【なぜ救われぬ】親鸞会総合スレNo.25【会内輪廻】

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667名無しさん@3周年
>>663
1849年頃? その利益で既に25歳と言う若さで西円寺の東隣斜め上チョ
イの所に家をぶっ建てた。 当然、刺青していて、体格は明治天皇よりごつくて
光格天皇の様に背も高かった。1849年以前は違う所に住んでいたみたい。だか
ら1849年以前の我が家の足取りは不明。(何処の寺の過去帳調べたらよいのや
ら) 「地家」と言う所に家を建て間も無く寅吉(大室寅之祐 1850年1月10日)
が生まれた。だから地名を自分の家の苗字にしたみたい。
668名無しさん@3周年:03/11/13 09:07
>>667
 つづき
「地家」の名前の由
来は「村の中心」と言う意味。西円寺から麻郷小(明治5年創立)に行く途中
ゼンリンの住宅地図に小さな文字で「集会所」と書かれた所があってそこが昔
の麻郷村役場だった。明治20年に作蔵の死と共に家業は百姓一筋になった。
(作蔵の位牌は明治20年柳原愛子が作蔵の葬式の時、東京に持って帰った)
葬儀は西円寺。だから、作蔵の位牌も無いし、お寺の過去帳にも作蔵の記載も
無い。明治20年柳原愛子が田布施に来た(「鹿島昇」先生)目的は作蔵の葬式
の為に西円寺に来る為。