〈新人類〉は、〈生〉についての哲学のすべてを含んでいる。
そして、私たちがゆりかごから墓場までをだらだらと過ごすのではなく、
一瞬一瞬を途方も内ない喜びに、歌に、踊りに、祝祭に・・・するために、
いかにして〈生〉を全面的に、強烈に、その全体において生きるべきかを含んでいる。
これまで生きてきた古い人間は、死に瀕している。
彼は充分に苦しんできた。彼は惨めに、苦しみながら
自己を虐待しながら生きるように条件づけられてきた。
彼らは今生での幸福、死後には天国、来世にも幸福の約束を、死後の大いなる約束手形を与えられた。
すなわち、彼が苦しめば苦しむほど、それだけ多くの報酬を受け取るというわけだ。
それは、すべての支配階級にとって、非常に都合のよい観念だった。
なぜなら、みずから苦しむ用意のある人を隷属させるのは、かんたんだからだ。
未知の明日のために今日を犠牲にする用意のある人間は、
すでに隷属させられたいという意向を宣言してしまっている。
未来は束縛になる。
かくて何千年ものあいだ、人間は現実のなかにではなく
希望のなかに、空想のなかに、夢のなかに、ユートピアのなかにしか生きてこなかった。
だが、現実の〈生〉、この瞬間に存在する〈生〉以外には、どんな〈生〉もない。
へぇ。
そういう子に何もしてやれないのに、他人のせいにするありがとう教の光ってすごいね!
自分だけが助かればよいんだよね。基本的に「ありがとう」って「言う」立場だから。
言わせる立場じゃないもんね〜
〈新人類〉とは反逆だ。
ただ天国という架空の希望を与えることによって
あるいは地獄という、もうひとつの架空の現象におびえさせ
自分を恐喝することによって、自分を隷属させ、抑圧し、搾取する
ことができるような、あらゆる条件づけに対する反逆、謀反、革命だ。
すべての古い生き方は、奇妙にも、ひとつの点で一致する。
それは、人間とは架空の神にささげられた生贄(いけにえ)であるという点だ。
人間が、実際に石像の前で生きたまま殺され、生贄にされた時代があった。
現在では、そのようなことをあえてする者はいないとはいえ
心理的にはその状況はまったく変わっていない。
共産主義の名において、あるいは資本主義の名において、
あるいはアーリア人種の名において、イスラムの名において、キリスト教の名において、
ヒンドゥー教の名において、○○教団の名において、人間はいまだ生贄にされている。
石像の神々の代わりに、いまでは意味のない偽りの言葉だけがある。
あらゆる子供が、気がついてみたら、すでに条件づけされている群衆
のなかに生まれていたという単純な理由で、人はそのように生きることを受け入れてきた。
教師たちは条件づけられている。両親は条件づけられている。
周囲の人はみな条件づけられている。そして小さな子供は、ほとんど無力だ。
子供には、この群衆の一部として生きる以外のどんな選択肢も思い浮べることができない。
古い人間は群衆だった。車輪のひとつの歯車だった。
古い人間は、個人としての人格をもっていなかった。
自分が人間であるという、自分が長い長い進化の道における最高の創造物であるという、
自分こそがその頂点としての栄光であるという、あなた方の自敬の念を、尊厳を、
喜びも感謝も破壊するために支配者たちはあらゆる配慮をしてきた。
この目論見は危険なものだった。
もし人間が自分自身に対するなにがしかの尊敬、人間であるという
何がしかの尊厳をもっていたら、その人間を奴隷にすることはできない。
その魂を破壊し、その人をロボットにすることはできない。
現在までのところ、人間は生きるふりをしてきたにすぎない。
彼の〈生〉は仮のものにすぎなかった。
〈新人類〉とは、すべての過去における謀反だ。
それは、私たちが新しいライフスタイル、新しい〈生〉を創造してゆこうという宣言だ。
自分たちは新しい目的地に向けて運命づけられているのだという
はるかかなたの星が私たちの到達点なのだという宣言だ。
そして私たちは誰にも、どんな美名のもとにも、自分たちを犠牲にすることを許すつもりはない。
私たちは理想に従うのではなく、自分自身のあこがれ
自分自身の熱烈な直感に従って、自分の命を生きるつもりだ。
私たちは一瞬一瞬を生きる。私たちはもはや
「明日」に、明日に対する約束によってだまされるつもりはない。
〈新人類〉は、人類の全未来を含んでいる。
古い人間は死なざるおえない。彼は自分自身の墓穴を掘っている。
彼は一瞬ごとに、その墓穴をますます深く掘り進めている。
核兵器やあらゆる破壊手段は、地球規模の自殺の準備だ。古い人間は死ぬことを決めてしまった。
古い人間があなた方まで巻きぞえにする前に、古い人間と縁を切るのは、
古い伝統、古い宗教、古い国家、古いイデオロギーと縁を切るのは、
世界の知的な人々にかかっている。
史上初めて、古いものはもはや黄金ではない。
古いものは醜い過去の腐敗した屍(しかばね)だ。
過去を放棄することは、新しい時代の、若い人々の大いなる責任だ。
新しい人類は、この〈生〉を、この世界を愛することになる。
新しい人類は、生きること、愛すること、死ぬことのアートを学ぶことになる。
新しい人類は、天国と地獄、罪と美徳のことなど気にしないだろう。
新しい人類が気にかけるのは、いかにして生の歓びを、生の楽しみを増大させるかということ・・・
いかにして、もっと花を、もっと美を、もっと人間性を、もっと慈愛を増やすかということだ。
私たちは、この惑星を天国にできる。
この瞬間を自分の〈生〉の最大の歓喜にできる能力と潜在力がある。
いまやわれわれの生存そのものが疑わしい問題になっていることは
誰ひとり疑う者もいない・・・だが何ひとつ変わらない。
私たちが、この宇宙における美しい開花である存在そのものを
子供っぽい未熟な葛藤のなかで犠牲にしようとしていることは周知の事実だ
だが何も変わらない。時計は静かに時を刻んでいく・・・
本当に何が間違っているのだろう?
母親たちは自分の子供を見つめながら、どんな未来がこの子たちに襲いかかるのか?
といかぶり、物思いに沈む。。
そしてその背景では、地球上のあらゆる言葉で
何度も、何度もくり返されるニュースに次ぐニュース。
戦争、餓餓、エイズ、化学兵器、オゾン破壊、核破壊、地球温暖化、
人口爆発、熱帯雨林の消滅、生物種の絶滅、砂漠化、麻薬、暴力、拉致、テロ・・・
悲劇的事実とは、知性ある人々が、自らこの進行過程を停止しないとしたら
彼らはいったい、それを誰がすると考えているのだろうか?
現在権力を手にしている人たちが、それをやってくれるとでもいうのだろうか?
この狂気の世界から現在利益を受けている者たちが、やってくれるとでも?
私たちは本当に、まず最初にこの混乱をもたらした
まさにその人々に、ことをまかせようというのだろうか?
今しか時はない。いたるところの知性ある人々が、この愚かしさに対して反対の声をあげるべき時だ。
誕生は〈生〉ではない。
それは、あなたに与えられた〈生〉を創り出すための機会にすぎない。
あなたが想像できるかぎりの、あなたが夢見ることができる限りの
美しく、栄光に満ち、愛に満ちた〈生〉を創り出すための機会だ。
新人類は、神を世界の創造者として拝むことはない。
新人類は、神を香りとして、美として、愛として、真理として創造することになる。
これまでは神が創造者だった。
新人類にとっては、人間が創造者であり、神は創られるものになる。
私たちは〈神性〉を創造することができる。それは私たちの手の内にある。
もう一度アダムとイヴになって、この地上を「エデンの園」にしよう。
そして今度は、私たちは、人間を「エデンの園」から追放するほどの
勇気のある神が誰なのかを見ることができる。
そして、神が私たちの園に入りたければ、神は私たちの扉をノックしなければならない。