私が言えるのは
中国のある所でおこなわれている
禅は
日本の禅寺で教えるものと違うということです。
もしや時が立つうちに形式ばかり伝えられ
秘伝と言われる
内面修行の方法が伝わってないのでは?
と禅僧をみて
感じた記憶がありますな
あと坐禅をしてるからすごい!
みたいな意識を禅僧から感じると
はぁ〜
と思いましたな
953 :
机龍之介 ◆T3kw04asSo :03/10/13 17:07
>>951 >これを思考停止派の開き直りという
思考停止。というより・・・そもそも禅は思考停止だよ。
>>952 少林寺拳法の見学でもしてきましたか?
954 :
名無しさん@3周年:03/10/13 17:26
知識の切り売りはいらない。
自己体験を持っている人はいないのだろうか。
>>953 白隠が「大疑現前」という状態になったのは、無字の公案を考えていた時だったという。
公案を与えられるということは、要するに無理難題を吹っかけられることである。
白隠が全力を振って考えているうちに、思考の可能性は使い果たされ、
もうそれ以上考える余地がなくなってしまった。それまでに浮んで来た様々な着想やイメージが、
思考の飽和状態の中で互いにくっつき合い、意識の表層を氷盤のように蔽って動きが取れなくなる。
これが打通直前の状況だったのである。ここまで来なければ、新しい光は生まれて来ないのだ。
中途半端な思考停止は智慧生ぜず。ちみ働きないもん。
956 :
机龍之介 ◆T3kw04asSo :03/10/13 18:20
>>955 ほぉ〜〜〜。なるほど。
唯識派が考えてる公案というのは、こういう事ですか。
まったくもって参考になります。
>白隠が全力を振って考えているうちに、思考の可能性は使い果たされ、
ほぉ〜〜〜。なるほど。
白隠が全力を振って考えるとは・・・。以外でした。
ほぉ〜〜〜。なるほど。
>意識の表層を氷盤のように蔽って動きが取れなくなる。
未那識から阿頼耶識へと逝ったんですね?
そして新しい光が生まれたと・・・。
>中途半端な思考停止は智慧生ぜず。ちみ働きないもん。
そうですか・・・?
公案とはそもそも、中途半端じゃ駄目ですね。二項じゃないですから。
中途半端じゃないから智慧(仏智)なんでしょうし。
だけど、唯識から解釈する公案。ていうのは大変に参考になりました。
中論だったらまた違う解釈なんでしょうけどね。
957 :
名無しさん@3周年:03/10/13 18:22
>だけどそうなると「空」の解釈をどう捉えるのだろ?
「空」とは、頭で解釈するものなんですか!?!?!?!?!?!?
>私もかつては唯識的な考えを持ってましたから、貴殿の考えてることも理解できますよ。
かつて唯識をやってたんですか!?!?!?!?!?!?
わたしの未熟な瞑想力では、とうてい極め尽くせないのがそれなんだがなあ
>何もないのに阿頼耶識云々もなくなる。
>阿頼耶識があろうとなかろうと・・・それを越えて即心即仏。円相の位相。
あなたは、阿頼耶識を垣間見たのですか?!?!?!?!?!?!
(やっぱ、机さんは机さんだったね。2chの机さん、貴殿の禅学に栄光あれ!!(^。^)
958 :
名無しさん@3周年:03/10/13 18:28
禅が思考停止だというのは、大きな勘違いだと思うよ。
机は、大拙の「分別の無分別、無分別の分別」って言葉知らない?
これが、中の道なんだよ。これを実現するものが禅であって、
一方を称揚して、片方を切り捨てる二者択一じゃいかん。
959 :
机龍之介 ◆T3kw04asSo :03/10/13 18:28
>>957 >「空」とは、頭で解釈するものなんですか!?!?!?!?!?!?
私は、貴殿に聞いておるんですよ(笑
で・・・・
貴殿は、私のお題に答えられんでしょ(笑
まあ、ここのとこは大慈・大悲でいいよ(笑
貴殿は立派じゃよ。
あーっはっは。
960 :
名無しさん@3周年:03/10/13 18:33
社会の中にあって、思考をぎりぎりまで働かせて、よりよいものを
作り出そうとする。そのぎりぎりの思考の中に無分別の機がきらめく。
これが大乗の禅。事上の禅とよぶものであり、社会や分別から遊離、
もしくは、忌避して、思考を停止して、それを悟りと考えるなどとは
野弧の禅そのもの。非常に有害。
961 :
机龍之介 ◆T3kw04asSo :03/10/13 18:39
>>958 >禅が思考停止だというのは、大きな勘違いだと思うよ。
禅における作務は何でやるんだろう?
これは一瞬の非言語的思考だよね。
つまり、目的のない純粋な「行為」そのもんだよ。
二項の対立しない行為と言ってもいい。
いわゆる、思考停止とはそういう意味である。
>机は、大拙の「分別の無分別、無分別の分別」って言葉知らない?
色即是空 空即是色
>一方を称揚して、片方を切り捨てる二者択一じゃいかん
こんなこと言うておらんよ(笑
962 :
名無しさん@3周年:03/10/13 18:41
色 即 空
空 即 色
分別 即 無分別、
無分別 即 分別
思考 即 思考停止
思考停止即 思考
社会 即 個人
個人 即 社会
この「即」が禅なのであって、
思考停止が禅なのではない。
955の公案観は、何もまちがっていない。
思考の徹底と、無思考の徹底は表裏一体である。
963 :
机龍之介 ◆T3kw04asSo :03/10/13 18:46
>>960 世俗諦と勝義諦がごっちゃになってるかとおもうよ。
私がいう思考停止。つうのは・・・いわゆる「気づき」だよね。
日常の生活で思考停止せよ。
という意味ではない。
964 :
名無しさん@3周年:03/10/13 18:48
>禅における作務は何でやるんだろう?
>これは一瞬の非言語的思考だよね。
>つまり、目的のない純粋な「行為」そのもんだよ。
>二項の対立しない行為と言ってもいい。
社会の中における現実の「作務」は掃除をしたり、
茶わんを洗ったりという単純労働だけではなりたっていない。
作務の中に言語を超えた純粋経験を実現しようという指向はよく
わかるが、そこにとどまっていては、社会の現場で禅はいかされなく
なる。人間は一生禅寺にこもって生きていくわけにはいかない。
言葉や、理屈、知識、分別を遠ざけてしまっては、現実には現代の
社会においては、思索すら、一つの「作務」であるという認識にたって、
思考や思索に立ち向かっていかなくてはいかん。
一つの商品を開発する。そのためにアイディアをしぼる。これも一つの
公案であり、作務である。こういう視点に立たないと、社会的脱落者
ばかりを生み出す禅になってしまうぞ。
965 :
名無しさん@3周年:03/10/13 18:52
>世俗諦と勝義諦がごっちゃになってるかとおもうよ。
それをわけるからおかしなことになる。
寺の中でしか禅はできないのか。
悟りはないのか。
966 :
机龍之介 ◆T3kw04asSo :03/10/13 18:53
>>962 >思考の徹底と、無思考の徹底は表裏一体である。
では、
貴殿の前にあるモニターは、存在なるや?いなや?
お答えくだされ。
>思考の徹底と、無思考の徹底は表裏一体である。
この方法で・・・
如何に?
>>927 > 洩れは頭頂開も甘露も体験済み
> 残念だったにゃ〜
やっぱりそうか。だから危ないのだ。
おまえはやっぱりあれだ。
脳みそが小さすぎる。おれがすこし鍛えてやろう。
もうすこし詳しく書いてみよ。
968 :
名無しさん@3周年:03/10/13 18:54
>貴殿は、私のお題に答えられんでしょ(笑
>あーっはっは。
答えに執着するなかれ
笑う門には、野狐の影
969 :
名無しさん@3周年:03/10/13 18:57
>では、
>貴殿の前にあるモニターは、存在なるや?いなや?
>お答えくだされ。
モニターは、モニターである。漏れは、アップル社のシネマディスプレイを
使っている。20インチの液晶だ。これで、仕事をしたり、勉強をしたり、
2ちゃんに書き込んだりする。それだけじゃ。
>この方法で・・・
>如何に?
創造的に考える、その思考の徹底が、そのまま無思考の徹底である。
970 :
机龍之介 ◆T3kw04asSo :03/10/13 18:58
>>964 >公案であり、作務である。こういう視点に立たないと、社会的脱落者
>ばかりを生み出す禅になってしまうぞ。
社会的脱落者にならないための智慧。
これがいわゆる分別智。
でしょうね。
これは大事ですよ。
971 :
机龍之介 ◆T3kw04asSo :03/10/13 19:01
>>965 >それをわけるからおかしなことになる。
鈴木大拙も分けてるよ。
なにか?
972 :
名無しさん@3周年:03/10/13 19:01
だから、わけるなっちゅうに。
分別智と無分別智は表裏一体である。
仕事のできないヤツは禅者とは言えない。
973 :
名無しさん@3周年:03/10/13 19:04
一 即 多
多 即 一
わけて、つなげる。つなげて、わける。
わけることにおいて、つなげ、つなげることにおいて、わける。
わけるがゆえに、つなげ、つなげるがゆえにわける。
わけるがためにつなげ、つなげるがためにわける。
わけるも、つなげるも表裏一体。
といういみですべてはひとつにつながっている。
974 :
机龍之介 ◆T3kw04asSo :03/10/13 19:05
>>969 >創造的に考える、その思考の徹底が、そのまま無思考の徹底である。
二項選択の公案は思考はしないでしょ?
思考。というシステムそのものが対立してるんだからね。
そこを「思考停止」って言ってるんだよ。
つまり、対立してはいかん。
対立してはいかんから・・・
思考は出来ない。ってことだよ。
975 :
名無しさん@3周年:03/10/13 19:07
>>949 かつて私は「教義を曲げて生き残りを図る仏教、潔くなし」などと思っていました。
しかし、本々釈迦はそんなに了見の狭い教えは説かなかったのかも知れませんね。
976 :
机龍之介 ◆T3kw04asSo :03/10/13 19:10
>>972 >分別智と無分別智は表裏一体である。
生きていくには分別する智慧がなけりゃ生きてはいけない。
仏の智慧→から分別する智慧へ・・・表裏一体ではない。
977 :
名無しさん@3周年:03/10/13 19:10
>>971 >なにか?
なにか?と促せば、更に野狐になる
978 :
名無しさん@3周年:03/10/13 19:11
柳は柳ならずと、柳は柳なりは、即で結ばれるよね。
思考停止と、思考は、表裏一体である。
979 :
名無しさん@3周年:03/10/13 19:12
また坊さんは、わけてもらわんことには、「宗教」が解消されて
寺がなくなってしまうので、必死にわけようとするだろう。
だがわけてしまっては、みんなが坊さんにならなくてはならなくなる。
社会人としてのあり方をゆがめられることになる。
それでは仏教はますます腐っていき、衰えますぞ。
980 :
名無しさん@3周年:03/10/13 19:13
己を鑑みることができないのを野狐という
尾だけは、何故か不可思議にも鏡にて手入れする
981 :
名無しさん@3周年:03/10/13 19:17
>仏の智慧→から分別する智慧へ・・・表裏一体ではない。
野狐流戯論という
「表裏一体」も「表裏一体ではない」も「誤り」だし「誤りではない」。
さて、皆の心はどこに着陸するか。
983 :
机龍之介 ◆T3kw04asSo :03/10/13 19:27
>>982 分別智と無分別智というのは・・・・
つまり「相」が違うんだよ。
984 :
名無しさん@3周年:03/10/13 19:27
思考のただ中で、思考停止を行じ、思考停止のただ中で、思考を行ずる
ような離れ業が禅の悟りじゃないのか。思考や分別を放擲して
寺にこもって、作務におぼれて庭掃きばかりやって、悟ったような気に
なってるバカが多すぎる。
受験生が必死で受験勉強に取り組む。ビジネスマンが金もうけのために
必死で知恵をめぐらす、医者が医療に没頭し、学者が学問に没頭する。
これがそのまま悟りであるとするような禅でなければ、社会において
無用どころか、有害な宗旨をかかげることになる。
くりかえすが、分別の放擲は、悟りではない。
思考停止は、悟りではない。
985 :
名無しさん@3周年:03/10/13 19:29
>皆の心はどこに着陸するか。
過去に着陸したのであれば、着陸することなく
未来に着陸するのであれば、着陸することなく
今、現在に着陸しつつあるのであれば、今は一瞬も留まることもなく
986 :
名無しさん@3周年:03/10/13 19:31
>>984 思考停止のただ中で、思考を行ずる
それは単に言葉遊びじゃ。
>>984 溺れるほど作務しちゃいけないの?
良いんじゃないの?一日中庭掃きばかりでも。
庭掃きだけで悟った釈迦のお弟子さんもいるんだしさ。
一念岩をも穿つよ。
君も青年の主張してるね。
988 :
名無しさん@3周年:03/10/13 19:39
>>964 >社会の現場で、禅はいかされなくなる。
社会のあり方がオカシケレバそれを拒否するのも禅なんじゃないか?
かつて日本の禅宗の僧侶が、無我を説きながら戦争に若人を駆りたてたという
過去もあるそうな。もうそういうことは繰り返さないでほすいもんだ。
989 :
名無しさん@3周年:03/10/13 19:41
なぜ、覚る必要があるのか?
悟りとはなんなのか?
結局だれもわかっちゃいない。
990 :
机龍之介 ◆T3kw04asSo :03/10/13 19:41
思考停止。ってのを観念的に捉えてはなにもならない。
いわゆる非言語思考。と言うてる。
これは作務でも公案でも同じ事。
非言語とは、つまりは目的のない、なにも対立しない思考・行為のことである。
日々の一瞬の出来事。
だからこれを、竹に当たった小石とか、裏山のせせらぎの音とか。
ひとつの瞬間のことを言ってる訳です。
つまり、日常のなかの瞬間。
非日常性のことです。
これがいわゆる頓悟です。
991 :
名無しさん@3周年:03/10/13 19:50
>>987 つまりな、老婆心で詳しくゆえば、
人の役にたつことをするのが悟りなんだよ。
人の役に立つかどうかなんてどうでもよくて、
ただ悟りたくて、庭掃きばっかやってる。
そんなことやって迷いに迷いを重ねている。。
悟ろうなんて気持ちを捨てて、そんなことどうでも
よくなって、さて俺は人の役にたつために何をしよう、
庭掃きばっかやっててもいかんなと思い始めたときに、
藻前はやっと悟ったと言えるわけだ。社会的前進、社会参加
これこそが、悟り。社会的無能者は禅者とはいえない。
>>988 思考停止するからそういうバカなことが起こる。
批判、分別、これがかぎりなく大事。
禅野郎どもは、かならず社会的なことに無関心、
無為、無責任、人任せ、何もできない、何もしない、
社会的無能者のくせして、おおいばりときちゃ、煮ても
焼いてもくえはしない。
>>990 まさしく、そうだよ。思考停止とは、言葉を抜けること、超えること。
それはな、動いているものをカメラでとれば、停まってみえるのと
同じこと。思考と非思考の関係もそれ。思考と思考停止は両方なりたつ
ものでなくてはならない。
992 :
名無しさん@3周年:03/10/13 19:52
禅って、議論に向いてないよね。
993 :
名無しさん@3周年:03/10/13 19:54
ほらな、すぐに無分別に退避しようとする。
一般庶民が、申し訳ありませんが、、、。
埼玉県内で、宗教勧誘ではなく(!)
子供に法話をお話いただける寺院はないでしょうか?
>>992 議論など始めからしていおりませんが、なにか?
996 :
(´;_;`):03/10/13 20:03
>>984はいいこと言ってると思います。
>>987は987さんの中に入ってきた教えを知識としてとらえているばかりに
禅道が見えていないんですよね。おそらく特定の宗派を住持しているから
だと思いますし、ここには学者ばかりで禅僧はほとんどいないようです。
布教も大いに結構。そこで今一度立ち止まって見れば禅とは何かを感じる
ことができるのではないですか?教えも所詮は言葉。されど大事な言葉。
997 :
名無しさん@3周年:03/10/13 20:07
思考≒禅ではない 思考≠禅 間違えぬように
998 :
名無しさん@3周年:03/10/13 20:07
>ほらな、すぐに無分別に退避しようとする。
無分別を濫用すればそうなる
本当の無分別を知らないから、興味の対象となり、その言葉が表象化される
いわく〜〜〜
>分別智と無分別智というのは・・・・
>つまり「相」が違うんだよ。
実際には、真の無分別(智)にはいれば、無分別(智)も何もない
999 :
名無しさん@3周年:03/10/13 20:07
999
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名無しさん@3周年:03/10/13 20:09
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