどのような性質をそなえていなければならないか?】
●隣人愛はつぎのようなものでなければならぬ。(1)普遍的(2)秩序或る愛
(3)実践的(4)時宜をえたものであること(5)慈善的。
>>111 【118 どのような場合に愛は普遍的か?】
●愛は、それがなんびとをも排除せず、万人をつつみ、できるかぎりすべての人を
助けようとするとき、普遍的であるといえる。
>>112 【119 愛はどのような場合に秩序あるものといえるか?】
●愛は正しい基準によって導かれるときに、秩序あるものといえる。
>>113-116 【120 愛はいかなる場合に実践的か?】
●愛は、善意(好意)が善業(善い仕業や行為)の形をとるときに、実践的といえる。
>>117
170 :
愛についての項目列挙4 :04/03/05 23:41
【121 どのような場合に愛は時宜をえたものか?】
●愛は状勢にあった仕方で実行されるとき、時宜をえたものといえる。
>>118-119 【122 どのような場合に愛は慈悲深いものといえるか?】
●愛は没我的に他人の困窮にあわれみをかけるとき、慈悲ぶかいものといえる。
>>120-121 【123 隣人愛は社会生活にたいしてなにを保障するか?】
●隣人愛は社会生活にたいして、平和、すなわち真の、確乎とした、永続的な協調を保障
する。
>>122-138 >>145-154 【124 これ以外のどのような愛の効果が社会生活にとって意義を有するか?】
●さらに愛の効果としての悦びが社会生活にとって意義を有する。
>>155-161
171 :
名無しさん@3周年 :04/03/08 23:41
何かの参考になればよいと思うので、引用の『キリスト教 社会倫理講座 1』 の「はしがき」を挙げておく。 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ はしがき T 本書はWelty,Eberhard.Herders Sozialkatechismus,T Bd.: Grundfragen und Grundkrafte des sozialen Lebens. Verlag Herder, Freiburg, 1952の邦訳である。原書は四巻からなり、二巻以下も 邦訳が予定されている。いくつかの改訂をほどこした新しい版が出ていることを知った のは、すでに校正刷ができあがっての後のことであったので、それらの改訂をとり いれることはできなかった。ただ原著者の要請によって、二、三の新しいテキストを 付加した。 U 原著者ウェルティー師はドミニコ会員で、現在ワルベルベルグのドミニコ会ゲネラル シュトゥディウムの倫理神学・倫理学教授であり「ディー・ノイエ・オルドヌンク」 (Die neue Ordnung)誌の編集者として国際的に知られている。
172 :
名無しさん@3周年 :04/03/08 23:42
V キリスト教的倫理・社会思想は、本書においてものべられている通り、古代の諸 教父にはじまり、中世・近世のスコラ学者を通じて現代にいたる、不断の努力において 発展せしめられ、豊かにされてきた。本書もこの長い伝統が生んだ成果の一つであると 言えよう。わが国においては、最近スコラ的ないしトマス的自然法思想にたいする関心が 増大し、それにともなって、右の思想がその一部をなしているところの、キリスト教的 倫理・社会思想にたいしても或る程度注意が向けられるようになってきている。本訳書が この思想にたいする関心と理解を深めるのにいささかなりとも役立つところがあれば、 幸いであると思う。 W 本訳書が刊行のはこびとなるまでにはつぎの方々にいろいろの点でお世話になった。 この機会にあつく御礼を申しあげたい。南山大学アルベルト・ボールド神父、京都・聖 トマス学院パウロ・エグリ神父、エンデルレ書店ルーベルト・エンデルレ氏および 山田剛太郎氏。とくにエグリ神父には校正刷を丹念にお読み下さり、数々のご教示を 賜わった。本訳書が多くの誤訳を免れているとすれば、それはひとえに同神父のおかげ である。 昭和三十七年六月 訳 者 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 以上、引用をおわります。
173 :
名無しさん@3周年 :04/03/11 03:50
引用文は読みにくかったり意味が取りにくかったりするところも書籍の記載どおり に変換したつもりです。「〜派、」→「〜は、」とすべき変換間違いなどが自分でも 見つけましたが、意味の取れない文章や色々な不明点かありましたら、すぐにご指摘 下さるようにお願いします。 この度の書き込みはこの書き込みのみで失礼します。では、皆さんヨロシクどうぞ。
174 :
名無しさん@3周年 :04/03/12 23:17
漢字が多すぎ
175 :
名無しさん@3周年 :04/03/13 01:47
>漢字が多すぎ そうですか?引用文は、自分なら漢字にするところをひらがなにしてあったり、 例えば「かれは」とか「われわれ」とか「うちかつ」とかはひらがなですが普通は 漢字で表記するような気がします。
176 :
名無しさん@3周年 :04/03/16 06:13
問題点の整理や、聖書から問題点を指摘することや引用することをまだしていません。 今後はそれらに触れてゆきたいと思います。今回の書き込みは、上げついでに予告だけ。
177 :
名無しさん@3周年 :04/03/16 17:20
キリスト教に対する批判に対してはすぐ「キリスト教を信じないものは滅びる」という脅しになる。この板を読んでるとかなりまともなクリスチャンでもこうなるパターンが多い感じがする。 これではキリスト教の愛の教えと矛盾していて、それさえもいいかんげんなものになってしまう。 まともな人間ならこんな明白な論理矛盾を認める事は不可能だろう。 キリスト教内部でこの問題を解決できない限り日本でキリスト教がこれ以上発展することはないのではないか。
178 :
名無しさん@3周年 :04/03/16 17:33
>>177 ここ数年は、まともなキリスト教批判がないからなあ…
179 :
名無しさん@3周年 :04/03/20 02:00
>>177 キリスト教の愛の教え(ヨハネ15:12etc)とは、キリストの命じた掟のみをまもる
というのではなく、キリストと一体になり、キリストと共に愛に生きることと
されていますから、一面では「キリスト教を信じないものは滅びる」という発言は
「論理矛盾」ではないと思います。キリストを認識してもなおキリストを否定する
ならばその人は真の愛にあるか?(1ヨハネ2:18-23 ローマ10:9 1コリント12:3 etc.)という
疑問を持てる点についてキリスト教的にはそこに多少非難の余地があると言える
のです。
しかし、彼らは愛が動機となって布教しているのではないでしょう。今後、この
スレでも問題点の一つとして取り上げようと思っていた部分でもあるのですが、
倫理の点では120の2項(
>>117 )にある愛ではなく自分の利益や「再保障」への
望みによる発言である可能性を否定できませんね。しかし、逆に先にも述べたように
その発言は、愛に基づいて一面の真理を伝えている可能性を否定しきれません。その
点も考慮して実際には場面ごとに判断する必要があると思います。
>>178 「ここ数年」というあなたの言葉が気になります。以前はどんなまともな批判があった
のでしょう?
180 :
名無しさん@3周年 :04/03/23 23:53
ここ数日で、すっかりスレッドが下がってしまいました。少し書き込みします。 神が、我々と共にある悦びというのは、どんなものなのでしょうか?自分はそれが 今のキリスト教に欠けていたり足りなかったり奪われているかもしれないと思います。 悦びの敵が不機嫌や不満であるからといって、それらの感情を押し殺した所に真の悦び があるわけではありません。信者に内的な平和がないということは、日頃は気付きたく ないことであり、気付きにくいことでもあると思います。 先に挙げた本の引用から色々な示唆が汲み取れます。内的平和によらず、悦びのない 教会や信仰生活環境、あなたは経験ないでしょうか? 123 『人が十分な力をそなえている場合には、外的な無秩序や誘惑にもかかわらず内的な 平和を保つことができる(迫害、牢獄における聖人、夫のかたくなさ、「気まぐれ」 にたえてゆく妻、患者のたえまない不平やぐちをしのぶ看護婦)。内的な平和を有し ない人間も、多くのことを一致してやることはできるが、つまり「仲良く」やって ゆくことはできるが、人間的に善い、ふかい、そしてエレガントな仕方で共同生活を いとなむことはできない。かれらの間の協調は真に堅固な基礎を欠いているので あって、それは利害、慣習、強制ないし外的実力によって保たれているのである。』
181 :
名無しさん@3周年 :04/03/23 23:54
124 4 (a)(b)(c) 『悦びにとっての本来の敵は悲しみではなく、むしろ不機嫌や不満(悪い気分、 不機嫌、憤懣など)である。それはまわりにいる者をまひさせ、時としては破壊的な 作用をする。またそれは悦びの表現もしくはその感情の芽をすら、すぐにつみとって しまう。とくに権威の保持者がこのような態度をとるとき、それは邪悪で堪えがたい ものとなる。』 『邪推や根拠のない疑念、不信、うらみ、ねたみなどが人々の間の善い関係を破壊 しているところでは、真の悦びは生じえない。それらすべては社会生活のうちに 動揺と疑いを持ちこむ。それは人々をしてお互いに注意深い態度をとらせ、用心深く ひかえめにふるまい、お互いに心を閉じさせる。』 『ごく一般的にいって、さまざまの形をとって現れるところの利己主義は(いうまでも なく、とくにそれが当の人間をまったく支配する場合)悦びに対立する。ものおしみ する人間ややかましい人間、権勢欲にとりつかれた者や快楽におぼれている者、なま け者や心の狭い者、これらの者は自分および他人の生活を辛いものにする。かれらの 悦びはたんにみせかけのものであるか、他の人々の悲嘆や良心の不安を代価にかちえ られたものである。』
この世に無償の愛などない。 神でさえ信仰という見返りを求めている。 愛とはすべて自己愛が企てた戦略である。
183 :
名無しさん@3周年 :04/03/25 21:37
キリスト教(ユダヤ教、イスラーム含む)の神はねたみの神ですから。
184 :
名無しさん@3周年 :04/03/29 00:28
>>182 命を投げ出す行為、というものがこの世に確かにあると思います。
逆に言えば、あなたが指摘する「無償の愛などない」ということの意味は、
人は命を投げ出す決断や行為を決してしないのだという主張であると受け止め
ますがよろしいでしょうか?
しかし、戦争や戦災の時に乳飲み子を抱えた親が命を張って我が子を守る
姿は良く知られた無私の親の子に対する愛を告げます。また、アフガニスタンの
地で医療活動に従事した中村医師は次のような体験談を語ります。
一日がかりでやってくる患者さんを含め、診られる患者の数には限りがあり、
どうしても今日はここまでということになる中、石が飛んで来たりミサイルが
飛んで来て彼の準スタッフ2名が殉職した時の彼の対応のエピソードです。
『アフガンの風習では、2名殺されたら2名殺さないと恥になってしまうんですね。
で、スタッフが殺気立って反撃をしようとした。私は「発砲するな」と言った。
びっくりして「先生、皆殺しになってもですか?」と聞く。私は「皆殺しになっても
発砲しちゃいかん」と答えた。「たかが十八人の我々が死んでも他の人が来て、
何万人も助かる。けれど、ここで発砲すればすべてが台無しになる」。部族長が
翌日謝りに来ました。私は彼に「これは一体どういうことか。私たちは一所懸命
やってきたつもりだ。2名首を出せ、でなければ、この診療所をあなたたちのもの
として守ってくれ」と声を荒げて言いました。すると族長は「すみません、この
診療所は我々のものです。守ります」と言ってくれました。』
以上のようなやり取り、決断と意志表示は、あなたの言う「無償の愛などない」
ということに反して現実に起こっていることですし、そうした個別的具体的な
一つ一つの人間の営みが、正義や愛を我々に思い起こさせる契機となっている
のではないかと思います。
>>183 神はねたむほどに我々人間を愛する方なのだというふうに意味をお取り下さいな。
185 :
名無しさん@3周年 :04/03/31 00:06
>>184 で書き込んだように、命がけで守るものが人間にはあるのです。命がいかに
小さい者であろうともその命を助けるために自分の命を投げ出してゆく行為、これは
「愛」を実践していることであると自分は考えます。ですから、そういう愛の実践に
よって生きる人一人一人は、キリスト教の教えに触れていなくともイエスをまだ信じて
はいない場合でも、命の与えぬしなる神にきっと天国へと導き入れられることでしょう。
下手に複雑な道徳心をもって、善悪の判断に終始する者であるよりは、ただ患者を
助けることに一念集中する医師の方が、よほど神の我々への思いに呼応しているのだと
感じます。アフガニスタンでは宗教上の理由から女性はブルカという顔の覆いをして
います。女性が男性の前でうかつに肌を晒すことはできないのです。そのために中村
医師の一団は女性医師を派遣して女性患者のケアに万全を尽くすよう努力をしている
のですが、こうしたアフガニスタンの風習などに対しても「良い悪い」で判断をしよう
とする欧米人の存在に触れ、次のように意見を述べておられます。
《「こうした習慣を欧米人はすぐ「いい、悪い」で判断します。それで、現地の人間と
諍いを起こし、国外追放になる。追放された人間は国際会議で訴え、喝采を受ける。
しかし、自分の思想さえ満足されれば、それでいいのか?残された患者さんはいったい
どうなるのか?だから、私たちは一切文化・習慣批判をしないことにしている。私たちは
ただ患者を助ける、ということだけを考えています。》
186 :
名無しさん@3周年 :04/03/31 00:07
こうしたことは、医師が患者に対する時だけでなく、乳飲み子を持つ母親が、戦火から 我が子を守ろうとする姿などに共通するものです。共通しているのは、命に対してその 大小を問わず限りない尊敬と熱意で自分の命を投げ打ってでも守り抜こうとする姿勢です。 他者の小さな命の前に自分の命をも投げ出す尊さを見ているのです。その時の彼らは、 無意識ではあっても世間的な代償を求めてなどいません。まさに意図せずにも神の存在 を確信し、愛の行為に身をまかせているのではないかと推測します。 キリスト教が教える愛の教えも命の与えぬしであり、愛そのものである神に信頼する その信仰をもとに、隣人を自分と同じように愛しなさいという極めてシンプルな教えの 体系が柱となっています。そして、愛を知る者ならばきっとそのキリストの教えに共感 するであろうことは容易に想像できます。
187 :
名無しさん@3周年 :04/04/13 05:39
最近の書き込みで、非常に注意が必要なものを見受けました。 ある方が、夢や幻で聖人の招きがあったと確信し、教会に戻るかどうかを思案して いるというものです。 幻視や夢の内容から信仰をはじめるのは、ゆくゆくカトリックであれ、他のキリスト教会であれ、その教会の内部を破壊する可能性があります。現実に生きていて、 信仰のある者の招きや愛に感じてまた信仰生活に戻るようにするのが本道です。 聖人というのは、教会に認められた人であってもそれはイエス・キリスト自身 ではなく、「死者」のうちの一人です。聖書ではもともと旧約聖書で死者に伺い を立てることが厳禁されています(申命記18章11節)。イエス・キリストは 「死んだ者は死んだ者に任せよ」マタイ8章22節・ルカ9章60節とおっしゃいます。 コロサイ2章18節 《偽りの謙遜と天使礼拝にふける者から、不利な判断を下されてはなりません。 こういう人々は、幻で見たことを頼りとし、肉の思いによって根拠もなく思い上がっているだけで、》 とパウロが警告する者からはじめる信仰生活を歩んではいけないのであると お伝えしたいと思います。
188 :
名無しさん@3周年 :04/04/13 06:42
幻で、信憑性が有り得るのは神ご自身が現れた場合で、それが預言者と 呼ばれる立場の人に対する神の働きかけであると旧約聖書で述べられます。 民数記12章6節 《主はこう言われた。「聞け、わたしの言葉を。あなたたちの間に預言者が いれば 主なるわたしは幻によって自らを示し 夢によって彼に語る。》 ですから、幻によって信仰を試す者には注意をしてください。それが、 聖人や天使の形や表明をする者であればなおさら注意して惑わされないことが ひつようなのではないでしょうか?
>>183 妬みの神をうまく操縦する方法がユダヤ・キリスト教信仰
なんだと思いますが、逆に操縦されてしまってますからね。
それが非常に痛いかな・・・と思います。
190 :
名無しさん@3周年 :04/04/17 13:01
191 :
名無しさん@3周年 :04/05/01 15:11
192 :
名無しさん@3周年 :04/05/11 02:36
最近、書き込みサボっていて申し訳ありません。また、そのうち・・・
193 :
名無しさん@3周年 :04/05/30 21:28 ID:gB2/p7Tq
カトリックが危ないという点で、いくつか話をしたいと思います。 この2chでもネタのようにしてマリア崇敬への非難がされている光景をよく 見かけるのですが、マリア崇敬の歴史的経過と聖書との比較において、マリア 崇敬の現状は聖書の警告面を着実に歩んでいるとしか思えない部分があります。 カトリックにいてもあまりに狭き道としてしか正統的キリスト教の道が残されて いないのではないかと訝る者です、自分は。少しずつこの点を明らかにしたいと 考えているのですが、カトリックの人もこれからキリスト教を学ぼうとする人も 今後書き込みすることについてよくご自身で確認することが肝要であると思います。 では、最近サボり過ぎていましたが、意を決して自分の考えを述べて行こうと 思います。随時質問は受け付けますからキリスト教の信者の方、特にカトリック 信者の方はよく事の真偽を見定めつつ投稿文をお読みいただけたら幸いです。
194 :
名無しさん@3周年 :04/05/30 21:43 ID:gB2/p7Tq
まず、マリア崇敬は、新約聖書から正統であると言えるのかどうかですが、次の点から、マリアは賛美され喜ばしいキリストの母として認識されます。 ●ルカ福音書1章41-43節 《マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。 エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った。「あなたは女の中で 祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。わたしの主の お母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。》 ●ルカ福音書1章48節[エリサベトの言葉にマリアが答える形で] 《身分の低い、この主のはしためにも 目を留めてくださったからです。 今から後、いつの世の人も わたしを幸いな者と言うでしょう。》 ●ヨハネ福音書19章26−27節 《イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、 御覧なさい。あなたの子です」と言われた。それから弟子に言われた。 「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの 母を自分の家に引き取った。》 つまり、聖霊に満たされたエリサベトはマリアを賛美します。マリア自身 自分のことを後の世の人が幸いな者というであろうことを返答します。この ことがマリア崇敬の意味である場合マリアは幸いな方として賛美されるのが 当然の崇敬のあり方であると言えます。また、イエスが十字架上で愛する弟子に母マリアを託されたようにイエスに愛されるべきキリスト者はいつも その母マリアを我々の母のごとくに崇敬することが正しい態度であると言えるのです。さらに、イエス公生活初の奇跡が、カナの婚礼の席上、母マリア の促しに応じて瓶の水をぶどう酒に変えることに始まる(ヨハネ2章3−10節) ことからマリアは大切な人であることがわかります。
195 :
日本政府はなにをやってもだめだね :04/05/30 21:44 ID:Y4pFyoOT
東シナ海の日中境界線海域で中国側による新たな天然ガス採掘施設の建設が明らかになった28日、 自民党本部で「海洋権益に関するワーキングチーム」(武見敬三座長)の会合が開かれ、 政府に厳しい批判が集中した。 海底に眠る膨大な天然資源をみすみす中国に奪われる可能性がありながら、有効な対策を持たない政府。 官庁間で責任をなすり合う構図も見え隠れし、議員からは「権益を守る意識があるのか」と怒号が飛んだ。 午前8時、非公開で始まった会合には衆参国会議員32人が集まった。 説明のために呼ばれた内閣官房や外務、防衛、資源エネルギーなど各省庁の担当者に、 議員から厳しい叱責が浴びせられた。 「10年前から中国は調査しているのに、日本はなぜやらなかったのか」 「中国に天然資源をすべて持っていかれていいのか」。 興奮した声が部屋の外まで聞こえてきた。(中略) 政府批判の先頭に立ったのは、桝添要一参議院員。 ガス田開発を伝える28日付の本紙報道を取り上げ 「海底資源が日中中間線の日本側にあっても、調査もしていなければ所有権を主張できない。 中国が採掘を始めれば、資源を全部持って行かれる。どこの役所が最初に問題提起するのか」。 しかし、各省庁の説明は責任のなすり合いとも言える内容だ。 「(外務省が)中間線を確定させないと、試掘はできない」(エネルギー庁) 「中国側に抗議しようにも、根拠となる(エネ庁の)資源データがない」(外務省) 桝添議員は「内閣官房も、外務省も自分から動こうとしない。まったく無責任だ」と憤慨する。 元防衛庁長官の玉沢徳一郎衆院議員は「外務省は中国と話し合いをしていると言うが、全然進んでいない。 我が国も独自に採掘するという判断をしないといけない」と強硬論を展開していた。
196 :
名無しさん@3周年 :04/05/30 21:59 ID:gB2/p7Tq
>>195 政府がだめなのを自分に振らないように。
マリア崇敬には異教的要素も含まれているという批判もあります。 なぜ、異教的要素が加わったのかという考察も必要です。 民衆の求めに応じた。この説は一見正確なようにも見えます。 しかし、キリスト教はユダヤ人のためだけのものではないという 定義が存在します。これは非常に大事な考察ですね。 聖書で描かれるマリアとイエスの関係は、 イシスとホルスの関係に似ています。 これは大いに利用する価値があるわけです。 イシスとホルスは架空だが、マリアとイエスは実在したからです。 一種の雛型となっているように読むことも出来ます。 もし、イエスの誕生が聖書どおりならば、当時の改宗者たちが 再発見するのは容易いことだったと思います。
マスゾエなんて、リベラルだから言えるんだよな。
199 :
194のつづき :04/05/30 22:12 ID:gB2/p7Tq
マリア崇敬が危ない理由は、歴史と聖書からその類似性を吟味すると見えてくる事実です。 まず、書籍から比較的端的な指摘がある部分を導入として引用します。 【第三の教義--無原罪受胎 第三の教義は、1854年2月8日にピウス9世が宣言した「無原罪受胎」の 教義で、マリアが原罪なくしてその母アンナの胎に宿ったとするものである。…… 実は、この教義は最も無理があり、最も抽象的思弁的なものなので、古来 しばしば論議の的になっていた。マリア好きだった聖ベルナルドゥスも、 またトマス・アクィナスも、神学的正当性に欠けるとして退けている。 はっきりと異端のカテゴリーに入れられた時代もあり、1644年のローマ 異端審問条例は、「無原罪受胎=Immaculata Conceptio」という言葉の 入ったすべての文書の没収を命じている。宗教改革をへてカトリックの 脱迷信化がはかられたころだ。 そのように大いに問題のある考え方だったのに、19世紀も半ばになって、 どうして突然、教義として取り上げられたのだろうか。それはヨーロッパの カトリックが、19世紀に非宗教主義の攻撃の的になったからだ。反教会の 傾向に脅威を感じるあまり、かえって反動的にマリア神格化の方向に傾いて しまったのだ。 つづく。】
200 :
189つづき :04/05/30 22:20 ID:gB2/p7Tq
【しかも、この「無原罪受胎」という言葉は、教義化されて4年後の1858年に、南仏ピレネー地方のルルドで少女ベルナデットの前に現れたといわれる 聖母が、名を問われて答えた時に使われた。その後ルルドが、その時に沸いた 「奇跡の泉」の評判のために急速に聖地として発展したせいもあって 「無原罪受胎」は聖母のもっともポピュラーな形容のひとつにまでなって しまった。 …………… 第四の教義--マリア被昇天 第四の教義は、1950年11月1日、やはり、法王ピウス11世が宣言した 「マリア被昇天」の教義である。これはカトリックの50年ごとの大聖年 にあたって発表されたものだ。 】 [上記『聖母マリア 〈異端〉から〈女王〉へ』竹下節子 講談社メチエ137 P125-127より抜粋]
201 :
200の再投稿 :04/05/30 22:23 ID:gB2/p7Tq
※
>>199 より続いています。
【しかも、この「無原罪受胎」という言葉は、教義化されて4年後の1858年に、
南仏ピレネー地方のルルドで少女ベルナデットの前に現れたといわれる
聖母が、名を問われて答えた時に使われた。その後ルルドが、その時に沸いた
「奇跡の泉」の評判のために急速に聖地として発展したせいもあって
「無原罪受胎」は聖母のもっともポピュラーな形容のひとつにまでなって
しまった。
……………
第四の教義--マリア被昇天
第四の教義は、1950年11月1日、やはり、法王ピウス11世が宣言した
「マリア被昇天」の教義である。これはカトリックの50年ごとの大聖年
にあたって発表されたものだ。 】
[上記『聖母マリア 〈異端〉から〈女王〉へ』竹下節子
講談社メチエ137 P125-127より抜粋]
202 :
名無しさん@3周年 :04/06/17 03:56 ID:GITplxlk
回線切る前にageます。
203 :
名無しさん@3周年 :04/06/17 04:53 ID:gjIHSJkC
キリストの説く愛なんざ残虐非道ゲルマン民族らの征服欲を満たすものでしかない。 絶望と貧困の砂漠で生まれた神は砂漠へ還るがよい。
204 :
名無しさん@3周年 :04/07/04 19:27 ID:6RojhM9Y
>>203 随分ひどいことを言いますね。神に気づくときには、それがある歴史の一地点
とか、世界の中の一地域のことであるとか、そういう見解を持つとは思えませんが。
キリスト教に恨みがあるとしたら、それはあなたのどんな知識によるものでしょう?
あるいは、どんな話を聞いたり体験したりしましたか?よかったらその辺の
思いを含めて反発する感情を吐露して下さい。>203さん。
205 :
名無しさん@3周年 :04/07/17 01:12 ID:VjATWqMx
仮の掲示板ではありますが、次のフリーレンタル掲示板に自分の意見を書いたり
皆さんの考えや質問を聞いたりする場所を設けるようにしはじめました。
これまでは何もないに等しい掲示板でしたが、今後色々と書き込みつつ、
ホームページや掲示板を正規に作っていこうと考えています。削除の必要性が
ない限りはプライバシーは尊重した運営をしたいと考えています。ヨロシクどうぞ!
掲示板アドレス:URLにmusicなどが入っているのはご愛嬌ということで…
http://jbbs.livedoor.com/music/5560/
206 :
名無しさん@3周年 :04/07/28 07:09 ID:glkCqu3B
カトリック信者が気をつけなければならないと考えられること、 これからその点について書き込んでいこうと思います。 この度は一応上げついでに予告まで。霊の問題が絡むので、信者で ない人や神を信仰していない人はレスを遠慮してください。また、 揶揄誹謗もなさらないようにお願いします。 マリアの出現現象として20世紀末、カトリック関係を含めて奇跡が 注目を集めました。そういう意味で、霊の関わりや奇跡現象についての 話はネタやお茶らけではありません。問題の根が深く、非常に恐ろしい 問題なので書き込みをためらっていましたが、少しづつ様子を見ながら 書き込みするつもりです。では、予告まで。
207 :
名無しさん@3周年 :04/09/04 14:45 ID:ti72AOSu
>>199 で引用した以下の文章は、次のURL上の情報と重なっていることが
わかりましたので一先ずそのことを書き込みします。
該当文面[Any Stigma to Beat a Dogma]内2-3段落目あたり
http://www.catholic.net/RCC/Periodicals/Inside-0995/0809-97/mary.html >>199 の引用個所から 以下は抜粋
【 実は、この教義は最も無理があり、最も抽象的思弁的なものなので、古来
しばしば論議の的になっていた。マリア好きだった聖ベルナルドゥスも、
またトマス・アクィナスも、神学的正当性に欠けるとして退けている。
はっきりと異端のカテゴリーに入れられた時代もあり、1644年のローマ
異端審問条例は、「無原罪受胎=Immaculata Conceptio」という言葉の
入ったすべての文書の没収を命じている。宗教改革をへてカトリックの
脱迷信化がはかられたころだ。】
[『聖母マリア 〈異端〉から〈女王〉へ』竹下節子 講談社メチエ137
P126 L2-5]
208 :
名無しさん@3周年 :04/09/04 20:43 ID:Mp0d9eCH
愛が無いと言ってる人へ 自分から心を開かなければ、誰とも突っ込んだ話はできないよ。
209 :
名無しさん@3周年 :04/09/05 06:30 ID:7CpIK+X3
>>208 自分は、「愛」を
>>97 で引用されている意味でここでは使っています。
つまり、愛の成長する秩序として問題にしているのは、果たして我々が信仰する
神は、真の神に対するものであるか?愛は真実育まれる教会がそこにあるか?
という問いかけです。
208のあなたは、一般論として「愛」という言葉を使っていますね。無責任な
話です。その人が心を開いて傷を負おうが親しい関係が持てようがあなた次第だし
あなたの責任だと言うだけのことに思えます。こちらは神への信仰が前提となって
真に「愛」はお互いを結びつけるのではないか?と問題提起しているのです。
話の視点が一般論とは少し異なるということをご理解下さい。あえてあなたの
言い方を真似てここを説明するなら、心が閉ざされていった原因に焦点をあてて
スレッドが進行しているということも言えるかもしれない。つまり、愛に対して
一般の人と視点が異なり、話のベクトルもまったく逆な意見交換を求めている
スレッドだということです。
210 :
209訂正 L3 :04/09/05 06:36 ID:7CpIK+X3
>愛は真実育まれる→○愛が真実に育まれる
211 :
名無しさん@3周年 :04/09/09 08:37 ID:T+Tjsau4
神は、まず自分に似せて人を創り家畜・動植物その他の被造物を創った。自分に似せて創った人とは 白人の事であり白人は神の代理人である。また家畜・動植物は人間に搾取され使役される為に神が創った ものであるから黒人の如き獣は家畜と同等であるから殺そうが奴隷使役しようが何の罪悪感もない。 異教徒や入信しないものは神を冒涜する存在であるから絶滅させるのが神の意志であり神の代理人である 白人にとって正義の戦(crusade)である。また未開の地に文明を根づかせるのが神が定めた明白な使命 (ManifestDestiny)であり未開・野蛮人を殺戮し排除するのは神の意志である。
212 :
名無しさん@3周年 :04/09/09 09:37 ID:kPD906R2
『人間は彼の仲間を神において、また神からして愛することによって、内的に 正しい仕方でかれの仲間に秩序づけられる。仲間を神の子としてながめ、愛するの が正しいやり方である。この愛は超自然的な隣人愛に他ならない。』 という意味でキリスト者同士、隣人どうし、神を愛して隣人を愛する実践が 信仰の基準。聖書自体は文字に過ぎず、それ自体は真理ではないし、慣習の中に それがあるのでもない。信仰の基礎には内的な平和が大切。それは 『内的な平和を有しない人間も、多くのことを一致してやることはできるが、 つまり「仲良く」やってゆくことはできるが、人間的に善い、ふかい、そして エレガントな仕方で共同生活を営むことはできない。かれらの間の協調は真に 堅固な基礎を欠いているのであって、それは利害、慣習、強制ないし外的実力 によって保たれているのである。』という指摘を鑑みるべきであるから。 教会が地獄やハルマゲドンなどのことを喧伝し宣教に利用しているとしたら、 それも全く間違ったものである。 『未来、つまり未来の事件や「変革」にたいする怖れ(不安)は、けっして真の 愛の動機とはなりえない。たんに怖れからして行動する者(援助し、大いなる 権利を譲り、均等に協力する者)は、自らの利益、適当な時期における「再保障」 の望みによって駆り立てられているのであって、好意や没我的な人助けの 心がまえによって動かされているのではない。』のであるから。 信仰生活は、愛のためにあり、教会生活も個々の信徒生活も内的平和に満た されたなかで初めて本当の信者の第一歩を踏み出すことで、個々を活かし、 教会を活性化させる一粒の塩と一人一人がなっていく気がしている。
213 :
名無しさん@3周年 :04/09/09 19:09 ID:kPD906R2
2 正しい行為なるものは独自のもの、つまり人間行動のほかの領域から区別されたもの である。それは、たとえば飲食にあたって節度を守ることとは異なっており、また危険に 直面して剛毅であり、幸、不幸にさいして平静であることとも違う。正しい行為は意志に かかわることである。意志がつねにいたるところにおいて、自発的かつゆらぐことのない 決意をもって、だんことして「正」が要求するところにつくためには、かれは内面的に 「正」へとかたむいており、正しい行為をなす心構えができていなければならぬ。意志は このような心構えを正義の徳からうけとるのであり、したがって後者は聖トマス・ アクィナスが言っているように「ひとをして、確乎として不断の意志でもって、各人に かれに当然属するもの(正)を与えしめるところの、習性」にほかならぬ。 したがってひとはつぎの場合のみ正義の徳を所有している――すなわち不断の習練、 つまりいつも正しい行為をくりかえすことによって、ついには、いつでもあらゆる点を 考慮した上で各人にかれのものをあたえようとする傾向を現実に身につけ、またそのように 努力するようになった場合に。 3 「正」はきわめて高い意義を持つものであるから、人々が正義の徳を身につけ、 それによってかれらが正義のさまざまの要求(しばしば厄介なものと感じられることも あるのだが)をたんにいやいやながら、また外面的にでなく、自発的かつ内面的に 遂行するということ、また不正をなすことを正直に避けるということは、きわめて 重要である。それゆえに正義の徳を獲得し、養成するということは、正しい教育が めざす緊急な目的である。正義の徳はとりわけつぎの人々、つまりその身分ないしは 職業からして「正」(法)に仕え、人々と「正義にかなう仕方で」接しなければならない 人々にとって必要である(立法者、裁判官、権威者、さらに両親、教師、経営者、 仕事の責任者、など)。
214 :
名無しさん@3周年 :04/09/11 17:22:49 ID:uwupr6jl
主イエス=キリスト様を信仰し、聖書を全て暗記すれば救われますか?
215 :
名無しさん@3周年 :04/09/12 13:44:41 ID:7qrKntkQ
キリストの説く愛や自己犠牲の精神は同じ白人種キリスト教徒のみに向けられた。有色人種や異教徒は、その 範疇に入らずむしろ対決すべき絶滅すべき存在とて看做されキリスト教徒にとって「正義の戦」を正当化するもの 勝利を約束するものとして大いに利用された。十字軍の蛮行、ユダヤ教徒の虐殺、魔女狩り、異端審問、内紛では 三十年戦争、百年戦争、ユグノー戦争、そして16世紀以降スペイン・ポルトガルに始まる「大航海時代」と言う美名 のもとでの地球規模大侵略時代。教会の名により神の名により土地の領有を勝手に宣言し現地民を大虐殺してきた。 アフリカの分割統治、黒人奴隷貿易、インディアン抹殺、東アジア植民地経営、野蛮な民が住む未開の地を文明の沃土 に変えるのは神が与えた使命として正当化してきた。キリスト教の階級支配的自然観や二元論的価値観は開拓者精神( フロンティア精神)無限空間征服精神(パイオニア精神)に発展し白人たちとくにアングロサクソンたちの精神構造に 組み込まれている。
216 :
名無しさん@3周年 :04/09/12 19:09:23 ID:PQ0JErrm
>>211 白人と黒人のどちらに正義があるかという問いは、無意味です。
愛が欠けると正義は、不正義に転じると思われます。
白人を知ること、黒人を知ることに対して真摯であることがまず必要です。
白人だから神の側、黒人だから神の側、という対立図式は神の前には
成り立たないと思います。白人のことも黒人のこともありのままに知る。
そして白人の間にも黒人の間にも「愛」があることをもって神の民となし、
白人と黒人の間にあっても「愛」が培われることとなって初めて神が共に
彼らとある、ということが言えるわけです。愛がないところには対象が
白人であれ、黒人であれ、神が共にいないのです。
●Tヨハネ2章9節
《「光の中にいる」と言いながら、兄弟を憎む者は、今もなお闇の中にいます。》
●Tヨハネ4章20節
《「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。
目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。》
217 :
名無しさん@3周年 :04/09/12 19:16:35 ID:PQ0JErrm
>>212-213 こちらの書き込みをコピペしましたね。賛同いただけているということ?
どうも。
>>214 >主イエス=キリスト様を信仰し、聖書を全て暗記すれば救われますか?
「イエス・キリストは私の主です。」と信仰の告白を公にすること。
イエス・キリストが人々を愛したようにそれに倣って隣人を愛すること。
そうすれば天の国に近い人になれるかも。
聖書の福音書や手紙類、旧約の詩篇や箴言など、憶えておくと良い部分
は聖書に沢山あります。しかし、そうしたことは義務でも命令でもありません。
●ルカ福音書12章28節
《今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草でさえ、神はこのように
装ってくださる。》
218 :
名無しさん@3周年 :04/09/12 19:22:08 ID:PQ0JErrm
>>215 あなたの考えは、極端過ぎます。返答しだすと長くなるので今はスルー
します。あしからず。
219 :
名無しさん@3周年 :04/09/13 09:36:11 ID:JmdlB/ZG
>>218 極端?どこが?私は歴史的事実を述べたまで。このような言説を受け入れられないのは
貴方が無知かキリスト教に潜む暗部を見ようとしてないだけではないのか。
確かに「愛」の教えは崇高で立派なものであろう。しかしキリスト教徒たちは、その
教えとは全く真逆の蛮行を繰り返してきた。現に2000年3月12日ローマ法王ヨハネ・パウロ
U世は大聖年における最重要行事として過去1000年間カトリック教会が犯した大罪を懺悔し
謝罪したではないか。
220 :
名無しさん@3周年 :04/09/13 10:04:17 ID:z6A+01V0
>>215 >>219 プロテスタントの場合、カルバン派の「滅びに定められた人々」という
考え方がその残虐性につながっていると思われる。神から滅びに定められた
人々を、虐殺してはいけないなどとは思ってもみないだろうから。
221 :
名無しさん@3周年 :
04/09/13 10:43:09 ID:z6A+01V0 この板を見ると、こまかくよく規定しているね。 (これらの規定はカトリックの本当の規定なの?) キリスト教版のコチコチパリサイ派のようだ。規定フェチ というかね。しかも(等価の基準等で)客観的な基準がないところがすごい。 このあいまいさのために、教会に都合がよいように利用されかねない。 それを喜んで受け入れている人は、従えばいいけど。 各人にはそれなりぬふさわしいやり方がきっとあるんだろうね。