368 :
名無しさん@3周年:
>>366 あはは。
自分が幸せじゃないと意味がないと書いたよね?
あなたは、まず自分を幸せにして下さい。話しはその次。
じゃないと、あなたには理解できないと思います。
人は段階的にお話ししないと理解出来ない動物です。
自分を見つめると殆どが無意識で行動しているという事が見えてくるのです。
もう一度よく考えてください。
369 :
名無しさん@3周年:03/10/08 09:26
追加して書くとね。
無意識に行動している自分の選択に法則性が見えてくるんですよ。
これを因果応報と仏教では呼んでいます。
その因果は他の人達の行為とその選択を見ていても見える時があります。
次に大きな法則に自分がはまっている、操られているかもしれない
という気持ちになります。
そのうち、そこから抜け出す事を模索し始めます。
視野を世の中の全ての現象からいろいろと考えていくと、
多くの生命体は犠牲にして成り立っている事が見えてきます。
自分の体の内部を観察するだけでもそれは明らかですよ。
心臓は何の為にせっせと動いている?血は誰の為に流れている?
自分をよーく観察して下さい。
多くの動物だって生きる為に殺し合っているけど、お互いにうまくバランス
を取りながら助け合っている事が見えてきます。動物自信はそんな自覚
は無いでしょうね。
あなただって誰かの為になっているのです。
長くなったのでおわります。
370 :
名無しさん@3周年:03/10/08 10:40
そんなこと一々自覚してませんよ。
自分と他人はもともと一体ですからね。
けれども無意識に行動しているということはありませんね・・・私の場合は。
おそらく、無意識的なもの=自分になってしまっているかもしれません。
ということは無意識であるとも言えるわけですが。
371 :
名無しさん@3周年:03/10/08 12:04
皆さん「人の為」「自分の為」と「〜の為」の「〜」に拘っておられるようですな。
要するに自分と他の関係性が曖昧だということになりませんかね?
取り得る選択枝として、
1:自分を観察することは、自分の為になる。
2:自分を観察することは、他人の為になる。
3:他人を観察することは、自分の為になる。
4:他人を観察することは、他人の為になる。
2と3は、互いに逆の過程同士の項目ですね。
1と4は、閉じた過程で独立した項目ですね。
ここで、条件を加えるとどうでしょうか。
条件1 自分と他人は同じもの
条件2 自分と他人は同じでない
条件1では、2と3は同等の選択枝になりますね。
同様に1と4も同等となりますね。
よく見るとこの条件では、2と3、1と4も同等になっていますね。
選択肢は4つから、1つに成っていることがわかりますね。
即ち、条件1では4つの選択肢の中でどれを選択しても同じであると
いうことが言えますね。
条件2では、4つの選択枝は、そのままで何も変わりはありませんね。
さて、エレガントな選択枝の選択は、どちらの条件を選択すればよいでしょう。
372 :
名無しさん@3周年:03/10/08 12:05
でもその観察している自分や
条件付けをしている自分というものは
自分以外にアクションを起こせるものはないので、
自分=他人ではないと思います。
自分の在り方に応じて他のものが整っていると見るとき、
自分と鏡像として他があることに気づくと思います。
このとき他人を見て自分に返すことができるし、
他人がなければ自分に気づくことができないということがわかります。
それは自分の中の心と体を考えても同じことが言えます。
体を通して学ぶことも可能です。
但し、全く身体的なことしか視野にない人には難しいです。
373 :
名無しさん@3周年:03/10/08 12:56
そうだね。
自分も他の物も<観察>してみるとおもしろいよ。
374 :
名無しさん@3周年:03/10/08 22:01