>>683 ある禅僧のところに絶望した青年がやってきたという。
いかに自分の悩みが深く、重大であるか、縷々述べて、すくいを求めた。
禅僧は「その絶望している自分をここに出してみろ」と手をつき出して迫った。青年はついに「これが絶望している私です」というものを提示しえなかったという。
それは、人間が空なる存在だからにほかならない。
仏教にかぎらず、どの宗教も「自分とは何か」を問う。
しかし、自分は当然人間なのであるし、自分の本質を問うことは「人間とは何か」を問うことでもあるし、さらに一般的に「存在するすべてのもの」をどう見るか、という問いに直結する。
絶望した青年はたしかにここにいる。しかし、絶望している「私」を出せと言われたら出しようがない。
「私」を絶望を軸として固定的に考えているだけのことなのである。
この例でわかるように、空とは自分、人間、すべてのものの「在り方」を示す語である。
同時に、こだわりなく生きる生き方に直結する考え方でもある。
絶望している「私」にこだわりつづけていては、絶望から逃れることはできない。
絶望したり、希望をもったりすることは、空として在る私の、無数にある局面、すがたの一つにすぎないとみた時、絶望している自分の姿がみえてくる。
空とはこだわらない生き方でもあるのではないでしょうか。