>>617 これは高松松平頼修公の出自と関係しますが、頼修公の祖先は高松頼常公
(光圀の唯一の子)であり、公式には二人の男子がありましたが、どちらも夭
折しています。 (恐らく謀殺)これは水戸家の家督争いが関係しているます
が、高松頼常公には死後に生まれた男子は長州藩に匿われ、育てられたためで
す。なお万千代君の母親が長州藩の出身です。
(興正寺家) 毛利元就 ─ 女 ─ 宍戸元秀 ─ 女(小早川秀秋正室・後に興正寺
准玄室)─ 准秀昭超・・・・・・スヘ
わかられましたか?
>>620 幕末の動乱期、慶応3年既に徳川慶喜が大政奉還を表明しているにも関わらず、幕府
に対して、「家康公以来の恩義を受けて、今日あるので末寺の門徒、僧侶による軍隊
を編成して、幕軍の指揮下に入りたい」等の申し出を行っている。が、慶応4年の戊
辰戦争の勃発で時代の潮流を感じたのか突如、厳如は妻和子の兄に当たる勤皇派の山
階宮晃親王を介して「徳川家の義は軽く、天恩の義は重く門末挙げて、勤皇に尽く
す」と言う一札を朝廷に差し出し、以後態度を急変、御所の警護や討幕運動の資金調
達に全国を走り回ったのだった。