170 :
名無しさん@3周年:
人間は死後、自分自身の「この世」の所業の品格によって、自らの道を決定す
るということがわかったのである。すなわち閻魔=裁判官は、自分自身の心の
中にいると言えるのだ。
自然の摂理からすると南無阿弥陀仏と唱えるだけでは悪のカルマは解消しない。
自分で蒔いた種は自分で刈り取るのだ、他人やお釈迦様は決して身がわりには
なら無い、自分で償うのである。つまり、自分で自分を救うのである。
171 :
名無しさん@3周年:03/08/27 21:21
浄土真宗は、キリスト教絶対主義の欧米人に尊敬を受けた。非キリスト教国でキリス
ト教そっくりの宗教がある。これは、キリスト教思想の普遍性を証明するもの以外の何
者でもない。彼らは、キリスト教徒の自尊心をくすぐったんだ。浄土真宗は欧米人の尊
敬を受けた。彼らから尊敬を受けると、日本のノータリン達は得意になる。欧米人に尊
敬を受けた偽キリスト教を、浄土真宗だと言って日本に逆輸入する。日本のノータリン
共は、欧米人が尊敬する偽キリスト教を浄土真宗だと思うようになる。もともと、真宗
思想などは徳川時代初期に消えていた。砂漠に水が浸透するように偽キリスト教が浄土
真宗の名で拡散浸透する。キリスト教チック浄土真宗は、こうしてできた偽キリスト教
だ。多田鼎などはその辺で大きな役割を果たしたようだ。
偽キリスト教は所詮偽物だ。キリスト教が持ってる大事な精神などは移植できるわけ
もない。仏教無知の欧米人の自尊心をくすぐって喜ばせた上辺だけを持ち込んだのが、
現代の浄土真宗だ。現代浄土真宗は、3流4流のキリスト教だ。ぼくはノータリン共の
偽キリスト教などに興味はない。集中して研究しているわけじゃないよ。断片的に拾い
読みした本のノータリン共の言葉の端々にそんなものが見える。ぼくはそう思っている
んだよ。
172 :
名無しさん@3周年:03/08/27 21:22
浄土真宗は、キリスト教絶対主義の欧米人に尊敬を受けた。非キリスト教国でキリス
ト教そっくりの宗教がある。これは、キリスト教思想の普遍性を証明するもの以外の何
者でもない。彼らは、キリスト教徒の自尊心をくすぐったんだ。浄土真宗は欧米人の尊
敬を受けた。彼らから尊敬を受けると、日本のノータリン達は得意になる。欧米人に尊
敬を受けた偽キリスト教を、浄土真宗だと言って日本に逆輸入する。日本のノータリン
共は、欧米人が尊敬する偽キリスト教を浄土真宗だと思うようになる。もともと、真宗
思想などは徳川時代初期に消えていた。砂漠に水が浸透するように偽キリスト教が浄土
真宗の名で拡散浸透する。キリスト教チック浄土真宗は、こうしてできた偽キリスト教
だ。多田鼎などはその辺で大きな役割を果たしたようだ。
偽キリスト教は所詮偽物だ。キリスト教が持ってる大事な精神などは移植できるわけ
もない。仏教無知の欧米人の自尊心をくすぐって喜ばせた上辺だけを持ち込んだのが、
現代の浄土真宗だ。現代浄土真宗は、3流4流のキリスト教だ。ぼくはノータリン共の
偽キリスト教などに興味はない。集中して研究しているわけじゃないよ。断片的に拾い
読みした本のノータリン共の言葉の端々にそんなものが見える。
173 :
名無しさん@3周年:03/08/27 21:28
世の中にごく一部ですが「くそ坊主」と
言って良いと思えるような人がいると言うこと、そしてそれがある意味で日本
の宗教の悪い面を象徴しているように思えることです。
なぜそうなっているかと言うと、おそらく坊さんでありながら、信仰心を持っ
ていないからではないかと思うわけです。別な言い方では、信仰心があるの
ならとても出来ないであろうということを平気で行っているということです。
そのような人は、「魂」とか「輪廻転生」なども信じてはいないと思います。
それなのに何故「坊さん」をやっているかと言うと単に職業で「坊さん」をや
っているだけなのでしょう。
魂の存在を信じない「坊さん」は、お葬式も唯の儀式としてとらえているでし
ょう。本来の死者の魂を慰め、成仏させるというようなことをはたしてどれく
らいの人が真剣に考えているのでしょうか?あくまでも私の個人的な意見です
が、そのような「坊さん」にお経を唱えてもらってもいっこうに有り難いとい
う気になれません。
174 :
名無しさん@3周年:03/08/27 21:40
仏様の心からいえば、南無はたのめということ、阿弥陀佛はたすくるという
ことである。たのめたすくるという仏様の声であります。
「南無阿弥陀仏を称える」のは、今から助けてもらう、あるいは罪を消して
もらうという気持ちで称えるのでなしに、本願の手強さに夜明けが出来れば、
何としたかたじけないことやらと、仏様の永劫の修行も、本願もただ私一人
のためであった、と喜ばれる。
念仏の申し心を仏恩報謝と申すのは、そこのことであります。一生の間称える
念仏は、今から貰おうと思うて念仏するのでない。もうすでに貰ったご恩を思
うて如来様に向かう心である。こっちから仏に願いをかけるのでない。仏の願
いがわしに届いてくださったのだ。
「この悲願ましまさずば、かかるあさましき罪人、いかでか生死を解脱すべき
と思いて、一生のあいだまをすところの念仏は、みなことごとく如来大悲の恩
を報じ、徳を謝すと思うべきなり。」
念仏を申すについて、その申す心が自分で出てきたのでない、仏様のお心が私
に通って下さったのだ。仏様のお心が我にいたらせられた。その喜び一杯から
私の胸に溢れて口に南無阿弥陀佛と出てくださるのである。
我々の口の中に南無阿弥陀佛がでられるのは、内心の仏が活動して下さるので
あります。おどり出てくださるのであります。一声一声の念仏は私をたすけた
まう仏の活動であります。
念仏は、お助けの手段じゃない。念仏がそのまま真実のお助けなんです。念仏
してから助けられるのではないのです。「座禅念仏を称える」ことが相乗効果
により助ける効果が増大するのです。