葬式仏教を否定するのはいいが、坊さんが葬式を引き受けなくなっても、
祭祀としての葬式の需要は減らないだろうと思うよ。減らなければ誰が引
き受けるんだい?。これは社会の微妙な感情が絡む。へたをすれば混乱を
起こすだろうよ。今でさえいかがわしいのに、下手をするとそこは悪の温
床になりかねない。果たしてリスクをかぶって改革する必要がある問題
か?。人間の感情は50年100年じゃ変わらない。恣意的な操作は、必
ず混乱を起こすだろうよ。
坊さんが葬式をやめて、坊さんの経済的な基盤はどうするんだい。霞を
食って生きていけばいいんかい。坊さんは今は、人をくって生きてるが、
だからといって、霞を食って生きて行けというのは非現実的だ。
僧は仏道に命をかける。その一方で、大昔は、公家や大名の子弟の教育
を引き受け、その庇護の下で自活した。やがて、大衆の中に飛び込む宗派
が出てくる。彼らは、児童福祉の道を選んだんだ。親のない子や経済的に
行き詰まった家庭の子供を預かり、子供に衣食住と教育を与え、成長させ
て社会に返した。例えば親鸞なんかは、日野家の口減らしとして青蓮院に
預けられたんだ。無名の寺院は、社会福祉事業で社会的な信頼を得、托鉢
で社会から善意の寄付を集めた。
現在では、教育施設としては学校がある。福祉施設も充実している。組
織的な活動は国家が行っている。寺院が教育事業・福祉事業の一角を担う
というのは、おかしな話ではない。現に、幼稚園や保育園を経営している
寺院もある。しかし、だからといって、葬式は執行していけないという理
屈は、説得力はないだろう。
坊さんは、教育業をやっても、福祉事業をやっても、葬式業をやっても
いいだろう。僕は、基本的には悪いとは思わないんだ。NGOもボラン
ティアもいい。坊さんは、そういうことが自由にできるということが大事
だ。これはいかん、あれもいかんというより、何をやってもいいというこ
とが大事だ。一方で、そういう事業はすべてサイドワークだという認識も
大事だろう。坊さんは、仏道をしっかり歩み、自制しながら自らの人間性
を高めていくことが必要だ。仏道が本業だ。
葬式は仏事ではない。本業ではない。禅僧は座禅が本業。浄土宗・真宗
の坊さんは称名念仏が本業だ。真宗の坊さんは、座禅して念仏することを
原則としながら、行住坐臥、時を選ばず、期間を選ばず念仏をするという
ことが本業なんだ。本業をきちんとやれば、サイドワークで社会的意義の
あることをするのは結構だろう。むしろ積極的やるべきだろう。葬儀が社
会的に意義のないこととは、僕には思えないんだ。
元死刑囚の免田栄さんが本に書いている。正確な文章は覚えてないが、
日本の教誨師というのは、箸にも棒にもならん存在らしい。死刑囚が獄中
で僅かに会える民間人が教誨師だ。ところが、必死に冤罪を訴えても、教
誨師をやってる坊主というのは、全く聞く耳を持たないそうだ。教誨師は、
法務省から委託を受ける名誉職だそうだ。坊主にとってはおいしい職業な
のだそうだ。彼らは、法務省の顔色ばかり伺って、服役囚には真の顔を向
けないのだそうだ。
冤罪受刑者の救済に立ち上がった教誨師の存在を僕は知らない。正義感
の無い教誨師は教誨師の風上におけない。坊さんは、使命感と正義感をも
って、もっといろんな場で活躍すべきだろう。
確かに、葬式に問題点が無いと言うことではない。問題点は、料金体系
の不明確性だ。葬儀執行料に対する課税が無いということ、消費税がかか
らないということも問題だ。今後、日本は葬式が増える。税収は枯渇する。
葬儀執行料課税問題は、論議すべきことだろう。