「屋敷を」 天理教撲滅運動3 「払ろうて」

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970名無しさん@3周年
1838天保9:立教 てんりんおう 

1867慶応3:天輪王明神 吉田神祇管領家より許可
↓   おやさまの言葉「吉田家も偉いようなれど、一の枝のようなものや。枯れる時もある。」
1880明治13:転輪王 中山秀司が警察の干渉を緩和するため一時的に金剛山地福寺と提携

1882明治15:天輪王にもどる。

1885明治18:天理大神 改正輸告により

1886明治19:天理王命 神道本局より神道管長代理、随行の2名が視察に来る。神名の変更

1888明治21:天理王命 神道天理教会東京府許可。教則三条(天理人道)朗読開始

こんな感じですかね。改正輸告というのは、明治18年に政府と、神道本局にたいして
激しい弾圧を避けるために、とり決めたものを全国に、巡教したものです。
「教則三条」の説明
明治5年に政府の教部省のもとに神官・僧侶合同の教導職が設置されました。
大教宣布運動が全国に展開され、民衆の教化の基準として制定されたのが教則三条です。

明治5年にすでに「第二条:天理人道を明らかにすべき事」という様に、天理という言葉が
当時の政府側の文書にでていますね。天理という漢字を使うことにより、時の政府と
仲良しこよしになりたかったのでしょうか?

ちなみに「おさしづ」では、神道天理教会設置にかんして、だいぶ反対されており、
東京での許可が下りてからは、つくってしまったのならしょうがないから、地場に
持って来いとさしづされています。