原始佛教 その5

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462電波男Ψ(´д`)Ψ ◆Lrv4sH3gkA
>>453
>3)阿呆陀羅經さんの
> >>110>>114
> 非常に重要な事が書かれていると思うのですが、いま一つ腑に落ちません。
> >>115、116 がなぜ驚いたか?その『驚きの内容』の解説をお願いしたいのです。

無記(釈尊が答える必要なしとして答えなかったこと)として数えられるものの一項目に

1 如来の存在にかんする両極端の見解

がありました。そしてこの項目は中国朝鮮日本においても定型のように語り継がれ(場合によってはインドでも)
誰も疑うことが無い先入観として定着していました。しかしこの項目は色んな研究で如来ではなく「衆生」(われわれ)
であることが明らかになってきました。けれど、これを受け入れる人はなかなかおりません。学者でもその
先入観ゆえにアテンションできておらす、体系から外れているのです。

この項目が何を意味してくるかといいますと、輪廻転生について釈尊がどういう見解を示したかという重大問題
へと発展することです。

>いままで、如来の存在に就いては無記を示したが、我々衆生に関してはその
>輪廻転生について無記という態度は絶対にとらなかった。

とするのが輪廻転生肯定派の根拠でした。それが揺らぐのです。