『すべて階級があるので、ある程度の階級はなければ相応しないのであります。』
『みな御同行であるという。弟子もなし同じ行者であるという。これをまたありがたがっている。
これは共産主義思想と認められる。階級撤廃、階級無差別の思想です。
なんとなれば、師があれば弟子があり、そこに階級がある。
弟子も師匠も同じ所位にあるという。弟子も師も同じでやはり人間であると。
これがマルクスの主義の根本で、そういうことをありがたがるのはやはり迷信であります。』
『神様のことには民主的でない点がある。階級的ですから。』
『階級が厳然たるものだから低い地位に観音様をお祀りしても観音様は来られない。』
『御光』は『その人の霊の階級で力が違う。
また信仰の程度、生まれつき、それから経験などにもよります。
一番力の出るのは神様の御用をする人です。これは重要です。一番大きいことです。』
『賢者も、智者も、愚者も、偉人も平等に取り扱おうとする、そこに不公平がある。
大自然を見てもいっさいにおのずから階級がある。
偉人とか智者は社会からそれ相当の地位を与えられ優遇さるべきが本当であって、
それによって社会の秩序が保たれる、また社会主義は人間の競争心をなくそうとするが、
これは文化の進歩を阻害することになる。競争心があるので進歩発展するのである。』
『神様のほうは平等じゃないんですね。非常に階級をつけるんです。』
『社会も三階級になるのです。上流階級、中流派階級、下流階級です。』
「明主様には、段階……階級を設けられるような御模様でございました。
その標準としましては、
一つには、もっとも御浄霊の優れた人、
また、信者をたくさんお導きになられた方、
また、神様に対して非常に御奉仕の強い方、
こういった点を考えまして教団で決めるように、
という意味のお言葉をおっしゃっておられました。」
『支部長という責任者がなかったら、カラッポのようなものですから嘘なのです。
支部と名のつく以上は必ず支部長がいなければならないのです。
それで「それは閉鎖しろ、支部長ができたらやるように」と言ってやりました。
ですから理屈に合わないときには必ずお知らせがあります。』
『そこは出張所になっていて支部長がいないのです。
つまり支部であって支部長がいないということが、たいへんな間違いなのです。
支部はよいのですが、しかし支部長はちゃんといなければいけないのです。』
『そこで私は、「その支部を止せ、それで支部長になるべき人ができたらまた開けばよい」
と言ってやりました。そういう嘘をやっていたから、そこで
あり得べからざる間違いが起こりかけたのです。
そういうようなわけで、これもやっばり理屈に合わないことです。
だからやはり、支部なら支部とすれば、その機能を発揮することができるような組織が
できていなければならないのです。
それをぜんぜん、そういうようなでたらめでいるということは許されないのです。』
『浄霊をして、御礼をもらわぬということは本当ではない。
しかし特別の理由があればやむを得ないが、その人の身分相応で、
少しでも余裕があればお礼を上げるのが本当である。』
『病人で苦しんでいる人はなにがなんでも助けてやるべきです。
私も家の者が苦しいと言えば寝てからでもまた起きてやってやります。』
―― 御礼金が出せないような場合はいかがでしょうか。
『本当に出せないのならしかたがないが、出せるくせにケチで出さない人もある。
これは勿論いけない。』
『かつて私が浄霊に従事したころ、このことを聞かれたとき、私は答えた。
浄霊により生命が助けられたのだから、本来ならば全財産の半分くらい上げてもいいわけである。
この意味で私は手数料しかもらっていない。浄霊に対する御礼はまだもらったことはないと。
また先に弟子で一回一円の料金で浄霊していたころ、五円もらったので規定より多いからと言って
わざわざ返しに行った者がいた。これは実に神様を侮辱した行為だと大いに注意したことがあった。』
『できるだけ御礼をやすくしてやるとか、
場合によっては貧乏人にはただでしてやるといったふうに
社会事業的にするのは一応もっともなことですがね、
しかし、これはたいへんな間違いなんですよ。
いままでのたいした御利益のない宗教ならいいが、
このすばらしい神様には感謝するのがあたりまえですよ。
以前、私がやっていた時分、ある細君でとても熱心でしたが、
ある人がやってもらった御礼を置いてったら多すぎるからって返した人がありましたがね、
これはたいへんな間違いですよ。いくら一生懸命でも根本が違ってますからね。
その細君は震災のとき水に溺れて死んでしまいましたがね。
……ですからちょっとここの考え方が難しいんですよ。
不思議なことにはね、私がしていたとき御礼を高くするほど人が大勢やって来たもんですよ。
……まったく、これで救われた感謝は金には替えられませんからね。
先にもね、どれくらい御礼したらいいかっていう人があるんで、
ありがたいと思う気持ちだけでいい、本当に御礼するとしたらたいへんだから、(笑声)
その時分で、まあ、一〇万円くらいはしなけりゃならない、(笑声)
だからあんたのできるだけでいいって言ったんです。……実際、価値には替えられませんからね。
いままでのは、まあ一銭上げて家内安穏、商売繁昌、無病息災、なんて願ったもんでしたがね。(笑声)
だから、そういった意味でただでやってやるのはいけません。その人が罪をきてしまうんです。
神様から御利益をいただいてるのに御礼をしないってのは罪ですからね。
だから治ってから御礼するのは嘘で、治る前に御礼 ……お願いをするのが本当ですよ。
なぜなら、治ってから御礼をするんでは神様を雇ってることになる。
ちょうど人を雇って、これだけ働いたからこれだけ御礼するっていうのと同じですからね。
これじゃ人間のほうが上になって神様は下になってしまうんです。
だから、そのやってもらう前に誠を捧げて神様にお願いすべきなんです。
まあ、こんなことはいまの人にはちょっと納得できないかもしれませんがね。
いままでのは御礼を上げても死んでしまったことが多いんですが、
しかしこれは神様が悪いんじゃなくて、取り次ぎをする人が悪いんです。
悪意でやったんじゃなくても結果的に悪くなってしまうんですがね。
まあ、根本はこうなんですから、この根本を知ってあとは臨機応変にやったらいいんです。』