スッタニパータを読む+ヴィパッサナーを実践する

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764名無しさん@3周年
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慈しみ(スッタニパータより)

究極の理想に通じた人が、この平安の境地に達してなすべきことは、次ぎのとおりである。
能力があり、直く、正しく、ことばやさしく、柔和で、思い上がることのない者であらねばならぬ。
足ることを知り、わずかの食物で暮らし、雑務少なく、生活もまた簡素であり、諸々の感覚官が静まり、
聡明で、高ぶることなく、諸々の家で貪ることがない。
他の識者の非難を受けるような下劣な行いを、決してしてはならない。
一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ。
一切の生きとし生けるものは、幸であれ。
何人も他人を欺いてはならない たといどこにあっても 他人を軽んじてはならない。
互いに苦痛を与えることを望んではならない。この慈しみの心づかいを、しっかりと保て。
立ちつつも、歩みつつも、坐しつつも、臥しつつも、眠らないでいる限りは、この慈しみの心づかいをしっかりと保て。
この世では、この状態を崇高な境地と呼ぶ。
765名無しさん@3周年:05/01/24 04:52:07 ID:cai1Yiji
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釈尊は、待機説法といって、相手や状況に合わせて説法していました。
その一時的な方便の揚げ足をとって騒いでいても、この人生の現場は救われません。観念の争いには際限がありません。

「確固とした実体なんて無い」というのが釈尊の立場です。これは、釈尊の教えの基本中の基本です。
あるのは、「原因と結果の永久運動のサイクル」だけです。
男だとか、女だとか分けて罵り合うのではなく、「慈しみ」の生き方をすればそれでいいのでしょう。
その際に、この善意は、「メサイヤコンプレックス」ではないか?
単なる「反動形成」ではないか?と自分を観察することも大切ですね。

他人を責める人間の心の底には、「痛み」があるものです。抑圧された痛みが人間関係を悪くしていくのです。
他人を責めている人は、「攻撃機制」が働いているのかもしれません。または、
何かの鬱憤を、言うべき人に言えないで、「置き換え」をして、言い易い相手に憂さ晴らしをしているかもしれません。
そんなのは、八つ当たりです。「幼児性への退行」です。
「健康で、仕事も順調、家族も幸せ、よし、こんな気分の良い日は、誰かを罵ってやろう!」とはならないものです。