★★★ † ペンテコステ派質問箱 † ★★★

このエントリーをはてなブックマークに追加
910chebicro (50歳/男性/広島市西区)
神様は光であられます。

役に立たぬ僕(注*人と比べたものではありません。)は・・・
外の暗闇に追い出され、泣いて歯軋ぎしりするのです。


マタイ伝25章14〜30参照・・・
1タラントを預かった僕・・・24節「ご主人さま。あなたは蒔かない所から刈り取り、
散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。・・・・中略
・・・・28節私はこわくなり、出て行って、あなたの1タラントを地の中に隠しておきました。
・・・・銀行に預けておけば利息がついて
・・・・だからそのタラントを彼から取り上げて、それを10タラント持っているものにやりなさい。


だれでも持っている者は与えられて豊かになり、
持たない者は持っているものまで取り上げられるのです。29節


*暗闇で歯ぎしり・・・極限の苦しみのことをいうのであります。


マタイ伝25:1-13
これは主イエスがエルサレム郊外オリーブ山において、この世の終わりの審判につき、
弟子たちにひそかに語られた後で、語られた譬話でありまして、
同じキリスト信者でありましても聖霊を受けた人と、受けていない人とは
いかに審判されされるかを示すに最も適切な譬話であります。
911chebicro (50歳/男性/広島市西区):04/01/26 20:44
この譬話を説明するためには、ユダヤにおける婚姻の風習を知らねばなりませんが、
ユダヤ人の婚姻はたいがい夕方から行なわれました。
まず新郎は彼の友達(実は媒酌者)数名を伴って新婦の家に行き、
そこで新婦をその両親から受け取る成婚の式を行なうのです。
それが済むと新郎は新婦を伴いまして、行列をつくって、自分の家に帰るのです。


それを新婦の友達(この譬話中の十人の処女)は、途中まで出迎え、燈火を灯して行列に加わり、
ともに新郎の家に入り、盛大な婚姻が開かれるのであります。
この婚姻は黙示録に「子羊の婚姻に招かれた者は幸いだ、と書きなさい。」とあるものと同じく、
キリスト御再臨の時、地上の教会は天に挙げられ、子羊なるキリストと婚姻を結ぶのでありまして、、
その際、「油」すなわち聖霊を持たぬ信者は、婚姻の席に列することができぬというのであります。

この譬話中の処女たちが平素新婦の友達として交際を続け、婚姻に際しては、遠くまで新郎を迎え、
夜半までも長く待ち望み、しかも燈火さえも用意していましたけれども、
ただ一つ油を持たなかったという不注意のために、愚かな五人の処女は最後の最も大切な宴席に
列することを許されず「われ汝らを知らず」といって退けられるというのであります。

そのようにキリスト信者も幾多の犠牲を払い、教会に通い、献金をなし、聖書を読み、
祈りをなしていましても、聖霊を受けていなければ、主の御再臨の時に
「われ汝を知らず」といわれるということです。



さればこそパウロ先生は「我等この世あり、キリストに頼りて空しき望みを懐くに過ぎずば、
我らは凡ての人の中にて最も憐れむべき者なり」コリント前15:19と言っているのです。
すなわち、ただキリストに頼っておればそれで救われるなどと思って安心していたら、
それこそ不信者よりもあわれむべき者で、寧ろ自由勝手に人生を享楽した方がこの世だけなり得だ、
と言っているのであります。
912chebicro (50歳/男性/広島市西区):04/01/26 20:45
このパウロ先生の言は、その前の「若しキリスト甦へり給はざりしならば、汝らの信仰は空しく、
汝等なを罪に居らん」の句を受けたものでありまして、
キリストの十字架を信じて洗礼を受けただけでは、罪さえも贖われない、
従って救われない、ということを意味しているのであります。


そこで、パウロ先生は「なんじら信仰に居るや否や、みずから試し見よ。
汝らみずから知らざらんや、若し棄てらるる者ならずば、イエス・キリストの汝らの中に在りす事を」
コリント後13:5と言っておられます。


すなわち救わるべき信仰におるならば、諸君の中にイエス・キリスト(の御霊すなわち聖霊)が
御内在しておられるるはずである。
そして人が「お前には聖霊が内在している」と言うから内在している積りでいるのではなく、
確実に聖霊が内から湧れているか、観念や思想や、教理ではなく
実際自分に持っていますか。内に宿っていますか。とコリントの教会員に詰問しているのです。

chebicro (47歳/男性/広島市西区)
されば天国に入る救いの保証とは、パウロ先生の仰せられし如く
「我らの行ひし義の業にはよらで、唯その憐憫により、更生の洗と、
我らの救い主イエス・キリストをもて豊かに注ぎ給まふ聖霊による維新とにて、
我らを救ひ給へり」テトス3:6)洗すなわち洗礼と聖霊とによって救われるというのであります。
913chebicro (50歳/男性/広島市西区):04/01/26 20:47
しかし、この洗礼というものが直接救いとなるのではありません。
故にペテロも「その水に象れるバプテスマは肉の汚穢を除くにあらず、
善き良心の神に対する要求にして、イエス・キリストの復活によりて今なんじらを救ふ」ペテロ前3:21)
と言いましたように、洗礼は人から神に対する信仰の意思表示であり、
聖霊は神から人に対する救いの印であるというのであります。

さればパウロ先生も「汝らは贖罪の日の為に聖霊にて印せられたるなり」エペソ4:30と仰せられ、
洗礼によって贖われるのでなく、聖霊で贖われるのである。聖霊こそ贖罪の保証書の印であるというのです。


また「神はまた我らに印し、保証として御霊を我らの心に賜へり」コリント後1:22)
「汝等もキリストに在りて、真の言すなはち汝らの救いの福音をきき、
彼を信じて約束の聖霊にて印せられたり。これは我らが受くべき嗣業の保証にして、
神に属けるものの贖はれ、かつ神の栄光に誉あらん為なり」エペソ1:13,14)

このように聖書は明らかに洗礼は救いの保証とはならず、聖霊を受けてこそ救いの保証で、
印がおされたのである。といってあります。


然るに今日の多くの既成教会では洗礼を重要視しおるに反し、聖霊を一向に受けさせようとせず、
洗礼さえ受ければもう救われたのだ、罪が贖われたのだ、と人々を喜ばせているだけで、
神の前に救われない信者を造っているとは禍いなるかなであります。
さればパウロ先生は「キリストの我を遣わし給へるはバプテスマ(洗礼)を施させん為にあらず、
福音を宣伝へしめんとてなり」コリント前1:17と仰せられておられるのです。


ところが、ここに滑稽千万なとは、この聖書の明白な言葉をことさらに曲げて、
純真な信徒を欺瞞している牧師や、聖書学者の多いことです。
例えば聖書に「汝らは神の宮にして」とあれば「だから我々は神の宮なのだ」と言い、
「汝らは聖霊にて印せられたり」と聖書にあれば「もう我々は聖霊にて印せられておるのだ」と主張して、
人々を喜ばせ、自分の聖霊を受けていないことをカムフラージュしているのです。
914chebicro (50歳/男性/広島市西区):04/01/26 20:48
処が、これらの言葉は聖霊を立派に受けている聖徒に向かって、使徒らが書き贈った書簡にある
言葉でありまして、ただ、洗礼を受けただけの信者に言っているのではない。
ということは各書簡の冒頭に書かれてある宛名や、文章を熟読して見れば判然とすることであります。


このように聖霊を受けた者、すなわち聖霊の内在するいわゆる聖徒は、
救いの保証を神様から得ているのでありまして、この聖霊を受けていない人は、如何なる大伝道者でも、
大説教者でも、宗教改革者でも、救いの保証は得ていないのであります。


然らば、かかる大先輩、大哲人でも聖霊を受けていなければ皆滅ぼされるのか。と質問されれば、
「私には判りません」と答えるほかに言葉はありません。
なぜならば、かの人、この人と指して救われるか、滅ぼされるかは神様の権限でありまして、
人に断定する資格はありません。
ただ、聖霊を受けていなければ、救いの保証がないと言うだけであります。
聖霊が内在し給ふなれば、救いの保証が確定しているわけですから安心でございます。


だからパウロ先生も「汝ら若し棄てらるる者ならずば、イエス・キリストの御霊、汝らの中に
在す事を知らざらんや」コリント後13:5と言っておられるのであります。
すなわちイエス・キリストの御霊が内在しているならば棄てられることはないと言うのでありまして、
イエス・キリストの御霊が内在していない者はみな棄てられるとは、
さすがのパウロ先生も言ってはおられないのであります。