348 :
古代樹:04/06/07 16:16 ID:Z32PtJwh
また、時には悲哀を持つことが自分の宗教への信仰に繋がり、
信仰を高める為に悲哀を持つ事もある。
これも結局自分の為に人を愛する行為に他ならない。
349 :
2ch中毒者上野:04/06/07 16:28 ID:GfFE7W9U
人は日々精進しているんですよ 成長していない人はいないんだよ 色々なこと考えるのが俺らのSaGaだからそれはそれで素晴らしいしそれでいいんだ
だが議論もいいけどもっとしなきゃいけないことがたくさんあるからとりあえずそれからはじめようと思おうよ まず大事なのは思う決意することでしょ
こんなとこ書き込んでもしょうがないよね 癖になるよここは
もうやっとこれからはそろそろ本当に見るだけになりそうだけどね 卒業しようZE爾チャンから
350 :
名無しさん@3周年:04/06/07 16:33 ID:VRxMTQVH
>>346-348 >>自分を救わずして人を救う事は出来ない。
人間に、自分を救う事などできはしない。
社会との関係とは、政治を指しているのではない。
政治とは、現世利益であり、宗教とは別のところで、一生懸命やればよい。
社会との関係を、仏教徒に説明するのは難しい。
(日本の)仏教が、そのことを真剣に考えてこなかった事が原因だ。
351 :
350:04/06/07 17:22 ID:VRxMTQVH
誤解されるとマズイので、少し追加する。
日本の仏教は、社会との関係において
政治と無関係な部分での倫理や価値観を作ってこなかった。
だから、(悟りなるものへの)敷居がとても高くなっているのだ。
見方を変えて、あいだに余計なモノがないので、逆に敷居が
低くなっていると言う人もいる。
どちらにしろ、同じ事を言っている。
悟りがあるとしたら、それは、自分と神・仏との関係の中ではなく、
社会との関係の中にある。
352 :
古代樹:04/06/07 18:03 ID:Z32PtJwh
>>350 人間が自分を救えないのなら誰が救ってくれるんでしょうか。
政治が現世利益とは非常に変わった考えです。
結局宗教も現世利益なんですよ。
本当の意味で霊性という現世利益を求めている訳です。
来世利益の考えも結局今の自分を慰める為に使われているのです。
353 :
古代樹:04/06/07 18:11 ID:Z32PtJwh
>>351 私は歴史に詳しくないのですが、
だからこそ、日蓮や親鸞の様な人が、
人との交わりを求めていったのでは無いのですか。
空海の時代は確かに政治とは別の世界として
仏教界が高い敷居を持っていた気がします。
歴史に詳しくないんで、詳しい人が居たら解説お願い。
354 :
古代樹:04/06/07 18:19 ID:Z32PtJwh
キリスト教も近い様な事態が無かったでしょうか。
教皇を中心とした、政治とは違う権力組織ができ、
ルターがそれに反対して行ったのでは無いでしょうか。
355 :
350:04/06/07 18:59 ID:VRxMTQVH
>>352 日本の仏教徒は、政治理念と宗教理念がごっちゃになってる人が多い。
他宗教の人には、受け入れ難いもの。
日本人が全部、仏教徒なら問題ないんだけどね。
356 :
古代樹:04/06/07 19:18 ID:Z32PtJwh
例えば現代の葬式仏教は確かに現世利益を求めている
側面があります。
私はこの路線の事を言っているので無く、
本来の仏教は、「今」や「現実」から目を背けない思想が
其処にあったと言いたいのです。
無常の思想も、この世は無常だからこんな世界とは関らない。
こんな思想が釈迦が説いた無常観でしょうか。
現実に世界から逃れ様も無いじゃ有りませんか。
その様な世界を心の中で否定するのではなく、
現実にあるがままを見つめて、それを乗り越えていく、
どの様な厳しい現実があったとしても、そこから逃げ出すような
作用は受けない。
どの様な厳しい現実も我が視界に写らない、我が心の静寂を
揺るがす事は無い。
これが釈迦が説いた教えではないでしょうか。
無常観というのが現実からの逃避を意味するものではない事は、
多くの人が分かっている事では無いでしょうか。
これを取り違えているのが一部の宗教に存在していると
言いたいのです。
357 :
350:04/06/07 19:43 ID:VRxMTQVH
>>356 少し話して、わかったけど、
まだ、理解されてないことが多すぎる。
たぶん、考えるよりも、読む方が先だろう。
興味のあることを、手当たり次第、調べるなり、読むなり
するといい。
あなたの宗教観のバックボーンを作る段階のように思う。
358 :
古代樹:04/06/07 19:50 ID:Z32PtJwh
釈迦は王宮から逃れました。
それで欲望や苦を断てましたか?
断てなかったのです。
欲望や苦は宮殿にあるのでは無く、
自らの心の中に執着と伴に備わっていたからです。
現実から逃れても逃れ切れるものでは無いのです。
自らの現実と向き合い執着を断って行かなくては
成らないからです。
釈迦は宮殿に戻っても心の静寂を保てたでしょう。
無常とは外界に執着する心、とらわれる心が無常という事です。
359 :
古代樹:04/06/07 19:58 ID:Z32PtJwh
>>357 私が知りたいと思う事、調べたいと思う事など
全く有りません。自分の心しか見るものは無いからです。
また、宗教のバックボーンなど作る必要も有りません。
私は宗教否定派です。
自分を見つめると言う作業に宗教は関係有りません。
偶々それを行なう事によって、宗教や哲学、心理学と
共通する部分を見出すだけです。
そして、自らの心を見つめると言う作業を欠落させる
現代宗教に問題を感じているだけです。
自分を見つめると言う作業が現実からの逃避に多くの場合
成っているからです。
360 :
古代樹:04/06/07 20:03 ID:Z32PtJwh
知識と言うのを外から吸収し再統合し人に語るものと
思ってませんか。
自分の人生を通して知ったものを本当の知識と言うのだと
思います。自分が自覚したものです。
361 :
350:04/06/07 20:14 ID:VRxMTQVH
>>359 宗教のバックボーンじゃなくて、宗教観のバックボーンね。
否定するには、それが、ちゃんと理解されてないと・・・・。
>>現実からの逃避
逃避するのは、何か、逃げたい問題が現実の中にあるんだ。
それは、宗教の問題なんかじゃなくって、現実の問題だね(w
医者から、死を宣告されたとか言うなら別だけど・・・・。
363 :
古代樹:04/06/07 23:10 ID:ju301ZCc
自分を見つめると言う作業が
多くの宗教で逃避に使われていると言うのは、
本当は偉人の弟子だったとか、
本当は前世で獲得した知恵が備わってるとか、
本当は魂は無限の力を持つとか、
本当は霊的能力を皆持っているとか、
本当はと言う事が非常に多いのです。
現実にはこの様な能力の獲得に終わってしまい、
現実に立ち向かう力が与えられる事は無いようです。
つまり、現実から逃避した段階で終わってしまうのです。
現実にその様な能力があろうと無かろうと、現実から
目を反らさないのを教えるのが望ましいあり方では
無いでしょうか。
現実には本来備わっている力に目覚められるのは
極僅かな人だけのようです。
しかし、現実に立ち向かう事を教えている宗教まで
批判するつもりはありません。
364 :
名無しさん@3周年:04/06/07 23:19 ID:+nFignij
ルターが出てこなかったら、30年戦争もなかったんだよね。
宗教ってすごい、禍根を残すね、
200万人死んだとか・・確かにローマが腐敗していたのは確かだけど・・
365 :
古代樹:04/06/07 23:29 ID:ju301ZCc
>>362 人間は苦しみの中にいる時、時間が止まってしまいます。
心の中の時間が止まってしまい、何時も同じ事で悩む様に成ります。
しかし、心の中の時間が動き出すと、
外の世界の時間も動いて見えるのです。
青空の雲が動いて行くのは当たり前でしょうか。
親が子供を朝に送り出し、夕方に待つのは当たり前でしょうか。
毎日日が昇り大気が暖められるのは当然でしょうか。
私自身ずっと深い苦しみの最中にあり、最近困難から逃げない決意を
した事で、周りの世界の時間が動き出しました。
全てが当然ではない。自分の心が動いているから
周りも動いているんだと言う事に気づきました。
苦しみが深いからこそ悟りもまた大きい事に気づきました。
困難から逃げず現実に向き合う。これが人生にとって
一番大切なことではないでしょうか。
あなたのいう現実(困難)とは社会の有り様のことですか?
それとも人間個人の心のこと?
あなたは何に悩み、苦しんでいたのですか?
もしよければお聞かせください。
367 :
名無しさん@3周年:04/06/08 00:13 ID:f4wBI3zh
>>365 精神的な苦しみは、もっぱら自己中心主義から生じる。身近な他者へ思いを移せば
苦しみは去る。
368 :
古代樹:04/06/08 00:56 ID:7tL2h4HJ
>>366 実際に何に悩んでいたかは語る必要も無いでしょう。
社会や周りの人間と言った外界の事象も全て
自身の心の問題に過ぎません。
どれほど大きな苦しみが外界に有ったとしてもです。
全ては自身の問題と捉える所に、全ての苦しみから
立ち上がる道があるのです。
369 :
古代樹:04/06/08 01:12 ID:7tL2h4HJ
>>367 自己中心主義でなくとも困難に直面する事態は
人生にいくらでも有ります。
身近な他人を愛した所でどうにも成らない事は
いくらでも有ります。
こうした苦しみに直面した時、多くの人が頼るのは
宗教でしょう。これによってさらに現実から逃避し、
現実に帰れなくなる人も多いと思われます。
宗教が現実に向き合う事ではなく、別の世界、
霊的世界や、宗教が作った悟りの次元世界にいざなう事
をする為です。殆んどの宗教が当てはまると思われます。
宗教を信じる事が限りなく現実世界に向かい、同時に
神秘の世界を教える事をすればよいのですが。
370 :
古代樹:04/06/08 16:34 ID:7tL2h4HJ
多くの宗教家の誤りは
啓示を尊しとする所から始まるのでは
無いだろうか。
かつて、永遠に啓示を受けられた人が居ただろうか。
恐らく多くの人が途切れ途切れであったり、
途中からそれを受け取れなく成ってしまったりしたのでは
無いだろうか。
こうした法則を無視して、自分に無限の啓示が降りる事を
渇望したり、啓示を間違いの無い神聖なものとする所に
宗教家、霊能者の転落の歴史があったのではあるまいか。
そもそも、啓示を受けた人は、それを求めて受けたのだろうか。
様々な人が居るだろうが、全く求める事もなく啓示を受け始めた
人も居る。これらの人の心には執着が無く、啓示と言うものに
固執していたのでも無かった。啓示を求めつづけて受けた人より
全く執着が無い状態でそれを受けた人の方が、啓示の質において、
安全性が高いのではあるまいか。
啓示に固執してしまい啓示を受けられなく成ってしまった人は聞くが、
啓示にとらわれていない人で神の声を見失った人を知らない。
神に従うより自分に従う方が上策と言うものか。
371 :
古代樹:04/06/08 17:05 ID:7tL2h4HJ
人は啓示を受けられなくなった事を悲しむべきではない。
人は啓示を受けられなくなった事を隠すべきではない。
それは至極当然の法則であり、良くある事の一環に過ぎないからだ。
どんなに啓示が降りなくなった状態を隠そうとしても、
人から隠せても神から隠す事は出来ない。
隠す事が出来ないものを隠そうとする所に間違いが生じる。
全ては神に見えている。
苦しみも含めて、神の前にありのままをさらけ出せばよい。
372 :
古代樹:04/06/08 17:13 ID:7tL2h4HJ
「天は自ずから助くる者を助く」と言う言葉がある様に
結局人は天に頼らず己の道を生きるしかない。
神に依存して人生を生きることは出来ない。
自分の人生は自分だけのもの、「心の王国」は神であっても
侵す事は出来ない。
自分を生き切る人にこそ、神はそれ以上の使命を与えるのである。
373 :
名無しさん@3周年:04/06/08 17:20 ID:Ogf3juNo
>>370 >多くの宗教家の誤りは 啓示を尊しとする所から始まるのでは
>無いだろうか。
今の日本で宗教やってること自体が間違いです。
374 :
古代樹:04/06/08 17:29 ID:7tL2h4HJ
神も悪魔も自分の人生にどれほど寄与すると言うのだろう。
自分の人生を行き切るのに何の影響も与えない。
臨済が、「仏を見たら仏を殺し、祖師を見たら祖師を殺せ、
(中略)殺し尽くして初めて解脱する事が出来る」と
言っている様に、自分の外界に囚われ、人生を台無しに
する必要は無い。
自分がどう生きたいか、どう人生を歩みたいかが大事である。
375 :
名無しさん@3周年:04/06/08 18:58 ID:znoJwdrW
376 :
名無しさん@3周年:04/06/08 19:08 ID:EBzo2XQh
だいたい、自己完結した考えというものは、
3秒で崩壊するものだ(w
だから、自問自答が永遠に続く。
377 :
古代樹:04/06/09 15:05 ID:P4CkMlOq
人は悟り以上の教えを説いては成らない。
啓示を受けて、悟り以上の教えを説かんとする時、
自動的に自分や高級霊に対する信仰が出来上がってしまう。
信仰の感情、慕う感情が出来上がってしまった場合、
そのまま自分の悟りを超えて、教えを説かなくては成らなくなり、
自分の悟りの速度と、教えとの板ばさみになり苦しむ事に成る。
あくまで、啓示と同じだけの悟りを得てから、自分の悟りとして
教えを説くべきである。
悟りとは、全ての人間に始めから備わっている。
それが一つ一つ共感しあって顕在して行くに過ぎない。
378 :
古代樹:04/06/09 15:06 ID:P4CkMlOq
途中で教祖が急死した為に娘に受け継がれた
教団にもその様な性質は潜在していた。
彼はイエスのように愛の人に成りたかった。
しかし、自らが愛の人と成れても、人を愛の人と
する事は出来なかった。
教団が何故混乱、分裂したのか。
人は自力の悟りの後に愛の人(他力)へと
進む事が出来るが、彼の弟子たちは皆、自力、他力以前の
依存に留まっていた。
師に救いを求めている状態を他力とは言わない。
他力以前の依存である。
この教祖の間違いが有ったとしたら、依存を超えた自力の世界に
言葉だけではなく実際に導くべきでは無かったか。
一人一人が悟者と成り、修行者と成って行けたなら、
彼の死後教団が混乱する事も無かったに違いない。
379 :
古代樹:04/06/09 15:36 ID:P4CkMlOq
一人一人が悟者と成った世界に、信仰は存在しない。
人を集めんとする求心力も存在しない。
よって信仰に苦しむ者も居ない。
380 :
古代樹:04/06/09 16:05 ID:P4CkMlOq
イエスが求めた愛の世界は
単なる依存ではなく、そこから愛の人と成る事を
強いている。「敵を愛し、迫害者のために祈れ」とか
「あなたの右の頬を打つ者には、他の頬も向けよ」
という言葉に端的に表われている。
これは見方によっては個の悟り、人生の悟りを突き抜けて
愛の人と成れと言っていると見る事が出来る。
イエスの思想は決して優しくは無い。
381 :
名無しさん@3周年:04/06/09 16:30 ID:8/5tWg2b
>古代樹
読みにくい
382 :
古代樹:04/06/09 16:36 ID:P4CkMlOq
他力思想がやさしいと言うのはただ入りやすいと
言うだけかも知れない。
日本の代表的な親鸞の思想にしても
「南無阿弥陀仏」と唱えれば往生できると説いたのでは無く、
阿弥陀仏(他力)が差し伸べる救いによって往生するという
「他力本願」を説いた。
つまり祈りの気持ちすら神仏によって差し向けられると
言う事である。(間違って無ければ)
此処まで悟れる人がどれだけ居るだろうか。
383 :
古代樹:04/06/09 16:47 ID:P4CkMlOq
霊的に見れば、我が潜在意識入り来たりて、伴に祈る
の世界ではなかろうか。
さげて、書き込むようになれば、
少しは、悟りも開けるのではないでしょうか。 >古代樹
385 :
古代樹:04/06/09 17:02 ID:P4CkMlOq
実は宗教改革者ルターもこれと同じような思想を持っていた。
自由意思論を巡ってエラスムスと対立したのは有名である。
386 :
古代樹:04/06/09 17:06 ID:P4CkMlOq
悟りなど求めていません。
自分の苦を滅する為に悟りが必要なだけです。
苦しみと言う器を満たす為の悟りが私には必要なのです。
その過程を此処に書いているだけです。
宗教否定論を保ちながら。
387 :
古代樹:04/06/09 17:26 ID:P4CkMlOq
私の現代宗教肯定派から現代宗教否定派に進化していく歴史が
ここにあります。
現代宗教なんて何の役にも立たないね。
ほとんど。
>>386 苦しみと言う器を満たす為の悟りと普通の悟りとどう違うのですか?
苦しみの器に何を以て満たすのですか?
389 :
古代樹:04/06/09 19:22 ID:P4CkMlOq
悟りたいと言う意思の中に、自分が優れた存在になって
説法したいと言う欲求が含まれているか、
自分が苦しみを滅するだけ悟ればいいやと考えているかの
違いです。
自分に悟りを見出すと伴に、過去の幻影としての教団やその思想に
批判を加えているだけです。
少なくとも今の自分にとってはこの両方が必要なのです。
390 :
古代樹:04/06/09 22:23 ID:JvaBCiWT
ニューソート(現代成功哲学、思想と此処では定義)
や「本来物質なし」の神道系教団によって、
富を実現する思想が説かれた。
これは恐らく、自身が悟りを得る事により、
無限の智(インスピレーション)を獲得し、
経済問題を解決する無限のアイデアを導き出したり、
本来自分を妨げる物質無しの瞑想に浸る事によって、
物質や事象が引き付けられる形で、経済問題を解決する
思想であると思われる。
このニューソートと言っても良い思想は、様々な教団に
受け継がれているが、殆んどが本来の方向性と違う方向性に
進んでしまっている様である。
つまり、物質に囚われる程の経済苦から解脱する為に、
物質を得、精神が解放されるのが望みのはずなのに、
富を追求する事がメインと成ってしまっているので有る。
そして、教祖は莫大な富を獲得し、自分が自己実現の
模範の様な気持ちに成って、豪勢な暮らしをしている事が
良くあるのである。
何時の時代であっても、宗教家が物質を求めないのは当然の
事ではないのか。少なくとも世間一般の認識はそうである。
自分が一般の認識から外れている事に気づかない程
愚かな事は無い。
391 :
古代樹:04/06/09 22:51 ID:JvaBCiWT
我々が求めるものは何だろう。
富であろうか。癒しであろうか。
富を求めて宗教に入った人がどれだけ居るだろう。
富を求めない人に、富を求める様な法を説く事は、
間違いではないだろうか。
心の悟りと、現実社会に適応していく力こそ
彼らが求めているものでは無いだろうか。
392 :
古代樹:04/06/09 23:12 ID:JvaBCiWT
我々は最大の勇気を持ってこの世に生まれて来る。
この世は差し詰め牢獄の様である。
閉じ込められた世界なのである。
過去の記憶を奪われ、霊的世界の事も忘れる。
どのように人生を生きたら良いか分からなくなるのである。
この様な世界に70〜80年存在しても構わない。
盲目でも構わない、きっと人生を行き切る事が出来ると
確信して地上に生まれて来ているのである。
これ程の勇気を持って生まれて来た事を忘れては
居ないだろうか。
祈って神を探さなくては生きられない。
どう人生を生きたらよいか探さなければ
生きられない。
こんな弱い精神で人はこの世に生まれて来たのでは
無い。
例え盲目に成ろうとも、生きていけると言う、強い勇気と
信念により、この世に生まれて来ているのである。
神をどこかに探してさまよい歩く無かれ。
本当はそんな事をせずとも生きていける強い精神を
あなたは持っているのである。
393 :
古代樹:04/06/10 17:07 ID:xaT0qrte
先に娘に受け継がれた教団の話をしたが
その教団の混乱を救おうとして発生した
教団も有った。
この教団は、啓示を降ろす事で混乱した教団を
救おうとしたのだが、彼は降ろされた啓示の深みを
理解しては居なかった。
その様な啓示を出版すれば混乱した教団からの
敵意、それも魔を伴った敵意と闘う事に成る。
この事まで考慮に入れて啓示が降ろされて居たのに、
この教団と最後には対立する様に成り、魔と闘う事を
怠った。
魔との闘いとは自分との闘い、自分に同じような欲望や執着があれば
必ず魔はやって来る。
内部が混乱した中に、小石を投げれば敵意は外に集まって来る。
外に念と魔が集中するのである。
この魔と自らの心と向き合う事によって闘い、
心を静め魔に打ち勝って行った時、この教団との和解も成立しただろう。
しかし、魔と闘う事を避け、自らに真実の啓示が降りている事を
如何に証明するかの方向へ進んでしまった。
魔と闘いつつ、真実の啓示が降りている事を証明する事は出来ない。
魔との戦いの最中に、正確な啓示は降りる事が無いからである。
例えインチキとの汚名を被せられても、魔と闘いつづけて悟り続けるか、
啓示をもって真実の法が降りている事を証明するか
どちらかを選択しなくては成らなかったはずである。
二つを同時に選択する事など出来ない。
魔と闘い続けあらゆる執着を断ち切って欲しいというのが
天の願いだったはずである。
394 :
古代樹:04/06/10 17:07 ID:xaT0qrte
汚名とは何か。
他人が自分をどのように認識しているかである。
自分が自分をしっかりと認識している限り、
他人の認識など自らの心の中に入らない。
自らに他人の認識が入らないから、
他人に自分を認識させる必要も無い。
自分が自分をしっかり認識しておけば、
他人の認識を受けたり、他人に自分を認識させる
必要は無いはずである。
自らの歪み無い本質のみ見つめて生きれば人は良い。
395 :
古代樹:04/06/10 17:08 ID:xaT0qrte
魔との闘い、特に教団を支配した魔との闘いは
甘いものではない。
あらゆる執着、あらゆる欲望を通して攻撃を仕掛け、
様々な感情が次々発生する。
日々霊の声と闘いつづけなくては成らない事も有る。
これほどの苦しみは人生に殆んど無いと言って良い。
あらゆる魔をわが身に受け、その魔の発生した原因、
その魔の持つ執着を知り、念を向けている人間の執着をも
調べなくては成らない。
そして、自らのその様な欲望を滅し全く違う人生を生きる事で
波長を合わなくさせる必要が有るのである。
魔が離れないとは、魔や念を向ける人と同じ様な性質、生き方を
何処か求めているからなのである。
一切の執着を断ち、全く違う人生で望めば、魔に障られる事は無い。
厳しい道であるが、これが真に魔と闘い続ける道である。
396 :
古代樹:04/06/10 17:32 ID:xaT0qrte
釈迦はあらゆる魔と戦い続けた、
厳しい闘いの中で、自分に気づかない
執着さえも知った。
限りない苦しみが有ったからこそ、
無限にそれを乗り越える智も導き出した。
苦しみと言う器が深ければ深い程、
これを満たす悟りも大きいものに成る。
この悟りこそが多くの人に感動を与えるのである。
397 :
古代樹:
最大の執着とは何か、
困難から逃避する想いである。
困難から逃避する為には夢を見る事である。
自分の将来を夢見る。
自分が本当はもっと偉大なんだと思う。
自分で無く、環境を変えれば良いと思う。
この様に夢を馳せる事が現実からの逃避と成っている。
現実は今にしか無い。
今の自分と苦しみ、そしてそれに向き合う自分しか無い。
これのみが現実。
そして神はどんな困難も自ら切り開く叡智を人間の内に
内包させている。これは特殊な能力ではなく、
自らが困難と向き合った時に、発露するものである。