>>163 >教えを体で理解するための行学として、そういう思いの有無に関わらず親鸞
会の活動に参加しなければならない、と教えていただきましたよ。
結果がでなけりゃ悲劇だな。結果が出た人はいるのかな?。
人参をくくりつけりゃ、馬は死ぬまで走り続ける。
経釈をよみ学すといえども、聖教の本意を心得ざる条、最も不便のことな
り(歎異抄)。
学問を旨とするは、聖道門なり、難行となづく。誤って、学問して、名聞
利養の思いに住する人、順次の往生、いかがあらんずらんという証文も候ぞ
かし。(歎異抄)
聖教をよく覚えたりとも、他力の安心をしかと決定なくは、徒ごとなり。
いかに文釈を覚えたりとも、信が無くは徒ごとよと、仰せられ候う。
教化する人、まず信心をよく決定して、そのうえにて聖教を読み語らば、
聞く人も信をとるべし。(聞き書き)
「その上にて」という指摘に注目したい。教える奴に信心がなくちゃ、聞く
人に信心は生まれない。聞いてる人に信心が生まれないということは、馬
車馬の親方には全然、信心が無いということなんでしょうね。
肝要は、只我が一宗の安心をよく蓄えて、自身も決定し、他人をも勧化すべ
きばかりなり。(お文 二帖目)
信心のない奴が他人を勧化しだせば、仏教は無茶苦茶になる。自損損他の咎
は甚大。地獄の底にまっしぐら。