【なぜ救われぬ】親鸞会総合スレNo.25【会内輪廻】

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619名無しさん@3周年
>>617
これは高松松平頼修公の出自と関係しますが、頼修公の祖先は高松頼常公
(光圀の唯一の子)であり、公式には二人の男子がありましたが、どちらも夭
折しています。 (恐らく謀殺)これは水戸家の家督争いが関係しているます
が、高松頼常公には死後に生まれた男子は長州藩に匿われ、育てられたためで
す。なお万千代君の母親が長州藩の出身です。  

 (興正寺家) 毛利元就 ─ 女 ─ 宍戸元秀 ─ 女(小早川秀秋正室・後に興正寺
准玄室)─ 准秀昭超・・・・・・スヘ

 わかられましたか?
620名無しさん@3周年:03/11/12 10:14
>>619 補足
新撰組の屯所は、西本願寺内に置かれたが、これも西本願寺が、「勤王方」と見られ
ていた事に対する嫌がらせと見張りや牽制の意味が有ったのだろう。
621名無しさん@3周年:03/11/12 13:31
>>620
幕末の動乱期、慶応3年既に徳川慶喜が大政奉還を表明しているにも関わらず、幕府
に対して、「家康公以来の恩義を受けて、今日あるので末寺の門徒、僧侶による軍隊
を編成して、幕軍の指揮下に入りたい」等の申し出を行っている。が、慶応4年の戊
辰戦争の勃発で時代の潮流を感じたのか突如、厳如は妻和子の兄に当たる勤皇派の山
階宮晃親王を介して「徳川家の義は軽く、天恩の義は重く門末挙げて、勤皇に尽く
す」と言う一札を朝廷に差し出し、以後態度を急変、御所の警護や討幕運動の資金調
達に全国を走り回ったのだった。