α〓〓マリア共同贖罪説でカルト化する旧教C〓〓ω

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952名無しさん@3周年:03/11/06 21:09
もし記念と記憶を排除するなら、聖書も存在してはいけません。
神以外のものは何も存在してはならなくなります。
そうなればこの世のものは何も存在してはならないという考えに
いたってしまうものです。
何も存在してはならなくなります。
953名無しさん@3周年:03/11/06 21:13
クリスマスは主の降誕の結果もたらされた異教への勝利の記念、
復活祭は主の死と復活の記念、というように
全ては記念と記憶によるものです。
それを理解できない人は全てをなくせばいいのです。
主の降誕と死と復活を記憶にとどめる意味もない
不要なものというなら、主の降誕と死と復活は
まったく意味のない出来事になるでしょう。
>>951
刻んだ像を作ってはいけません。

>>953
クリスマスは異教を取り込んだもの。異教への勝利ではなく、異教への妥協です。
復活を祝うことはよいことですが、なんでわざわざ異教の祭りを取り込んだ形で祝うの?
955名無しさん@3周年:03/11/06 21:22
>>951
>昔は写真という良いものがなかったもんで・・・。
951はプロテスタントですか?
カトはヴェロニカの聖骸布伝承
オーソはマンダリオン伝承
と「写真」相応のものを聖像による記憶のよりどころにしているのですが。
マンダリオンの画像はこちら↓
http://home.wanadoo.nl/cor.kroone/Ikonen/Ikonen_Galerij/Ikonen_Archief/Mandalion/mandalion.html
956名無しさん@3周年:03/11/06 21:28
>>954
>刻んだ像を作ってはいけません。
拝む目的の像ならね。拝むわけではないから。
>>956
いいえ、偶像崇拝につながるのでいけません。
958名無しさん@3周年:03/11/06 21:34
>>954
>クリスマスは異教を取り込んだもの。異教への勝利ではなく、異教への妥協です。
>復活を祝うことはよいことですが、なんでわざわざ異教の祭りを取り込んだ形で祝うの?
降誕祭も無害だから構わないのです。ミトラ教の神々のための祝いではなくキリストを称える目的の祝いなので。
もし、無害とかに関わらず、単に異教の形式という理由で否定するなら、
太陽暦を用いる復活祭も禁じるべきです。太陽暦は降誕祭の8日後の割礼祭を元旦として計算した春分を基準に祝ってますので。
それに、あなた何時まで漢字や日本語を使用しているのですか。ヘブライ語と使いなさい。
959名無しさん@3周年:03/11/06 21:35
>>957
だから、拝んでないって。敬ってるの。
960アリウスの逆襲 ◆AMEN/5fCvA :03/11/06 21:39
>>958
いいえ、宗教に異郷の習慣を持ち込むのがいけないのです。
異教とは絶対に妥協してはいけません。

>>959
それでも刻んだ像を作っては駄目です。
961アリウスの逆襲 ◆AMEN/5fCvA :03/11/06 21:39
では、わたしたちはどのような「忌むべき事柄」を行ってはならないのでしょうか。

 それは「ほかの神々に従う歩み」です。
 わたしたちはそれを避けていなければなりません。
 神がそのようなことをわたしたちに求めておられるのはもっともなことです。
 神に逆らう悪魔サタンによって作り出された、偽りの神々に従いながら、どのようにしてわたしたちは神に従うというのでしょうか。

 神の忌み嫌われる、ほかの神々に従う歩みには、その神々によって考え出された、あらゆる異教の祝祭を祝うことが含まれています。
 たとえば、クリスマスを祝うこと、誕生日を祝うことが挙げられます。
 そういったものを、わたしたちは避けていなければならないのです。

 わたしたちはこのことを覚えておくことにしましょう。

 わたしたちにとって、クリスマスの祝いや、誕生日の祝いは、絶対に必要なものなのでしょうか。
 いいえ、そのようなことはありません。
 それがなかったからといって、わたしたちの命になにか重大な危機が訪れるということはありませんし、生活に特別な支障が生じるということもありません。

 では、代わりになるものについてはどうですか。
 わたしたちの行うパーティーは、常にクリスマスや誕生日の祝いでなければならないのでしょうか。
 クリスマスや誕生日の祝いでなければ、わたしたちはみんなで集まって楽しんだり、ケーキを食べたりしないのでしょうか。
 いいえ、そうではありません。
 クリスマスと誕生日のパーティーや、ケーキに代わるものはいくらでもあります。
 そのようなものがなくても、わたしたちは同じものを別の方法で楽しむことができるのです。
962アリウスの逆襲 ◆AMEN/5fCvA :03/11/06 21:41
 では、そのような些細な事柄のために、より重要な事柄である「エホバの言葉によって生きること」をわたしたちは後回しにするでしょうか。

 聖書は「人は、パンだけによらず、エホバの口から出るすべてのことばによって生きなければならない」と述べています。

 わたしたちにとって、神の言葉は生きていくための必要物なのですから、いくらでも代わりのものがあるような、そ
 れがあってもなくてもどうでもよいような事柄のために、神の言葉を退けたりしないようにしましょう。
 そして、忌むべき事柄のために神が諸国民を滅ぼされるとき、わたしたちがそれらの人たちと共に滅ぼされてしまうことのないようにしましょう。

 そうです、この教訓を、イスラエルの人たちは実に衝撃的な仕方で学ばされたのです。
 それはイスラエルが、ちょうど今のわたしたちに当てはめれば、クリスマスや誕生日を祝うというような事柄を、何の良心の呵責もなく行っていたからなのです。
963アリウスの逆襲 ◆AMEN/5fCvA :03/11/06 21:42
 パウロはそのことをこのように述べています。

 「兄弟たち、あなた方に知らずにいて欲しくないことですが、わたしたちの父祖はみな雲の下にあり、みな海の中を通り、みな雲と海とによってモーセへのバプテスマを受けました。
 そして、みな同じ霊的な食物を食べ、みな同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らはいつも、自分たちに付いて来た霊的な岩塊から飲んだのです。
 その岩塊はキリストを表わしていました。それにもかかわらず、彼らの大多数に対して、神はご自分の是認を表明されませんでした。彼らは荒野で倒されたのです」。

 「さて、これらの事はわたしたちに対する例となりました。それは、わたしたちが、彼らが欲したように害になる事柄を欲する者とならないためです。
 また、彼らのうちのある者たちのように、偶像を礼拝する者となってはなりません。「民は腰を下ろして食べたり飲んだりし、また立ち上がって打ち興じた」と書かれています」。

 「さて、これらの事は例として彼らに降り懸かったのであり、それが書かれたのは、事物の諸体制の終わりに臨んでいるわたしたちに対する警告のためです。
 それで、立っていると思う人は、倒れることがないように気をつけなさい。
 人に共通でない誘惑があなた方に臨んだことはありません。
 しかし、神は忠実であられ、あなた方が耐えられる以上に誘惑されるままにはせず、むしろ、あなた方がそれを忍耐できるよう、誘惑に伴って逃れ道を設けてくださるのです」。

 「ですから、わたしの愛する人たち、偶像礼拝から逃げ去りなさい」。(コリント第一 10:1-7,11-14)

 パウロは、イスラエルの民が「腰を下ろして食べたり飲んだりし、また立ち上がって打ち興じた」と指摘しています。

 パーティーを開いて、食べたり飲んだりする事自体はまったく悪いことではないのに、なぜこのことが問題になったのでしょうか。
 それは、その行為が偶像崇拝の一環として行われたからです。
964アリウスの逆襲 ◆AMEN/5fCvA :03/11/06 21:43
パウロはこの言葉を出エジプト記 32章から引用しました。
 では、そこを調べて、イスラエルの人たちがどのような間違いを犯したのかを見てみましょう。

 それは、イスラエルがエジプトから脱出し、モーセが二枚の書き板をエホバから受け取っていたときの出来事でした。

 「シナイ山の上で彼と話すことを終えると、神は証の書き板二枚をモーセにお与えになった。神の指によって書き記された石の書き板であった」。
965アリウスの逆襲 ◆AMEN/5fCvA :03/11/06 21:45
 「ところで民のほうは、モーセが山から下りて来るのに長くかかっているのを見た。それで民はアロンの周りに集合して、こう言った。
 「立って、わたしたちの前を行く神を作ってください。わたしたちをエジプトの地から導き上った人であるこのモーセについては、彼がどうなったのか全く分からないからです」。
 するとアロンは彼らに言った、「あなた方の妻、息子や娘の耳にある金の耳輪を外し取って、わたしのところに持って来なさい」。
 それで民はみなその耳にあった金の耳輪を外し取って、それを次々にアロンのところに持って来た。
 そこで彼は人々の手からその金を受け取り、それを彫り道具で形造って子牛の鋳物の像に仕上げた」。

 「すると彼らは言いだした、「イスラエルよ、これがあなたをエジプトの地から導き上ったあなたの神だ」」。

 「アロンはこれを見て、その前に祭壇を築きはじめた。最後にアロンは呼ばわって言った、
 「明日、エホバへの祭りがある」。それで次の日、人々は早くから起き、焼燔の捧げ物をささげ、また共与の犠牲を供えはじめた。そののち民は腰を下ろして食べたり飲んだりし、また立ち上がって打ち興じた」。

 「その時エホバはモーセに言われた、「さあ、下って行きなさい。あなたがエジプトの地から導き上ったあなたの民は滅びとなることを行なったからである。
 彼らは早くも、わたしが命じた道からそれた。自分たちのために子牛の鋳物の像を作り、それに身をかがめ、犠牲をささげては、『イスラエルよ、これがあなたをエジプトの地から導き上ったあなたの神だ』と言っている」。

 「エホバはなおもモーセに言われた、「わたしはこの民を見たが、見よ、これはうなじのこわい民である。
 ゆえに今、わたしのなすままにし、わたしの怒りが彼らに対して燃え、わたしが彼らを滅ぼし絶やすにまかせよ。そして、あなたを大いなる国民となさせよ」。(出エジプト 31:18-32:10)

 このとき、もしモーセが自らエホバに願い出て、取りなしを行わなければ、神はイスラエルをほんとうに根絶やしにしていたことでしょう。
966名無しさん@3周年:03/11/06 21:45
>>960
>それでも刻んだ像を作っては駄目です。
じゃあ、刻まない正教ならいいんだ。近々正教に変わろうと思ってるし。
967名無しさん@3周年:03/11/06 21:47
>>960
>いいえ、宗教に異郷の習慣を持ち込むのがいけないのです。
>異教とは絶対に妥協してはいけません。
それなら、太陽暦も駄目ね。ユダヤ暦にしなさい。
漢字も使っちゃ駄目。
968アリウスの逆襲 ◆AMEN/5fCvA :03/11/06 21:47
続いてこう記されています。

 「それでモーセは自分の神エホバの顔を和めようとしてこう言った。
 「エホバよ、なぜあなたの怒りは、大いなる力と強いみ手とをもってエジプトの地から携え出されたご自分の民に対して燃えなければならないのでしょうか。
 どうしてエジプト人が、『あれは悪意をもって彼らを連れ出し、山の中で殺して地の表から滅ぼし絶やそうとしたのだ』などと言ってよいでしょうか。
 燃えるみ怒りから離れ、あなたの民に臨む災いを思い返してくださいますように。あなたの僕アブラハム、イサク、イスラエルを思い出してください。
 あなたはご自身にかけて彼らに誓われ、『わたしはあなた方の胤を殖やして天の星のようにし、わたしが指定したこのすべての土地をあなた方の胤に与え、定めのない時に至るまで彼らが確かにそれを所有するようにする』と言われたのです」。
 「するとエホバはご自分の民に下すと言われた災いについて悔やまれるようになった」。(出エジプト 32:11-14)
 しかし、エホバの手による偉大な奇跡を見、こうしてエジプトから救出されたばかりのイスラエルが、どうしてすぐに、このような罪を犯すようになってしまったのでしょうか。

 それは、彼らの考え方にありました。
 神の忌み嫌われる偶像を作ったとき、彼らはこう言いました。
 「イスラエルよ、これがあなたをエジプトの地から導き上ったあなたの神だ」。
 また、アロンはこう述べています。
 「明日、エホバへの祭りがある」。
969アリウスの逆襲 ◆AMEN/5fCvA :03/11/06 21:47
 これは、クリスマスに関する現代のキリスト教世界の考え方に似ています。
 キリスト教世界の人々は、クリスマスがかつては異教の祝祭であったことには異議を唱えませんが、このように言います。
 「わたしたちは、もともとは異教の祭りだったものにキリスト教の祭りの意味を加えたのです」。
 「ですから、今ではクリスマスはキリスト教の祝いなのです」。
 「神は寛大な方ですから、わたしたちがクリスマスの祝いを執り行うことを喜んでおられます」。

 イスラエルの人たちは、これと同じ考え方をしていたのです。

 では、なぜイスラエルの人たちはこのようなゆがんだ考え方に染まってしまったのでしょうか。
 それには、イスラエルの人たちが、長年エジプトに奴隷として住んでいたことが大きく関係しています。

 簡単に言うと、イスラエル人たちは、エジプトに住み、エジプトでの生活を営んでいるうちに、エジプトで見聞きするものに慣らされてしまったのです。
970アリウスの逆襲 ◆AMEN/5fCvA :03/11/06 21:48
 出エジプト記 5章1節のところで、モーセがファラオに最初に要求した事柄からも分かるように、ファラオはイスラエル人がエホバを自由に崇拝することを許してはいませんでした。
 一方、エジプト人たちは自分たちの神を自由に崇拝していました。

 ですから、自分たちが自由にエホバを崇拝できるようになることは、イスラエル人にとっては長年の悲願でした。
 屈辱の日々が終わって、自由にエホバが崇拝できるようになったとき、彼らはエジプトで見聞きするものに慣らされていたため、エジプトの人たちのする方法でエホバを崇拝しようとしたのです。
 そして、彼らは失敗しました。

 ですから、パウロが、このイスラエルの失敗を引用しつつ、次のようにわたしたちを諭しているのももっともなことです。

 「偶像にささげられた食物を食べることについてですが、わたしたちは、偶像が世にあって無きに等しいものであること、また、神はただひとりのほかにはいないことを知っています。
 多くの「神」や多くの「主」がいるとおり、天にであれ地にであれ「神」と呼ばれる者たちがいるとしても、わたしたちには父なるただひとりの神がおられ、この方からすべてのものが出ており、わたしたちはこの方のためにあるのです。
 また、ひとりの主、イエス・キリストがおられ、この方を通してすべてのものがあり、わたしたちもこの方を通してあるのです」。

 「しかしながら、すべての人にこの知識があるわけではありません。ある人々はこれまで偶像に慣れてきたので、偶像に対する犠牲の捧げ物として食物を食べ、こうして彼らの良心は弱いために汚されます」。

 「さて、兄弟たち、あなた方に知らずにいて欲しくないことですが、わたしたちの父祖はみな雲の下にあり、みな海の中を通り、みな雲と海とによってモーセへのバプテスマを受けました。
 そして、みな同じ霊的な食物を食べ、 みな同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らはいつも、自分たちに付いて来た霊的な岩塊から飲んだのです。
 その岩塊はキリストを表わしていました。それにもかかわらず、彼らの大多数に対して、神はご自分の是認を表明されませんでした。彼らは荒野で倒されたのです」。
971名無しさん@3周年:03/11/06 21:49
>>969
太陽暦を使うのもやめなさい。ユダヤ暦を使わないと。
ニサン月の十四日の日没後にペサハを祝うようにとあるでしょ。
972アリウスの逆襲 ◆AMEN/5fCvA :03/11/06 21:50
 「これらの事はわたしたちに対する例となりました。それは、わたしたちが、彼らが欲したように害になる事柄を欲する者とならないためです。
 また、彼らのうちのある者たちのように、偶像を礼拝する者となってはなりません。「民は腰を下ろして食べたり飲んだりし、また立ち上がって打ち興じた」と書かれています」。

 「これらの事は例として彼らに降り懸かったのであり、それが書かれたのは、事物の諸体制の終わりに臨んでいるわたしたちに対する警告のためです。
 それで、立っていると思う人は、倒れることがないように気をつけなさい」。

 「人に共通でない誘惑があなた方に臨んだことはありません。
 しかし、神は忠実であられ、あなた方が耐えられる以上に誘惑されるままにはせず、むしろ、あなた方がそれを忍耐できるよう、誘惑に伴って逃れ道を設けてくださるのです。
 ですから、わたしの愛する人たち、偶像礼拝から逃げ去りなさい」。

 「あなた方はエホバの杯と悪霊の杯を共に飲むことはできません。「エホバの食卓」と悪霊の食卓に同時にあずかることはできないのです」。(コリント第一 8:4-7, 10:1-7, 11-14, 21)
973アリウスの逆襲 ◆AMEN/5fCvA :03/11/06 21:50
このことの意味を考えてください。

 わたしたちはみな、水と聖霊により、かつてモーセによって表された岩塊である、キリストへのバプテスマを受けました。
 そしてわたしたちはみな、同じ霊的な食物を食べ、同じ霊的な飲み物を飲みました。

 しかし、わたしたちすべてに偶像に関する知識があるわけではないので、ある人たちは、この世で見聞きするものに慣らされてしまった結果、よく考えることもなく偶像崇拝に荷担してしまうのです。

 しかし、そのような誘惑は「人に共通の誘惑」でであり、決して特別なものではありません。
 神は、わたしたちがそれを忍耐できるよう、聖書に記された、イスラエル人の失敗の教訓という「逃れ道」を設けてくださいました。

 ですからわたしたちは、「立ってると思いつつ倒れる」ことのないようにしなければなりません。
 偶像崇拝は、「自分は立派な信仰を持っている」と考える人たちを陥れるため、サタンによって用いられている巧妙な罠なのです。

 では、わたしたちも、パウロの薦めと調和して、再び次のことを覚えておくことにいたしましょう。

 わたしたちは、クリスチャンとしての清い立場を守るために、クリスマスや誕生日といった、異教の習わしを退け、それを祝いません。
 時にそれは、わたしたちにとって誘惑となります。
 それを退けるとき、わたしたちは苦しむことさえあります。
 わたしたちは学校で、あるいはほかの場所で、このような状況に直面するかもしれません。

 しかし、そのような時わたしたちは、イエスの言われた、「人は、パンだけによらず、エホバの口から出るすべてのことばによって生きなければならない」という言葉を思い起こすことができます。
 そして、より重要な「神の言葉によって生きること」を、それよりも些細な事柄のためにやめてしまわないようにすることができます。

 そうです、そうするとき、確かに、神はわたしたちが耐えられる以上に誘惑されるままにはせず、わたしたちがそれを忍耐できるよう、誘惑に伴って逃れ道を設けてくださっているのです。
974名無しさん@3周年:03/11/06 21:51
>>970
ソロモン王は神殿に鋳物のケルビムを置きましたよ。
牛の像も造って置きました。聖書が間違っているのね。
975名無しさん@3周年:03/11/06 21:51
>>970
結局エホ症の知識から逃れられないわけでしょ?
浄土真宗では救われないのでは?
976アリウスの逆襲 ◆AMEN/5fCvA :03/11/06 21:51
>>966
過去ログくらい嫁や。

>>967,>>971
へー、漢字とか太陽暦って「宗教」だったんだ。
977名無しさん@3周年:03/11/06 21:52
>>973
あなたこそ考えたら?復活祭も止めなさい。
漢字を使うのもやめなさい。
978名無しさん@3周年:03/11/06 21:52
アリウスの逆襲の脳内理論:
大前提>異教とは絶対に妥協してはいけません。
小前提 「アリウスの逆襲」は異教徒(=浄土真宗:自称)
結論  アリウスの逆襲とは妥協してはいけない

どうしてそんなにキリスト教徒に構ってほしいのだろうか。
979アリウスの逆襲 ◆AMEN/5fCvA :03/11/06 21:53
◆詭弁封じ◆
@青銅の蛇やケルビムは神の命令によって作ったものです。神が「マリヤの像を作れ」と命令したことはありません。神が「マリヤ崇敬をせよ」と命じたこともありません。興味深いことに、青銅の蛇は後に偶像化し、ヒゼキヤ王に破壊されています。第二列王記1〜7節
聖書が一貫して偶像を禁じている以上、神が特別に命じない限り、それを作るべきではありません。
A「神殿に向かってひれ伏して良いのだから、マリヤ崇敬をしても良い」という主張は詭弁です。神殿に向かってひれ伏すことは、神に向かってひれ伏すことと同じです。イザヤ6章1節
※神殿の形の偶像を作って拝んだら、偶像礼拝には違いありません。
B「礼拝ではなく、崇敬をしているのだから良いのだ」という主張は自己満足の詭弁に過ぎません。実際に、ローマ法王が手を合わせてマリヤ像を拝んでいます。カトリックのマリヤ崇敬は偶像礼拝です。
又、人の思いと心を探る方に「礼拝ではなく、崇敬をしていたのだ」と言っても通用しません。黙示録2章23節
C「マリヤを崇敬している、悪霊を崇敬していない。従って、悪霊と交わることはない」という詭弁に対して。
死者の霊は天国か地獄に行くのであり、生きている人間に影響を与えることはできません。三位一体の神の他、人間に影響し得る霊的存在は御使いだけです。
偶像礼拝(死人礼拝も含む)をすれば、神に背いた御使いである悪霊と交わることになります。第1コリント10章20節
従って、マリヤ崇敬は悪霊と交わることです。
980アリウスの逆襲 ◆AMEN/5fCvA :03/11/06 21:55
>>977
「異教徒の主張に耳を貸すな」ではなく、「異教の習慣を取り込むな」という意味ですが何か?
981名無しさん@3周年:03/11/06 21:55
>>976
太陽暦が宗教でなかったら、降誕祭の日程そのものは宗教とは関係ないですよ。
暦が変われば当然降誕祭の日も変わるんだから。何時祝ってもも問題ないでしょ。
たまたま、グレゴリウス暦の12月25日に祝ってるだけ。
982名無しさん@3周年:03/11/06 21:56
>>980
信仰に関わる習慣は取り込むべきではないですね。
キリストの降誕をいつ祝おうが構わないでしょ。
983アリウスの逆襲 ◆AMEN/5fCvA :03/11/06 21:57
>>981,>>982
いいえ、「たまたま」ではなく、明らかにミトラ教の習慣を取り込んだものです。
984名無しさん@3周年:03/11/06 21:58
>>983
ミトラ教とは限らないわよ。
終い天神の日かもしれないし。w
985名無しさん@3周年:03/11/06 22:00
>>983
結局エホ症の知識から逃れられないわけでしょ?
浄土真宗では救われないのでは?

986名無しさん@3周年:03/11/06 22:01
何時祝えば、異教と無関係だと言えるのかしら。
毎日が何らかの記念日になってるけど。w
http://www.nnh.to/
987名無しさん@3周年:03/11/06 22:04
神道はユダヤ教とか言ってたわね。
終い天神の日なら文句は言えないでしょ。w
988アリウスの逆襲 ◆AMEN/5fCvA :03/11/06 22:22
>>984
歴史的にミトラ教を取り入れたことは明らか。

>>986
異教の祭りの日に祝うからいけないのではなくて「取り入れたから」いけないのです。
989名無しさん@3周年:03/11/06 22:25
>>988
だから、12月25日を祝うのは、異教を取り入れる目的ではなく、
単にキリストを称えるのが目的なんですが。
990名無しさん@3周年:03/11/06 22:30
12月25日を祝うだけで、ミトラ教の神を礼拝することになるの?
あまつかみを祝うことにもなるんだ。神道はユダヤ教だからいいんじゃなかった?
991アリウスの逆襲 ◆AMEN/5fCvA :03/11/06 22:30
>>989
たしかにキリストを称え、祝っていますが異教の習慣を取り入れています。
それがいけないことは上で述べました。
992アリウスの逆襲 ◆AMEN/5fCvA :03/11/06 22:32
>>990
ミトラ教の習慣を取り入れたからいけないんです。

こういう書き込みは今後無視します。
確信犯(間違った意味での)的な論点のごまかしだからです。
993名無しさん@3周年:03/11/06 22:32
>>991
漢字を使うのも異教の習慣の取り入れに変わりありませんが。
994名無しさん@3周年:03/11/06 22:34
>>992
だから、異教の習慣の取り入れというだけで文句があるなら、
漢字も使えないくなるでしょ。ましてや「神」なんて言葉を使っては駄目ね。
995名無しさん@3周年:03/11/06 22:36
12月25日は駄目で、エロヒムを「かみ」って呼ぶ習慣は何故かまわないの?
996アリウスの逆襲 ◆AMEN/5fCvA :03/11/06 22:37
>>993-995
これも論点の誤魔化し。>>960参照。
997名無しさん@3周年:03/11/06 22:38
天主も駄目ですよ。「天(てん)」という漢字が仏教用語として使われているから。
998名無しさん@3周年:03/11/06 22:39
>>996
結局エホ症の知識から逃れられないわけでしょ?
浄土真宗では救われないのでは?


999名無しさん@3周年:03/11/06 22:41
>>996
だから、宗教に異郷の習慣を持ち込むのは駄目なんでしょ。
エロヒムを「かみ」って呼ぶのも、「てん主」って呼ぶのも異教の習慣の取り込みです。
あなたは何を称えるか、その目的には無関係に禁じるつもりなんでしょ。
エロヒムはエロヒムと呼びましょう。
1000アリウスの逆襲 ◆AMEN/5fCvA :03/11/06 22:41
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テングリ=エホバ
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