☆エホ証と福音派とリベラルの聖書解釈☆Part3
245 名前:名無しで宗教問答 投稿日:03/04/29 08:08
【 福音派の特徴 】
「福音派とは、一枚岩ではなく、モザイクである。」(ティー・スミス)
・・・フランス革命以来の社会革命の要求が大きくなり、
民心はキリスト教を離れて唯物的になって行く。キリスト教そのものも合理主義によって弱体化し、
人々に呼び掛ける力も失いつつあった。
[そこで理性の権威という考えに反発で、キリスト教のリバイバル(覚醒運動)が起こる]
ドイツでは「エァヴェックング」、英語圏では「アウェイクニング」あるいは「リヴァイヴァル」、
フランス、オランダでは「レヴェーユ」と呼ぶ。
・・・教理に関して言えば、覚醒運動はおおむね正統派の教理条項を踏襲するのであるが、
正統派の時代よりも終末論への関心が強くなっている。
聖霊論が聖霊の実の観点から強調されるのも特色である。
聖書の無謬性(リベラルの史的イエスより信仰上のキリストを解釈から、
伝統解釈への回帰や逐語霊感の解釈)と、
聖書の普及(ドイツから聖書協会の設立が波及)、
ファンダメンタリズム(聖書の無謬、処女降誕、代理贖罪、体の復活、
キリストの接近した可視的再臨、
敬虔主義の千年王国説[、アダム・モーセ・ダビデの三つの契約]を信じる)がある。
倫理観の建て直し(禁酒・禁煙・ダンス禁止のような風紀粛清。
一方でゲイの教会は容認するが、自分たちがゲイになるのは反対。
マスタベ-ション容認でも婚前交渉は否定。
離婚・再婚は良い、夫婦間の性の喜びは良いが、売春は反対。)
現代的課題:
ウィリアム・ジェームズのプラグマティズムの哲学(民主主義・
多元主義)からの聖書解釈の試み
☆エホ証と福音派とリベラルの聖書解釈☆Part3
158 名前:或る福音派信徒 ◆RevGiOKgRo 投稿日:03/04/21 02:37
)>157勉強熱心のカトリックさんかな?
リベラル派の系譜。
シュライエルマッハー
│ │ │
ブルトマン ティリッヒ パネンベルク
福音派の呼称はエキュメカルに対してのもの。
福音主義の呼称はリベラル派 自由主義神学に対してのもの。
彼らリベラル派は聖書を誤りない神のことばであると信じる事無く、
普遍救済主義、多元主義に陥る危険がある。
http://www.ny.airnet.ne.jp/bible/bible/bokushi/ronbun.htm http://www.jbu.or.jp/his/history.html 159 名前:或る福音派信徒 ◆RevGiOKgRo 投稿日:03/04/21 02:48
ほかに有名なリベラル派の神学者は
トレルチ ハルナック
自由主義神学の祖とされるシュライエルマッハーは
ドイツ敬虔主義の出身であるが彼自身は正統から離れてしまった。
ドイツ敬虔主義はルター派牧師シュペーナーからはじまる。
☆エホ証と福音派とリベラルの聖書解釈☆Part3
160 名前:或る福音派信徒 ◆RevGiOKgRo 投稿日:03/04/21 02:56
17世紀のルター派の霊的生命が枯渇し
形骸化したことに対してルター派内部から刷新運動が起る。
敬虔主義運動といわれる。シュペーナー Philipp Jakob Spener がその指導者である。
彼は1670年に「コレギア・ピエタス 敬虔なる者の集い」という家庭集会を開いた。
「敬虔主義」の名はこれに由来する。
1675に『敬虔なる願望 PIA DESIDEREA』を著した。
この信仰は今日の福音主義信仰の直接的な意味での霊的ルーツである。
現在もセル・グループ、アガペーグループといった名で家庭集会が持たれる。
シュペーナーがその本の中で主張していることは、
・聖書を生活に密着したものとして読む。
聖霊の解明の元で聖書を読み、ディボーションの時を持つ。
・ルターは万人祭司を主張したのであるが、ルター派はそれが実践されなかった。
シュペーナーはそれを実践に移した。
ルター派はまだカトリックのような制度があった。
しかし、信徒が家庭において集会を持ち、万人祭司の務めを果たすことをすすめた。
キリスト者がキリストとの生き生きとした結び付きを持つことを勧めた。
ルター派の形骸化は誰の目にも明かであった。それに対する刷新運動が敬虔主義である
シュペーナー自身はルター派正統派信仰から離れたことがない。
しかし、その後継であるはずのシュライエルマッハーは普遍救済主義者となり、
正統信仰から離れてしまう。シュライエルマッハーの両親も敬虔主義者である。
彼が敬虔主義の学問的中心であったハレ大学で神学の教鞭を取ったために、
ハレ大学は残念なことにリベラル神学の牙城となってしまった。
☆エホ証と福音派とリベラルの聖書解釈☆Part3
161 名前:或る福音派信徒 ◆RevGiOKgRo 投稿日:03/04/21 03:49
キリスト教とリベラリズム
『Christianity & Liberalism』 by J. Gresham Machen (1881-1937)
http://www.markers.com/ink/jgmchrandlib.htm いのちのことば社より
『キリスト教とは何か-リベラリズムとの対決』の題で翻訳あり。
福音派にとっての歴史的著作。
福音派クリスチャンのリベラル派への弁証。
217 名前:聖書信仰-或る福音派信徒 ◆2/GHlARf6k 投稿日:03/04/27 14:14
>>216 リベラル派の神学者のことか?
「われわれが今日福音主義とか福音派とか言うとき、
信仰的自由主義に対して福音主義、
エキュメカルなグループに対して福音派という表現を使っている。
つまり、聖書は誤り無い神のことばであると信じ、
基本的教理を保持し、救霊と伝道に励んでいる者たちのことである。」
泉田昭師『羽ばたく日本の福音派』
「聖書信仰こそキリスト教の本流である」神学博士尾山令仁師
☆エホ証と福音派とリベラルの聖書解釈☆Part3
235 名前:名無しで宗教問答 投稿日:03/04/29 00:18
【 ブルトマン神学のネタ(断片、言わんとしている事を嗅ぎ取ってね) 】
・・・「史的イエス」と「信仰のキリスト」との「連続性」の問題・・・
1の考え。・・・「事実」であって、その「内実」(Was)ではない。・・・
2の考え。・・・史的[には]・・・キリスト教信仰の核が含まれていた
ということもありえない・・・
・・・キリスト教信仰にとっての「史的イエス」の意味は、
その「事実」(Das)に限られるということです。
・・・「史的イエス」という存在がいたという「事実」だけは、
キリスト教信仰には欠かせない・・・
・・・ブルトマンは信仰を一つの向こう見ずな決断・・・
・・・「史的イエス」の内容は
純粋なキリスト教信仰にとっては無意味であるという判断が
そこから出てくるわけです。
・・・そこで「史的イエス」の「内容」ではなく「事実」だけが
信仰にとって必要であるという奇妙な結論に導かれてしまうわけです。
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Labo/1595/kanri-top.html