【なぜ救われぬ】親鸞会総合スレNo.25【会内輪廻】
>>282 ////////////
|/。 。\|
( _' ) そう、おれ、頭弱いのよ。
1
あぼーん
父の話です。昔、満員電車から降りるとき、手に持ったカサを誰かが引っぱっ
ていたので、取られるまいと必死で引っぱり返したところ、カサの柄だけが手
元に残り、扉が閉まった。しかし「ちくしょー!」と怒る父のもう一方の手に
は、自分のカサがしっかり握りしめられていたらしい。柄のないカサをもって
いった見知らぬ人、お気の毒です。。
>>284 ずっと昔に上司に送った仕事のメールを見直してたら、「9月の休業日は以
上の通りですの よろしくお願い致します」という、お嬢様だか奥様だかわか
らん言いまわしの一文を発見して悶絶した。文の間に「で」を入れ忘れただけ
なんだけど…。
北風と太陽の話。太陽が勝つことは戦う前からわかってるんです。わかってる
のに勝負をふっかけた北風は太陽に花を持たせようとしたいいやつなんです。
そんなことはさておき、いやーマジ最近寒くなってきましたね。そしてそして
巷の乙女たち(含むヤン子)は、お肌が乾燥しまくってます。ヤン子の場合、
こころなしか去年よりいっそう乾燥がひどくなった気が…そして一昨年とは比
べモノにならないぐらい乾燥してる気が…が…が…がががーん!!とはいえ、
悩んでいてもはじまらない!なんとかせな!
仏教と科学
〜現代科学から死後の実在へのアプローチ〜
科学的視点から人生の目的を考察する
仏教は死後の実在を明快に説ききる。
しかし、仏智で説かれた深遠な真理は、科学のように観察、実験、計算、推理といった作業の積み重ねで到達できるような浅薄なものではない。だから、科学で仏説を説明しようとすることは、一階建ての家を二階、三階と増築して月へ届こうとするようなものである
。 だが、証明は無理でも、次のようなことはハッキリいえる。
「仏教は、現代科学にちっとも矛盾しないばかりか、これから科学が進みゆく究極のところを先取りした感があります」
これは、ある生化学者が仏教を研究して驚嘆した言葉である。科学者のこのような発言は枚挙にいとまがないくらいだが、それは後述する。
どんな人生観を持とうと、各人の勝手だが、科学の限界内のことは科学的な考え方をした方が利口である。非科学的な考え方は、必ず行き詰まるからだ。キリスト教文明然り、日本の皇国史観然り。
このページの目的は、一般に、人生の目的を考えているとされる宗教、哲学、思想を現代科学のふるいにかけ、何が残るかを確かめることにある。
だが、断わっておきたいのは、科学、科学と言っても、科学自体、完全なものではない。
現代人の自慢のタネである科学も、大宇宙のほんのある一面を解明したにすぎない。科学で証明された真理よりもまだ証明されていない真理の方がどれだけ多いか科学者自身がよく知っている。
「科学はどこまでいっても暫定的なものである。何事に対しても、完全、かつ究極的な証明を与える事は、科学には不可能である」(エックルス 大脳生理学者・1968年ノーベル医学生理学賞受賞)
「科学がすべてであると思っている人は、科学者として未熟である」(湯川秀樹)
だからといって、科学は無力ではない。科学は絶対的真理を示すものではない
が、真偽の区別 ぐらいは示してくれる。例えて言えば、写真のようなもの。
写真はあくまで実物ではないが実物に限り無く近い。犬の写 真は、犬そのものではないが、それを見ておれば、豚を犬と間違えることはない。
同様に、科学もあくまで真理の近似ではあるが、真偽を見分けるモノサシの役目は十分、果 たしてくれるのである。
ところが、多くの宗教は、科学の不完全さばかりを強調し、「人間の心や死後の問題は、科学の領域外。宗教でなければ分からない」
と決めつけ、それぞれ勝手な妄想を教義とし大衆をだましている。
確かに人間の生命、死後については、科学でも未知の部分が残されている。だが、かなりの部分が、
もはや解明されていることを宗教家たちは知らない。その者たちは生命についても、科学の領域内で矛盾したことを平気で教えている。そんな教えを信じる者は現代人失格といってよかろう。
「究極の存在」をめぐり、哲学は二つに分裂した
死んだらどうなる? 難問だが、常識的に考えて二通りしかない。すなわち、
死んだ後は「ある」か「ない」か、二つのうちどちらかである。
哲学的にいうと「ある」といえば観念論、「ない」と答えれば唯物論といえる。
本来、観念論とか唯物論は世界が究極的には何からできているかを論ずるもの
で、直接的には死後を云々するものではない。しかし、理論的に死後について考えるには、
ここからスタートするのが筋なのである。
「哲学の大切な問題は、心と物質世界(自然・社会)との関係である。
この問題をどう解くかが哲学の最高の問題である。哲学は、根本的には、
二つしかない。唯物論と観念論の二つである。人間に男と女しかなく、
第三の人間がいないように、哲学にも根本的には第三のものはない。あ
るとすれば、第三のものではなく、二つのものの雑炊である。
二つの哲学は、この問題の解き方が二つしかないところから生まれて
くる。唯物論の立場をとるか、観念論の立場をとるか、ここで分かれた
ら最後、もう哲学はどこまでいっても一致しないばかりか、いけばいく
ほど相敵対する様相が鋭くなっていくだけである」(高橋庄治『人民の哲学』)
「すべての哲学、ことに近代哲学の大きな根本問題は、意識と存在との
関係の問題である」(エンゲルス『フォイエルバッハ論』)
精神か物質か 意識と物質存在との「関係の問題」。これが哲学の根本テーマ
である。「関係の問題とは、どちらかが根源的かと言い換えられる。つまり、心
と物質は、どちらが先にあったか? どちらが、どちらを発生させたか? この
見解の相違から水と油のような二つの哲学が生まれた。
「精神と物質と、どちらが根源的であるか、この問題にどう答えたかで、哲学者
は二つの大きな陣営に分裂した。 物質に対して、精神が根源的と主張し、何
らかの神や精神の不滅を認めた人々は、観念論の陣営を形成した。 反対に、
物質を根源的であるとみた人々は、唯物論のいろんな学説に属している」(エン
ゲルス『フォイエルバッハ論』)
エンゲルスの説明によれば、究極の存在を物質とみるか、心(精神)とみるか
で、哲学は二つに分かれた。 「どっちでもいいじゃないか」と思われるかもし
れないが、唯物論と観念論の対立は、単なる物質か、心かという問題では終わら
ない。それは、死後の存否、ひいては後で述べる自由意志の問題をはらんだ人生
観の対立なのだ。
あぼーん
あぼーん
あぼーん
あぼーん
ここはふしあなすれでつか?
ここも、削除依頼が出ています。
そのうち、みーんなバッサリいきます。うききき。
520 :名無しさん@3周年 :03/10/22 00:15 HOST:nc3k001.fctv.ne.jp
削除対象アドレス:
http://etc.2ch.net/test/read.cgi/psy/1066024875/ 7 9 11-13 15 18-30 35 37-40 61-62 67 72-73 75 77 79 81 83-85 101 128-132
134 136 138 144 147 167 173 176 181-183 191-200 203-206 208-211 213-216
218 231-236 238-244 246 249-252 254-261 264 267-277
削除理由・詳細・その他:
5. 掲示板・スレッドの趣旨とは違う投稿
レス・発言
スレッドの趣旨から外れすぎ
故意にスレッドの運営・成長を妨害している
>>300 福井ケーブルテレビか。またまた田舎から……
やはり報恩講の誘いでした。
残念ながら予定が入ってたので断りました。
暇でも断っているけれども。
ふしあなじゃなくて、コピペでIP貼り付けてる気がする。
あぼーん
306 :
名無しさん@3周年:03/10/23 10:15
>>303 ゆりあさん自分の正体を偽って書き込みはまずいでしょう。
まぁ、インターネットなんてなんてもありですけどね。
しかしネカマになってまで何を手に入れたいの?
ストレス解消?
暇だね。ご苦労様。