日本人はなぜ信仰を持たないのだろう?2

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17名無しさん@3周年
唐突ながら、信仰を持たない訳でない事がわかったと思う。

以下に荒らし的にカキコするレス群も、
日本人の生活で無縁ホトケ供養な一つの心や行動基準で、
@人生の生き方や 
A生き方に係わる信心や 
B道徳基準だと言う事。
18名無しさん@3周年:03/09/20 19:54
【 仏教の三学や解脱について(昭和57年前後の考察) 】
お釈迦様の教えは、
掟(戒律)と心の操り(禅定)と知恵(唯識)によって、
苦楽のある世界の向こう(彼岸)である、
仏陀の居る極楽浄土へ往く(涅槃に入る)教え(仏教)なのです。
掟は、肉体や心の感覚を鎮める為に、
心の操りは、心の取り憑きを放つ為に、
智慧は、輪廻の定めに沿う魂の愚かさ(無明)を、
見極める(梵我一如を悟る、解脱する)為であった。

と、自分の中では解釈している。
何ら基督教と緩衝や対立する事象はない。
19名無しさん@3周年:03/09/20 19:55
註1: 戒律は律蔵、心の操りは経蔵、知恵は論蔵の三蔵で理解する。
註2: 心は、意、第五意識、第六識・末那識=マナス、第七識・阿頼耶識=アラヤ識からなる。
註3: 禅定は、ジャヤナ?の音訳。単に禅と称したり、三昧(ざんまい)とも言う。
経蔵の三昧経典群では、喩臥?(ヨーガ)の瞑想法を説く。
註4: 智慧は、慧は般若(パンニャ?)の事。虚空蔵。
論蔵より五位百法などの心や体や事象の分類方法がある。
註5: 世界は六道(りくどう)輪廻(サンサーラ)。
註6: 心の感覚は、有色・五色・前五識・心所。
註7: 取り憑きは、無色・十随煩悩・三毒・種子・渇愛(タンハー)。
註8: 無記と心と心所が十二因縁の因縁果報の虚仮(こけ)で存在する。
註9: 因縁果報を解く法則を、仏法・単に法とか達磨(ダルマ)という。
註10: 所作や性質から生ずるものを業力(カルマン)という。
註11: 魂(プルジャ?)は、
現世に五陰(または五大と言い此の世の五元素)の仮合で存在し、
死後の転生前の中有(バルド)に居る時の存在は、異陰・
異生身(ケンダッパ?)・香食(中有の魂は御香を食べて生きるので)と称する。
註12: 八聖道や四聖諦によって、此の世の実相から梵(ブラフマン)と、
我(アートマン、ヒンドゥ教ミーマンサ?学派のプルジャ?に相当)を一如と悟る事は、
アヌターラ・サムミャク・サンブディ(般若心経の
「あのくたらさんみゃくさんぼだくち」)を悟る事や、
空(アカーシャまたはゼロの意味のシューニャ)を悟る事と同意義。
20名無しさん@3周年:03/09/20 19:57
【 仏教の三学(私的考察) 】

戒は 食事の制御 運動など体調の制御 により肉体の不調から来る 
行動要因 動機 転生する悪心の原因を制御 
(たとえば 肉食って たまって欲情して襲っただの しないよう
「刺激物は食べない」など)

定は 気持ちの制御 思い浮かべるものの制御 により思考力精神面での 
行動要因 動機 転生する悪心の原因を制御 
(たとえば 悪い事や失敗があった時の動揺の心を持続させず
 衝動的行動を起こさぬよう 
気持ちを引き締め「言い聞かせの想念をする」「無念無想」)

慧は 次に何を行動かの選択の制御 考え方の制御
 により動作の選択によって生ずる
行動要因 動機 転生する原因のその後の予定を制御
(たとえば 人に何かしらした時の影響 自分への報いなど考え
 次の選択 悪への応報の無き 行動選択をする「知恵を働かせる」)

この三学の精度が上がれば 個人の輪廻の転生の根っコは無くなり 解脱する
と私は予測した
21名無しさん@3周年:03/09/20 19:58
【 仏教の三蔵(私的考察) 】

お経を 解決事例集として 参考にする
論法を 感情を分析した分類表と対処の行動の方程式の一覧として 参考にする
戒律を 悪の禁止や善の実施事項の行動規範の善悪の対照表として 参考にする 
と 三蔵を 考えていた
22名無しさん@3周年:03/09/20 19:58
【 「無記」「識」「渇愛」「念安般」の私的解説 】

「無記」である第八識・アラヤ識(チッタ)をマナ識は自我(アートマン)と誤解する
______チッタは受想行識や諸行無常の「行(サムスカーラ)」の居場所
______識(チッタ)によって人は輪廻し生まれる。
_____→第七識・マナ識(マナス)
_____→第六識・意識(ヴィジュニャーナ)
_____→前五識・眼耳鼻舌身識(愁悲苦憂悩−生死:ショウジの感覚作用)
「渇愛」から中有の健達婆=香(Gandha 健達)陰=尋香(じんこう)
「持息念」は数息観=念安般(ねんあんぱん=アーナーパーナ)。
______アーナーパーナは止(奢摩他しゃまた)の一種。
______無覆無記(聖道の修行を障害しない)のチッタ(識)を
______シャマタによって 無知を破る悟りを得て 
______報いの種子であるサムスカーラ(行)を「止」める。

【 「識」「香」「輪廻」「解脱」の私的解説 】

人は識によって生まれる。
死んだ後の識は「香」を食べる存在。男女の愛欲を呼ぶ。
そして輪廻して戻って来て、前世の報いを受けて生まれてくる。
識を制御し輪廻の報いを止める「観想」と「行動」を心がけなければならない。

よって阿含宗のような願望の達成によって身を整える方法では
解脱は得られない。
23名無しさん@3周年:03/09/20 20:00
【 「解脱」「ヨガ」「禅」「止観」の私的解説 】

報いを貯めて置く場所が「識」。
その識は「善」でも「悪」でもないので「無記」と名付けた。

識を制御する瞑想が「禅那」であり「止観」であり「ヨガ」である。
体をアクロバットするハタ・ヨガは瞑想前の血行を良くする準備体操であり
ラージャ・ヨガは目を閉じ心を分析する呼吸法と瞑想法そのものである。

肉食によっては体の感覚を汚し気性荒く肉の動物の死の苦痛を蘇らせる。
よってその様な感覚に瞑想中見回れない為には、
たんぱく質を豆類によって得ようとする。自然に菜食主義者になる。
薫酒山門を通さずである。

事実インド人は俗世の人間でも数多くの種類の豆類を食べて生活している。
そのうち香辛料の豆を粉にしたのがカレーである。
24名無しさん@3周年:03/09/20 20:01
【 止観[しかん]についての教えられた記憶 】

止 は落ち着いていても沸き起こってくる 念 を無くす または 
三毒の心や気持ちの 沸き起こるのを 停止させるもの と 
聞いたのだか 読んだのだか 記憶がある 
アゴンでは煩悩の死滅 因縁解脱 説明された記憶がある 

観 の方は 仏のイメージ 慈悲の起こる心を作る 思い浮かべて 
人を救う手立てを 考え付ける想像力 または 
救われていくイメージを 自在に思い浮かべられる事 観得する事 と 
アゴンでは解脱の瞑想だか 仏界の仏その者になる と 説明された記憶がある 

【 「止観」「魔道」「仏道」「バカボン」の私的解説 】

心を[開放]させつつも自我がないと空(から)になり
空の心に魔が射す。日差しが射すように射す。
[自分の意思によらず]自分の肉体が[他人の願望である]魔によって動く。

この魔の心を排除するのが観(ビバシャナ)である。
ビバシャナによってホトケやカミの心を自我に強く保たないと、
自分が他の心に乗っ取られてしまう。

よって善い師匠や[理想像の]崇拝対象に善神を祀らなければならない。
魔によっては魔道に堕ち、仏によって仏道を歩む。

>バガヴァンBhagavan(世尊) 同p40
バガヴァッド(神の)・ギータ(歌)
バカボン(日本訛りの真言でいう仏陀・釈迦・世尊・印度の神)
25名無しさん@3周年:03/09/20 20:02
●華厳五教章(法蔵・著)で「宗教」という熟語が初めて出てくる。
「宗」は宗旨を指す。奥義や要理を意味する。「教」は説教を指す。

【 薀蓄・コラム 】
問いをそのまま直ちに肯定する(これを一向記または解義答) バウッダp34
バウッダBauddha(ブッダ信奉者) 同p35
対機説法(たいきせっぽう)応病与薬「人を見て法を説く」 同p36 
真如タターtatha(真理)から
私たちのところに到来したアーガタaGataので如来タターガタTathagataと漢訳
バガヴァンBhagavan(世尊) 同p40 
法ダンマDhamma担う保つの意 社会秩序、宇宙の原理、普遍的な真理 
『清浄道論』五世紀にスリランカのブッダゴーサの阿含経の注釈書 同p143 
多仏思想として如来蔵(にょらいぞう)ないし一切衆生悉有「仏性」 同p215 
釈迦菩薩(本生菩薩)が釈迦仏に 弥勒菩薩が弥勒仏に 同p215
26名無しさん@3周年:03/09/20 20:04
>仏舎利について。
>「師よ、われらは師の遺骸をいかにとりなすべきや」
>「アーナンダよ、汝らは如来の遺骸の供養につきてこころ煩わされる
>ことなかれ。汝らはただ、おのれのもっとも高き善のために、おろか
>なることなくはげみもて変わることなかれ」
>仏教聖典 友松著 講談社学術文庫 p398
>阿含経によってかかれている。

<略>
その時、阿難は、仏に白して言う。
「世尊よ、[世尊が]般涅槃にお入りになった後、
供養の法は、当(まさ)に云何がしてよろしいでしょうか」と、
仏は言われた。
「汝は今、応(まさ)に、逆(あらかじ)め此の事を憂うるべきではない。
但(ただ)、自ら思惟せよ。我が滅後に於いて、正法を護持することを。
昔から聞いた所を、楽(ねが)って人の為に説け。
所以は何か[と言えば]、諸の天神が、自ら当(まさ)に我が身を供養すべきであり、
又、婆羅門及び諸王、長者居士を以て、
此等も、自ら応(まさ)に我が身を供養すべきであるから」と。
 和訳・・・大般涅槃経
 [法顕訳−ブッダ最後の旅路] 雲井昭善 東京美術 115-116頁
 第二部(巻中) 第二章 入般涅槃直前の世尊
 四 葬送儀礼(供養法)について−転輪聖王のそれにしたがう−
 大正・1・199頁下21行目
27名無しさん@3周年:03/09/20 20:05
●倶舎論 仏教講座18 桜部 建 著 大蔵出版株式会社
分別界品第一 十八界
分別根品第二 二十二根 六因・五果・四縁
分別世間品第三 三界・五趣・四生 中有について 十二縁起
分別業品第四 業の種類 十善業道
p163
5 業に関する雑多な事項(番号はサンスクリット原文の偈にも対応)
離犯戒及遮 名戒各有二 非犯戒因壊 依治滅淨等 (126)
等引善名修 極能薫心故 戒修勝如次 感生天解脱 (127)
感劫生天等 為一梵福量 法施謂如實 無染弁経等 (128)
順福順解脱 順決択分三 感愛果涅槃 聖道善如次 (129)
p169
《勝れて》[お経や金品による][お布]施も生天の果を感ずるが、
よりすぐれている点から、[具足]戒が生天の果を感ずるとのみいい、
戒も解脱の果を感ずるが、よりすぐれている点から、
[座禅などの]修[行]が解脱の果を感ずるとのみいう。
p170
《劫の生天を感ずる》天界に生まれて一劫の間快楽を受ける。
28名無しさん@3周年:03/09/20 20:06
唯識入門p118−121 法相二巻抄p108−110p340−341
(両方とも横山・本)

無覆無記(聖道の修行を障害しない)阿頼耶識 に生天や堕三悪の報いの種子が貯め込まれる。
有覆無記(四つの煩悩[我痴 我見 我慢 我愛]のある)第七識末那識 阿頼耶識を自我と見る意識
意識は肉体の五感を 自我と錯覚するが 
末那識は阿頼耶識を 意識と五感の関係ほどに 自我と強く見ない。

また 善心(福業)を起こして善の種子を植えつければ人(にん)か天に生まれ 
逆に悪心(非福業)を起こして悪種子を薫ずるならば 
その力によって未来世に地獄・餓鬼・畜生の三悪道におちいることになる。
その異熟習気(じっけ)の業種子が 増上縁となって 来世に阿頼耶識を生じさせる。 
三悪に生まれても阿頼耶識はある その境涯から善の種子を溜め込めば 生天 するからである。
それで阿頼耶識を 不善(悪)でも善でもない 無記の存在としている。
これを「因是善悪 果是無記」と呼ぶ。

来世に因果応報するのを 異熟 といい 
人間に男に女に賢く愚かに美しく醜く生まれる という 
各々の報いを受けて生きる期間をも 異熟 と言いならわす。 
そのいっぽうで 現世のうちに因果応報がある業を「同類因 等流果」と呼ぶ。
29名無しさん@3周年:03/09/20 20:08
バガヴァッド・ギータ  ヴェーダンタ文庫 
スワミ・プラバヴァーナンダ クリストファ・イシャウッド 共編 熊澤教眞 訳 

p9−10 ギータとマハーバーラタ
最後にユディシュティラが残った。彼は四人の死体を見て嘆き悲しんだ。
その時声があった。
「子供よ、まず私の質問に答えよ。
そうすればお前の悲しみとかわきは治まるであろう。」
彼は振り返った。そして義務と徳の化身・ダルマが
鶴の姿となってそばに立っているのを見た。

「天に行く道は何か。」と鶴が尋ねた。「正直であること。」
「どんな方法で人は幸福を見出すか。」「正しい行為によって。」
「悲しみから逃れるためには何を克服しなければならないか。」「自分の心を。」
「人はいつ愛されるか。」「うぬぼれを持たない時。」
「世の中の驚異の中で最大の驚異は何か。」「周囲のすべての人間が死ぬのを
知っていながら、自分自身も死ぬということを信ずるものがいないということ。」
「人はどのような方法で真の宗教に達するか」「議論ではない。
聖典や教義でもない。これらは役に立たない。宗教に至る道は聖者のみが歩む。」

ダルマは満足した。彼はユディシュティラに名前を告げた。
そして四人の兄弟は生き返った。
30名無しさん@3周年:03/09/20 20:09
●大乗仏典 中国・日本篇 6摩訶止観 中央公論社

p44 第一章 止観の大意 第一節 発大心について
どういうことを感大果というのだろうか。
(たとえば、ある貧女が子を抱いて河を渡ったときに、母子ともに沈んでしまった。
けれども、日ごろの優しいこころの功徳によって、死んでから梵天に生まれたという。)
梵天に生まれることを求めていなかったのに、梵天が自然と応じられたように、
不思議な報いがあることを褒め称えて、その心を慰め悦ばすのである。

p189 第三節 感大果について
・・・
31名無しさん@3周年:03/09/20 20:10
バガヴァッド・ギータ  ヴェーダンタ文庫
スワミ・プラバヴァーナンダ クリストファ・イシャウッド共編  熊澤教眞 訳

第九章 神秘のヨガ スリー・クリシュナ
p116
私は太陽の熱であり 雨を降らせ、雨を止める
私は不滅の生命であり死である
アルジュナよ 顕現したときの私は宇宙であり 非顕現の私は無である

三ヴェーダに精通し 聖餐のソーマ酒を飲み 罪を清めて祭祀をおこない
私を礼拝するものは 天への道を求めて祈る
彼等はインドラの王国に至り 天上の歓喜にひたる

p117
彼等は天国の歓喜を味わい その功績が尽きるとともに 人間の世界に帰る
三ヴェーダの道をとり 欲望を求むる人々は 無限の流転をくりかえす

ひたすら私を礼拝し、他を思わず、敬虔であれば、
私は必要な一切を彼に与え、彼の持つものを保護する。
・・・
神々を祭る者はその神々のもとに行く。 先祖を崇拝する者は先祖に行く。
精霊を崇拝する者は精霊に行く。そのように、私を熱愛する者は私のもとにくる。
32名無しさん@3周年:03/09/20 20:10
【 薀蓄 】
p43 併し中有[ちゅうウ]の説が起こったのは、
[お釈迦様の後の部派仏教の説一切]有部の徒によって始められたものではなく、
・・・ガンダルパ(健達婆)説から展開したものであって、・・・(『婆沙論』巻六十九参照)
中有は香を食するというより、ガンダルパ(健達婆)の名が立てられたので、
これを尋香(じんこう)と訳されている。・・・(『霊魂論』ニ一七〜ニ一九頁)
→ ブッダのカルマ論 浅野信著 たま出版

そういえば、
ヨガ行者が 殺人で得た金を 布施された時に 熱い!と言って投げ捨てた事件が本に掲載され、
浄財か悪徳かを感知できる超能力がヨガ行者にある実例を思い出したが、出典箇所を探し出せず。
たぶん 魂の科学 たま出版 だと思う。

p3−4 インドの大衆宗教画(神様の絵)をヴァルマー画という。
ケーララ州の画家ラージャー・ラヴィ・ヴァルマーの西洋画技法の発案と言う。
1848年トリヴァンドラムの北約40キロにある
小都市キリマヌールのバラモンの家に生まれたと言う。
→ インド神話入門 長谷川明 新潮社 とんぼの本 定価1300円
33名無しさん@3周年:03/09/20 20:11
★新版 中国正統 五術占い全書 
明澄派十三代 張耀文 東洋五術運命学協会 佐藤六龍 
文研出版 定価5000円 

序章 正しい運命学 p25 
第一章 五術の基本思想 p57 
第二章 命による人間の理解(紫薇−斗数推命術) p99
第三章 命による人間の理解(子平・四柱推命) p225 
第四章 卜による事態の予測と処置(六壬−神課) p287
第五章 卜による事態の予測と処置(八門・奇門−遁甲) p355 
第六章 卜による事態の予測と処置(断易・五行易) p387 
第七章 相による物体観察 p441
 第一節 印相(一事の運命:使った時だけの運)
 第二節 名相(一期の運命:姓名判断・改名するまでの間の運)
 第三節 金面玉掌(一生の運命:人相手相・生きている間中の運)
 第四節 陽宅(一代の運命:家相・家に住む間中の運・世代をまたぐ期間の運)
 −−− 陰宅(一族の運命:墓相・地理風水・一族郎党の運)
34名無しさん@3周年:03/09/20 20:12
第八章 医による病気の治療 p555
 第二節 方剤(薬物治療:漢方医薬・煎じ薬)
 第三節 鍼灸(刺激治療:はりきゅう・経絡・気孔)
第九章 山による人間の完成 p577
 第一節 山(仙道)について
 第二節 天丹法(築基法:座禅・呼吸法・体操・体力増強)
 −−− 人丹法(房中術:異性を使った気力体力の回復法)
 第三節 地丹法(食餌法:食べて健康・強壮剤)
 −−− 死法?(人の死を予測し利用するの法)
 第四節 符呪法(修密法:手法=手品で信用を得る・
     薬法=薬品など化学反応で驚かせる・念法=御札と念力で威圧する)
第十章 五術占例集 p629 
五術の総合的活用−−−「あとがき」にかえて『五術大法透貫』 p647
35名無しさん@3周年:03/09/20 20:13
陰シツ録(いんしつろく) 石川梅次郎 中国古典新書 明徳出版社 
(秀吉の朝鮮の役の際の[中国側]明軍の参事の)袁了凡の著書
p65 雲谷禅師を訪う。
『善行を積んだ家には必ず子孫に及ぶほどのあり余る慶福があるものである』
p67 雲谷禅師の教えを受く。
『御符を書く秘伝を知らなければ、鬼神に笑われる』と。
p95 福は己がつくる。
孟子が「王が、ほんとうに音楽が好んだならば、斉国は平和に治まるに近いであろう」・・・
p125 随縁済衆十綱目
第一は、人とともに善をなすこと。第二は、愛敬心を存すること。
・・・第五は、人の危急を救うこと。・・・第十は、物の命を大切にすること。
p158 畏心を発すべし
天地の神は上天からみそなわしており、鬼神を欺くことはできない。
・・・過の甚しいものには・・・災難を降し、軽い場合には現在の福を減損する。
・・・一点の燈火に照らされれば、千年のくらやみも除いてしまう。
p174−200 功過格キン[キンは疑の扁と欽の旁(つくり)](雲谷禅師伝)
36名無しさん@3周年:03/09/20 20:14
中国人生活倫理−功過格− 道教百話 窪 徳忠 講談社学術文庫 
p50 『功過格』善悪二行・・・勧善書。
『太微仙君 純呂祖師 功過格』
(抜粋)
兄弟にすすめてよいことをさせる。百功
妾をかわいがって妻をないがしろにする。百過
先輩を尊び、かしこい友だちと仲良くする。一日で一功
友達の危難を救う。百功
堕胎をやめさせる。二十功
一人を殺す。百過
医者が利益をむさぼろうとして人命を損なう。百過
毒薬をつくる。百過
一年のあいだ動物を殺さない。二十功
他人にすすめてひとつの悪事をやめさせる。一功
一冊の邪書を焼き捨てる。十功
他人の家庭のなかの争いをやめさせる。五十功
37名無しさん@3周年:03/09/20 20:15
中国人生活倫理−功過格− 道教百話 窪 徳忠 講談社学術文庫 
p50 『功過格』善悪二行・・・勧善書。
『太微仙君 純呂祖師 功過格』
(抜粋)
他人を誘って道楽者にする。五十過
一冊の邪書を出版する。五十過
誰も見ていないところでも悪いことをしない。一日で一功
公私を混コウする。十過
悪いと知りながらやる。三過
お経を出版して世に広める。百功
天の神や先祖をけがす。二十過
処女、未亡人、尼や女道士を犯す。三百過
他人の妻を犯す。百過
(以下略)
38名無しさん@3周年:03/09/20 20:16
陰シツ録(袁了凡 著)の功格五十条(雲谷禅師 伝)
−略−

三十功に準ず
○一の受戒弟子を度す。
−略−

一善に相当する行い
○一人の人の善を讃めること。
○一人の人の欠点、悪いところを暴き立てないこと。
○人の非行の一事を諭しとどめること。
○一人の飢えを救うこと。
○正しい道を説いて、教化が人に及ぶこと。
○人畜の疲労を世話して回復させること一時。
○一匹の自然に死んだ鳥類畜類を埋めてやること。
−略−

百銭が一善に相当する行い。
(百銭になったときに一善とする。穀物や繊物類も金銭に換算)
○道路や橋を修繕すること。
○河川を通じ、井戸を掘って民衆を救うこと。
○寺社仏閣などの聖像壇宇や供養などの物を修繕すること。
○人の遺れた品物を返すこと。
○債務を免除すること。
○人を教化し救うための文書を施行すること。
○功徳を作って、非業の斃れて浮かばれない魂に回向すること。
○困っているものに恵んで賑わしてやること。
○倉庫を建てて穀物の価を調整すること。
39名無しさん@3周年:03/09/20 20:17
バウッダ ・仏教・ 中村元 三枝充ヨシ 小学館

p155−156 
戒(シーラ)自発的に守るもの と律(ヴィナヤ)教団秩序の維持 
「戒律」という合成語はインドに存在しない。
律(ヴィナヤ)には罰則があり懺悔から最大は教団追放まで 裁判や処刑には及ばないとしている 
律と違い 戒は基本的に罰則ナシ
五戒(5シーラ)の解説 
@不殺生戒(ふせっしょうかい 生き物を殺さない) 
A不チュウ盗戒(ふちゅうとうかい 与えられていないものを盗まない) 
B不邪淫戒(ふじゃいんかい 男女間のみだらな関係を持たない) 
C不妄語戒(ふもうごかい いつわりを語らない) 
D不飲酒戒(ふおんじゅかい 酒類を飲まない)
この五戒は在家の戒であり 出家はこれより更に多くの戒を持つ 

p180 
「異熟」現実には因と果とのギャップが生じて逆転現象も起こりうるソレをさす。
>>28
40名無しさん@3周年:03/09/20 20:20
第三章 仏国土の建設 第一節 むつみあうなかま 
p244 六・・・王は王子を見つけて、「長く見てはならない。短く急いではならない。
 恨みは恨みなきによってのみ静まるものである。」と、ひとり言のようにつぶやいた。
p245 ここに「長く見てはならない。」というのは、
 恨みを長く続かせるなということである。
 「短く急いではならない。」というのは、友情を破るのに急ぐなということである。
各章節の典拠
p276「なかま」
 第三章 第一節 五 パーリ、律蔵大品、一〇−一−ニ・・・二四四 一
 六の典拠の記載がない。。。
法句経
  戦場において、数千の敵に勝つよりも、
 自己に勝つものこそ、最上の戦士なり。(一〇三)
  もろもろの悪をなさず、もろもろの善を行い、
 おのれの心を浄くす。これ諸仏の教えなり。(一八三)

【 天台小止観 関口真大訳(大東出版社) 】
序 
 諸悪莫作 諸善奉行 自浄其意 是諸仏教
 諸(もろもろ)の悪いことは作(な)すことなかれ
 諸の善いことは奉行(ぶぎょう)せよ
 自からその意(こころ)を浄(きよ)うする これが諸仏の教である。
※ 中国の魏晋南北朝時代の
 天台宗 第三祖 智者大師 智凱(ちぎ)の弟子が記述。