【なぜ救われぬ】親鸞会総合スレNo.25【会内輪廻】
しかし、「煩悩即菩提」を無反省に受け取って、煩悩の起こるがままにすれば良いのかというと、これはとんでもない誤解です。
問ふ。煩悩・菩提、もし一体ならば、ただ意に任せて惑業を起すべきや。
答ふ。かくのごとき解をなす、これを名づけて悪取空のものとなす。もつぱら仏弟子にあらず。
<中略>
道を修するものは本有の仏性を顕せども、道を修せざるものはつひに理を顕すことなし。
往生要集 巻上 正修念仏 作願門
【意訳】
問う。煩悩と菩提とがもし一つならば、ただ意のままに煩悩を起こしても良いのか。
答える。そのような見解を起こすものを<空の意味を誤解する者>と名づける。全く仏弟子ではない。
<中略>
道を修める者は、本来もっている仏性を顕わすけれども、仏道を修めない者は、ついにこの道理を顕わすことはないのである。
生死即涅槃なり、煩悩即菩提なり、円融無礙にして無二・無別なり。しかるを一念の妄心によりて、生死の界に入りにしよりこのかた、
無明の病に盲ひられて、久しく本覚の道を忘れたり。
往生要集 巻中 別時念仏 臨終行儀 勧念
【意訳】
生死はそのまま涅槃であって、煩悩はそのまま菩提であり、円かに融けあって礙りなく、
無二であって差別がないことを知るべきである。けれども一念の妄心に由って、生死界に入ってからこのかた、
無明の病のために盲となり、久しい間本覚の道を忘れていたのである。
とありますように、私たちは妄心や無明に遮られて、煩悩がそのまま菩提となると証することは出来ないのです。
それでは、いかにして煩悩即菩提を証するかといいますと、「本願力」「他力」によると説かれます。