932 :
名無しさん@3周年:2005/05/31(火) 23:57:15 ID:A/wRvJBx
>>929 919です。まあ、私としても一生懸命説明したつもりですが、駄目なようですね。
もうやめようかと思いましたが、「ひょっとする」ことは、まずないということをもう一度、詳し〜く説明しましょう。
(どうも誰も手伝ってくれないみたいなので・・・。揚足は取るくせにね)
少々長〜いですが、よ〜く読んでね。
この『聖書と易学』という本は「西洋史、キリスト教史の常識を覆す問題作!」
「欧米などのエリートたちは、ひとたび本書の内容を知れば、自身の文化に深い失望感を抱くことだろう。」とのことですが、
ひとたび本書の内容を知れば、著者の「西洋史、キリスト教史」理解の貧しさに笑いがこみ上げてくるという類のものでしょう。
問題作は問題作ですが、「常識を覆す」のではなく、「非常識な」「常識からかけ離れた問題作」と言った方が適切です。
これから、常識から見たら、ありえないトンデモ本だということを説明させていただきます。
まずその前に、誤解があるかと思いますので、補足しますと死海写本の書かれた年代についてC14と書体学の成果として
推定されている事を紹介しましたが、それと旧約各編の成立年代とはまた別の話です。誤解のないようにお願いします。
933 :
名無しさん@3周年:2005/05/31(火) 23:57:48 ID:A/wRvJBx
(続き)
1.891さん曰く。「一人の人物が編集長となり、各編を数人で分担して執筆し、それぞれの方言で書いた・・・。」
「へぇ〜・・・・」
ではなく、ガセビアです。沼に沈めてください。 ・・・・「うそつき!」・・・になりますのでご注意ください。
まずありえないし、そもそもここで言っている書体学というのはヘブライ語やアラム語の歴史的発展過程の中から、
その文字が書かれた年代を推定していくもので、筆跡を鑑定するというわけではありません。
(930さんは何か勘違いされているようですね。)
したがって「分担して書く」とか「方言とか」、といったものと違う次元のものです。
「各編を数人で分担して執筆し、それぞれの方言で書いた」としても分担して書いたその年代が推定されるだけの話です。
「一人の人物が編集長となり、各編を数人で分担して執筆し、それぞれの方言で書いた・・・」などとは、
さすがに著者もそこまでは言っていないのではないですか?
もしそうならAD300年以前には聖書は存在しなかったのですか?
70人訳聖書はどうなの?
という話になります。とにかくありえない話です。
934 :
名無しさん@3周年:2005/05/31(火) 23:58:14 ID:A/wRvJBx
(続き)
2.聖書の写本は、『聖書と易学』が「易学による再構成があった」と主張する4世紀ですら、エジプト、シリア、ギリシャ、ローマ世界
に広く分布されています。写本は、それぞれの教会や修道院などで書き写されながら、伝えられていったものです。
これら地域のすべての筆写者を監視するためには、巨大な易者グループのネットワークが必要になります。
もしそうなら一大事件として、世界史の教科書に絶対に載ります。しかし、そんなものはなかったし、ありえない話です。
新約聖書27巻が正式に正典化されたのは4世紀です。正典化される前なので、2世紀頃の写本と4世紀以後の写本は違う部分もあります。
旧約聖書に違いがないことばかり強調するのは、都合のいいところを強調していると言われそうなので、
(旧約聖書でも現在の旧約聖書とBC3世紀に成立した70人訳ではたくさん違うところがあります。)
新約聖書について言えば、写本に多少の違いがあることは認めます。
しかしその違いが、易学によるものなのでしょうか?
(もっとも300年ごろ、「一人の人物が編集長となり・・・」だと、4世紀以前の写本は存在しない事になりますが、
また「年代が」なのでしょうか? 逆に「一人の人物が編集長となり・・・」だと写本に違いがあったらおかしくなりますね)
935 :
名無しさん@3周年:2005/06/01(水) 00:13:02 ID:06L0hkV3
(続き)
違いの多くは、福音書の「復活」に関するものです。「復活」についての記述は、一番古いパウロ書簡(テサロニケT4章14節)にも
ありますので、キリスト教初期の段階で教義化されていることがわかりますが、古い福音書の写本には「復活」に関する記述がない
ものが多数存在し、本文として確定されているものがほとんどないというのが実情です。(ほとんど後世の加筆ではないでしょうか)
他におもしろい違いは、ヨハネによる福音書の中の「罪の女」が、ルカによる福音書の中に挿入されいるといったものもあります。
(あの部分は文体をみても明らかにヨハネのものではなく、前後関係からも異質です。本当はルカのものだった可能性があります。)
その他パウロ書簡にも違いは見られます。(F.ケニヨン『聖書の生いたち』増補・改訂版 山本七平訳 山本書店 参照)
しかし、これらの違いが易学との関係に由来していると考えるのは妄想というものでしょう。易学でこの違いを説明しいてる
のでしょうか。できるのでしょうか。そもそも著者は、この違いを知っているのでしょうか。
著書には、この違いに対する言及はあるのでしょうか。言及がなければ知らないのだと思います。
まして旧約聖書の正典は、1世紀末から2世紀初めにかけてのヤムニア会議で確定しています。旧約聖書に関しては介在する余地は
まったくありません。(300年ごろまで聖書は存在しなかったと想像されるのは自由ですが、それは妄想です(笑)。)
新約聖書の正典を選ぶ際に易者が加わって、『トマスによる福音書』は「凶」、『ヨハネによる福音書』は「吉」とか、
占いでもやったと考える事はできるかもしれませんが(・・・ありえねえ〜!(笑 笑 笑 笑 笑 笑 笑 笑 笑 笑・・・))、
そんなことがあったら、歴史に残るでしょう。まあ、「常識」というものを働かせて考えるべきです。
巨大な易者グループのネットワークの存在が書かれた世界史の教科書があったら教えてください。
(もっとも、教科書検定で不合格になると思いますが)
新約聖書の正典は易学によって選択されたという歴史書があったら教えてください。
(あったらトンデモ本として「と学会」に推薦ですね)
くどいようですが、「常識」というものを働かせて考えるべきです。
936 :
名無しさん@3周年:2005/06/01(水) 00:14:34 ID:06L0hkV3
(続き)
3.それから、聖書は数多くの矛盾を含んだ書物です。一例をあげると、創世記の1章では最後に人間が作られているのに、
2章では先に人間が作られ、そのあとに、動植物が創造されています。(創世記の1章は祭司資料、2章はヤハウェ資料)
モーセの妻の父の名前はリウエルと書いてあったり(出エジプト記2章18節、ヤハウェ資料)、
エテロと書いてあったり(出エジプト記3章1節、エローヒーム資料)、イエスの系図もマタイとルカでは全然違います。しかも
マタイは「バビロンへ移されてからキリストまでは十四代である。」(1章17節)と書いてありますが、数えてみると13代しかありません。
また、マタイは「ユダの地、ベツレヘムよ、おまえはユダの君たちの中で、決して最も小さいものではない。おまえの中から
ひとりの君が出て、わが民イスラエルの牧者となるであろう」(2章6節)とミカ書5章2節の言葉を引いていますが、実際ミカ書では、
「しかしベツレヘム・エフラタよ、あなたはユダの氏族のうちで小さい者だが、イスラエルを治める者があなたのうちから
わたしのために出る。その出るのは昔から、いにしえの日からである。」となっており、「小さい者だが」→「小さいものではない」
と意味が変わっています。(「信仰的」表現? まあ、明白な改竄でしょうね。)聖書には、こういう例は山ほどあります。
特に、「これは笑える」と思うトリビアを紹介しますと、ガデのゴリアテはサムエル記上17章48〜51節でダビデに殺されていますが、
いつのまにかゾンビのごとく「復活?」してサムエル記下21章19節でエルハナンによってもう一度殺されているのです。
(「ゴリアテは・・・・・・・・・・・・・・・・・2度殺されている」80へぇ〜ぐらいはいきますかね? )
サムエル記には、同一人物かどうかは書いてありませんが(歴代誌上20章5節では「ゴリアテの兄弟ラミ」と記述が変わっています)、
ここから伺えるのは、もともとは、エルハナンの話が後年、神話化された英雄ダビデの伝説として附加された可能性が高いということ
です。「手柄は英雄に帰す」ということでしょう。
(この手の話は、聖書の言葉を一切疑わない狂信的信者の前では話さない方がいいかもしれませんね)
937 :
名無しさん@3周年:2005/06/01(水) 00:22:42 ID:06L0hkV3
(続き)
このように聖書は明らかに複数の資料から成り立っているので、このような矛盾が多数あります。また矛盾が存在するまま後世に残
っているものだから価値があるともいえます。
ゴリアテが2回殺されているという矛盾があるからこそ、そこが手がかりになるわけです。
矛盾を編集して、消してしまったり、隠してしまったりしていたら、真実には迫れなくなります。改竄と思える記述も、それがそのまま
記録として残ったことが貴重なんです。そこから当時の人々がどう考えていたのかに迫れるのです。一見馬鹿げているような奇跡の
物語も、馬鹿げていると編集して隠してしまったりするより、それが記録として残されている事に価値があるのです。
聖書を全部通読してみれば、聖書が合理的な書物ではないことがわかるはずです。
だから説明がつきにくいことも多数あります。しかし、それが正しいのです。なんでも合理的に説明がつく方が間違っているのです。
「一人の人物が編集長となり、各編を数人で分担して執筆し」ていたらもっと「合理的」で「整合性」のあるものになるでしょう。
しかしそうはなっていない。
そういったことからも「一人の人物が編集長となり、各編を数人で分担して執筆し・・・」などというのはありえないと断言できます。
(カルトになればなるほど合理的に説明がつくとか、聖書には矛盾がないなどと言いますので、そういう話には注意が必要です)
938 :
名無しさん@3周年:2005/06/01(水) 00:23:19 ID:06L0hkV3
(続き)
4.私はこの本読んでおらず、目次をネットで見ただけなのですが(失礼ながら、目次だけでアホらしくなります)、
少し常識的なことを述べておきます。
「イエスの誕生年=西暦元年は、易学の論理で『革命の年』に設定された」そうですが、以前書いたように、西暦は6世紀になってか
らエクシグウスによって計算されたもので、しかも16世紀ぐらいまで定着していませんでした。300年ごろに易学の論理・・・という
のはありえません。あったら歴史に残ってますよ。
クリスマスが12月25日なのは、古代ローマの冬至の祭りの日付に由来するのであって、易学的意義があるとは、キリスト教史の
常識を多少なりとも知っている人からみたら、ギャクの類にしか思えません。
古代ローマでは12月25日が冬至とされており、また当時キリスト教とライバル関係にあったミトラ教では、不滅の太陽の誕生を
祝う日でした。冬至を境に日が長くなるため、冬至が太陽の誕生日だったわけです(イエス・キリストの誕生日ではありません)。
4世紀の宗教会議で12月25日がクリスマスと決められ、ミトラ教の不滅の太陽の誕生日がキリストの生誕を祝う日に置き換わった
わけです。この宗教会議に易学者が加わって、大安吉日でも選んだのでしょうか? まあ、常識で考えた方がいいと思います。
キリスト教は、ライバル宗教やローマの習俗と習合、あるいはこれらを取り込む事によって、ローマの国家宗教へ発展したわけです。
古代ローマで、易学が習俗としてあったという話は、寡聞にして聞いた事がないし、そのないものと習合したり、ないものを
取り込むなどという事は考えられませんし、不可能です。(巨大な易学者のネットワークが本当にあったのなら別ですが)
これが常識というものです。
939 :
名無しさん@3周年:2005/06/01(水) 00:28:33 ID:06L0hkV3
(続き)
処女懐胎説について言えば、パウロ書簡ではマリアについてまったく述べられていません。つまり初期のキリスト教では
マリアは崇拝の対象にすらなっていません。処女懐胎説にいたってはなおさらです。
マリア崇拝も処女懐胎説も後年になって生まれたものです。
マタイは「見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。その名はインマヌエルと呼ばれるであろう」(1章23節)というイザヤ書
(7章14節参照)の言葉を引用しています。
新約聖書の旧約聖書からの引用はほとんど70人訳からのもので、マタイの引用も70人訳からの引用です。
(300年ごろ「一人の人物が編集長となり、各編を数人で分担して執筆し」だと、70人訳自体が存在しない事になりますが、・・・
・・・・そんなアホな!)
このマタイの引用部分はヘブライ語からギリシャ語に翻訳する際に誤訳があり、処女懐胎説はそこに由来するというのが通説です。
誤訳とは、ヘブライ語聖書のおとめ(アールマー)は単に若い女性を表す言葉ですが、これがギリシャ語の処女(パルティノス)と
訳されたことです。処女懐胎説は、それとヘレニズム世界の宗教や伝説との習合(シンクレティズム)によって発展したものでしょう。
以上が通常処女懐胎説の由来と考えられています。司馬遷『史記』のコピーというのは奇説というよりトンデモに属するもので、
到底考えられません。仮に『史記』に同じような話があったからといって、『史記』が起源と断言するのは不可解であり、
完全なトンデモです。
『トンデモ本の世界』(と学会編)という本には、「古代アメリカは日本だった。オハイオ州でおはよう」(笑)
なんて本が紹介されていますが、同じような話があるというだけで断定してしまうのは、その類の本です。
940 :
名無しさん@3周年:2005/06/01(水) 00:29:53 ID:06L0hkV3
(続き)
5.各章全部に批判を加えるのは大変なのでしませんが(中身を読まないとできないものもありますし)、
891さんの言う「キリスト馬小屋生誕、東方の三博士など、これまでの聖書学が曖昧のままにしてきた事柄・・・」
云々について少しだけ述べて終わりにします。
前述したように、「曖昧」な部分があってあたりまえで、「曖昧」な部分があるのが正しいのです。分からないことがあって
当たり前です。解決できない部分があるという態度が正しい態度です。
聖書に矛盾はないとか、聖書の矛盾はすべて解決できるとか、すべて合理的に解釈できると称する事が間違っています。
カルトであればあるほど、そう主張します。
「易学によって聖書の疑問はすべて解決する」と著者が言っているかどうかは知りませんが、似たようなことを主張しているなら、
それだけでおかしいと思います。カルトに近い主張だと思います。
聖書は複数の資料から成り立っており、書かれた年代もまちまちで、決して合理的で整合性のある書物ではないのです。そのため、
多くの矛盾が内包されており、合理的、一元的に解釈できたり、解決できるものではないのです。
891さんは「この本よりも説得力のある根拠が呈示されれば、そっちに靡く可能性は十分にあります。 」とのことですが、
これは「聖書の疑問はすべて解決できる」ということが、前提になっており、その観点から「説得力」があるという意味なら、
やめておいたほうがいいです。(余計なお世話かもしれませんが)
「世の中には合理的に説明できないものが多数ある」という当たり前の認識をもつことが大事です。
941 :
名無しさん@3周年:2005/06/01(水) 00:34:56 ID:06L0hkV3
(続き)
6.それから、聖書を読まれているなら(当然通読ぐらいされてますよね)ご存知かと思いますが、「東方の三博士」とは聖書には
書いてありません。
聖書には「博士たち」と複数の人々いたと記されているだけで、どこにも3人とは書いてありません。「宝の箱をあけて、
黄金・乳香・没薬などの贈り物をささげた。」(マタイ2章11節)というという記述、つまり贈り物が3つだったことから、
3人だろう信じられてきたという程度のものです。
著者が何のためらいもなく「東方の三博士」と3人と断定して話を進めているならば、この著者はあまり聖書を読んでいないのでは
ないでしょうか。
また、「そんなことは知っているよ」と言われそうですが、聖書には「キリスト馬小屋生誕」なんてどこにも書いてありません。
著者がイエスが馬小屋で生まれたと何の疑いもなく書いているのであれば、やはり聖書をよく知らないのではないかと思います。
聖書には「マリヤは月が満ちて、初子を産み、布にくるんで、飼葉おけの中に寝かせた。」(ルカ2章6〜7節)「羊飼たちは『さあ、
ベツレヘムへ行って、主がお知らせ下さったその出来事を見てこようではないか』と、互に語り合った。そして急いで行って、
マリヤとヨセフ、また飼葉おけに寝かしてある幼な子を捜しあてた。」(ルカ2章15〜16節)と記されいるだけで、「飼葉おけ」が、
馬のものとはどこにも書かれていないのです。
ちなみにベツレヘムのキリスト降誕教会の壁画は、馬ではなく、牛になっています。ヨーロッパのキリスト生誕を描いた絵画でも馬
ではなく牛とろばが描かれているケースが多数です。
イエス当時のユダヤはローマの支配下にあり、馬はほとんど軍馬として管理されていました。厩舎はほとんどローマ軍の施設で、
一般的ではありません。
http://www.ne.jp/asahi/art/dorian/Bible/BYoung/02Shepherds/02Shepherds.htm
942 :
名無しさん@3周年:2005/06/01(水) 00:35:50 ID:06L0hkV3
考古学者の関谷定夫氏によれば「聖書の中に出てくる『飼葉桶』は牛かろばの飼葉桶に限られている」
「聖書の本文の中には馬の飼葉桶は一度も出てこない」とのことです。
日本でイエスは馬小屋で生まれたという誤解は、明治初期の聖書の和訳の際に漢訳(中国語訳)の聖書を参考にした事だと言われていま
す。
漢訳聖書ではギリシャ語のファトネー(飼葉桶)が「馬槽」と訳されており、それを参考にして和訳聖書が作られたことに由来すると考
えられています。ちなみに中国語でマリアは「馬利亞」だったこともそれを補完したのではないかと考えられます。
(みるとすNo33 [声のひろば] 関谷定夫「日本におけるイエス馬小屋生誕伝説の起源」)
繰り返しますが、著者が何の疑いもなくイエス馬小屋生誕説を取り上げて、話を進めているならば、著者は、聖書または聖書学につい
て無知だと言えるのではないでしょうか。
943 :
名無しさん@3周年:2005/06/01(水) 00:39:24 ID:06L0hkV3
(続き)
7.これ以上説明するのは大変なので、最後に余計なお世話かもしれませんがアドバイスをします。
聖書に限らず、歴史関連の本でも、新説、奇説、新たな発見、新解釈、再解釈・・・といったものは次から次と生まれてきます。
そして、それらは次から次と消えていってしまいます。聖書と易学云々も数年後には消えていってしまうものでしょう。大事なのは、
そういったすぐに消費されてしまう新説奇説に飛びつくのではなく、消えずに残っているのも、今後も消えないもの、それは何か
ということに着目する事です。
消えずに残っているものは、長年の批判に耐えることができたものだからです(狂信によって残る場合もあるので注意が必要ですが)。
次に現れる新説奇説に靡いてしまう前に長年の批判に耐えられるもの、耐えてきたものは何かということを確認すべきでしょう。
その上で新説奇説を検証してみることだと思います。
もちろん、新説奇説を読むなと言っているのではありません。あくまで、仮説であることを前提しにして楽しむ事、そして事の
真偽を慎重に判断することが大事でしょう。
くどいようですが、飛びついて「これが真相だぁ〜」と力んで読むことは避けたほうがいいです(分かっているとは思いますが)。
(あまりにもトンデモ度の高いものは「いかに笑えるか」という視点で読んだ方が楽しめます。)
まあ、10年後「こんな本読んだっけ」と笑える日が来ると思いますよ。
以上
944 :
名無しさん@3周年:2005/06/01(水) 00:40:37 ID:06L0hkV3
P.S.
本当は、読んでから批判するべきでしょうが、読まずに批判しているので、見当違いだった部分もあるかもしれませんが、
その点はご容赦ください。(読んでから批判すれば、もっと的を得た批判ができるのでしょうが、やはり読む気にはならないので)
まあ、私に言わせると、「西洋史、ユダヤ・キリスト教史、聖書の常識を知る人が見れば、あきれたトンデモ本!」であり、
架空なのはイエスではなく、中国人易学者だというのが結論ですね。
あまりやりすぎると出版社から営業妨害と言われそうなのでこれで終わりにします。
(同意していただけないと思いますが、私なりに一生懸命説明したことはご理解ください。
あとは、このスレを読んだ人がどちらが正しいか判断されるだろうと思います。なお、引用した聖書は口語訳です。
引用部分が新共同訳とは章節が違っているところもあります。(ミカ書など))
*********** FIN *********** *********** FIN *********** *********** FIN ***********
945 :
891:2005/06/03(金) 22:14:51 ID:VtTYAjfP
>>932〜944
919さん、おつかれさまです。
詳しくご説明ありがとうございます。
常識を盾にすれば、おっしゃるとおりだと思います。
この本を面白いと思ったのは、逆にそういう常識を棚上げにして、論理を展開しているからなんです。
私も易学についてはあまりよく知らず、当初はあの独特の記号もナンノコッチャだったのですが、
その記号に基づく規則性が聖書の中にある、ということを見せつけられて、感動してしまったわけです。
神の啓示や古伝承ではなく、易学の規則によって聖書神話は作られていた、
というのがあの本の主旨で、そのことが痛快なわけです。
ゴッホの絵画に浮世絵の技法が使われていた、ということは、日本人としてなんか嬉しいですよね。
それと同じような感覚ですかね。
聖書作成には東洋の理論が密かに利用され、それを西洋では誰も気づかずに今日まで来ている、
ていうのが、なんだかワクワクするじゃないですか。
で、今の学問は常識の落とし穴にハマっているのだとしたら・・・、とも思ったわけです。
とにかく私としては、本の内容について、こういうことを言っている本だよ、って感想を交えて書いたまでです。
トンデモ本だとして相手にしない人がいても当然だし、
ひょっとすると、と思って興味をそそられる人がいてもいいじゃないですか。
ここで黒白をつける必要はないと思います。
なお、
938〜942に書かれた西暦とエクスグウス、処女懐胎、クリスマス、三博士、馬小屋などについては、
おっしゃるようなことは、あの本でもひととおり説明した上で、論理を展開しています。
そのことで著者の見識を疑うようなら、そういう誤解を与えた私が悪いのです。すいません。
ま、そういうことで、この話はこのへんで終わりにしましょう。
946 :
919:2005/06/05(日) 22:17:54 ID:XWu4MNwN
>>945 919
ま、意見は違いましたが、楽しく議論ができました。
今後のご健勝をお祈りします。
お元気で
947 :
Robert M. Price:2005/06/24(金) 23:40:31 ID:xMjPWZ1n
948 :
:2005/07/20(水) 06:33:52 ID:NP7jNll9
ローマ法王とかペテン師にしか見えない
950 :
名無しさん@3周年:2005/08/09(火) 07:48:48 ID:RPfDtu0b
イエスは目立ってユダヤ的でも、
またアーリア的でもなかった。
イエスの容貌は、「すっきりと整い
血色がよく、髪はダビデのように
金褐色、赤褐色であった。目は青く、
眼差しは射抜くようであった。ひげは
剃刀を当てられていないが、顔の輪郭に
釣り合っている。頭の形は欠点がない」
952 :
220:2005/08/14(日) 23:16:47 ID:ndObKh2W
953 :
名無しさん@3周年:2005/08/15(月) 07:19:40 ID:VHpGEukN
>>952 なーんかホームレスのおっさん、という顔だな、w
イエス・キリストの顔というより、イエス・キリストの時代の
イスラエル人の顔、というコメントも添えられてるけどね。
ヨセフの血は引いてないしね。
955 :
名無しさん@3周年:2005/08/15(月) 20:41:15 ID:/qFPML5L
チビでせむしの男、という外典の
伝承の方はどうなった?
956 :
:2005/08/31(水) 09:07:24 ID:Utl9nIoc
出川哲郎が冗談で聖人になっちゃったみたいなもんだろう。
聖書読んだけど大した器じゃない。
958 :
名無しさん@3周年:2005/09/08(木) 16:04:53 ID:6/4q51L0
聖書に出てくる「大工」という言葉は誤訳である。
ヘブライ語の「ナガー」が、ギリシア語の「ホ・テクトン」
を経て、英訳の「大工」となった。これらの言葉は、元来
「大工」を意味するものではなく、なんらかの技術に熟達
した者を示す言葉であり、教師や学者などもそのなかに
含まれていた
959 :
名無しさん@3周年:2005/09/14(水) 02:28:03 ID:zxQavZhv
“イエスはいます”わたしたちの心の中に♪
『架空の人物』ですけど、わたしたちの心の中にいます♪
心の中のイエス♪ 心の中の救い主♪
おーイエス♪ イエスは想像上の人物!
わたしたちは空想の賜物イエスを信じる♪ 救われた♪
妄想の子イエスに購われて♪ 妄想は現実を超えた♪
世界に広げよう♪ 妄想の輪♪
960 :
名無しさん@3周年:2005/09/14(水) 03:20:12 ID:pMmpDSYJ
心の中に住めるのなら、誰でも出来る。
問題は現実を変えられる力を持つかだ。
そう、力、権威。
力のない存在は誰しも認めんよ。
961 :
名無しさん@3周年:2005/09/14(水) 03:31:06 ID:pMmpDSYJ
>>959 さんに喧嘩を売っているんじゃありません。勘違いしないように。
962 :
:2005/10/24(月) 11:41:10 ID:VIbzenHi
963 :
名無しさん@3周年:2005/10/24(月) 12:49:33 ID:R6936U0z
水(バプテスマ)と血(十字架)、二つを一緒に信じて人は初めて救われる。
血(十字架)だけを信じても地獄に行くだけ。水(バプテスマ)と血(十字架)と御霊(イエスは神ということ、よみがえり)を信じよう。
あなたがこのように信じることは神の御心なのです。どうか真の福音により、救われてください。
964 :
名無しさん@3周年:2005/10/24(月) 12:51:30 ID:S25D5Tvz
現実に救われてなければ何を言っても(イエスの生き返りを主張)しても
何の意味もなかろう。
965 :
名無しさん@3周年:2005/11/04(金) 02:10:54 ID:ChbZn7Lo
救われるってどういうこと?
死後に救われるなんて言われても、それを証明する術はないし。
現世で虐げられている人が、クーデターとかを起こさないようにと、
気休めを与えてるだけじゃないの?
要するに、政府の息のかかった人間が作った民衆統治のためのおとぎ話でしょ。
イエス・キリスト
ノー・ポイ捨て
967 :
名無しさん@3周年:2005/11/04(金) 05:20:17 ID:EH914MNt
みなさん、知ってました?イエスは航空の人物だったんです。
おぉ、空とぶイエスッ!
流しのイエス♪
969 :
名無しさん@3周年:2005/11/05(土) 00:42:15 ID:QmLDYDWy
ナナシのイエス
970 :
名無しさん@3周年:2005/11/07(月) 00:52:38 ID:oy1I8Mwc
971 :
名無しさん@3周年:2005/11/07(月) 00:56:21 ID:oy1I8Mwc
972 :
名無しさん@3周年:2005/11/07(月) 00:58:59 ID:Tsg4EwK+
973 :
名無しさん@3周年:2005/11/07(月) 18:59:25 ID:XV1m5Qex
イエスの本名って誰か知ってる?
ぐぐったら又吉だった
975 :
名無しさん@3周年:2005/11/15(火) 22:14:37 ID:boW37DN7
イエスと言えば神の子羊
子羊と言えばラム
ラムと言えばジンギスカン
だったらナザレでジンギスカンの店やれば流行るかなあ
安息日には必ず休めるね。
977 :
sage:2005/11/16(水) 02:30:01 ID:6onymkJx
東京のYMCAの向かいとかで、ナザレ風ジンギスカンの店やれば?
↑下げるなら名前じゃなくメルアドにsageと入れる
ヨッシャア!
ヨイショっと・・・