☆エホ証と福音派とリベラルの聖書解釈☆Part3

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317名無しで宗教問答
>>288
>宗教改革の代表者ルターの残した全文書(16世紀半ば)
>17世紀のウェストミンスター基準を土台に

【 歴史的うんちく 1 】
1453年、オスマン・トルコ軍によりビザンツ帝国滅亡。
1471年、イタリア語訳聖書。
1473−74年、フランス語訳聖書。
1477年、オランダ語訳聖書。
1488年、チェコ語訳聖書。
1517年、ルーテルによる『95箇条の提題』の貼り紙事件。
1520−1544年、北欧のルーテル派は司教を解任し教区監督を置いた。
 北欧はデンマーク・ノルウェー・スウェーデン(1544)。
1522年、ドイツ語訳聖書。
1536年、カルヴァンが『キリスト教綱要』を刊行。
1540年、『イエズス会』がパウルス3世により正式認可。
1542年、カルヴァンによる『ジュネーヴ信仰問答』の編纂。ローマに異端審問所設置。
 1543年、ポーランド人コペルニクス『天球の回転について』出版。
1545年、カトリック教会が『トリエント公会議』を開催。
1546年、ルーテル没する。
1553年、イングランド国教会で『42箇条』の信仰告白を公布。
1555年、アウグスブルク宗教和議で帝国内でのルーテル派を合法化する。
1560年、スコットランドでジョン・ノックスがカルヴァン主義の信仰告白を採択し、
 改革派教会として第1回総会を開き、
 司教[監督]職を廃止し長老[司祭]と牧師[執事]の2職制を始める。
318名無しで宗教問答:03/04/30 07:50
【 歴史的うんちく 2 】
1562−1598年、ユグノー戦争。
 イングランド王、プファルツ選帝侯、ヘッセン方伯がユグノーを支援。
 ユグノー州、ポワトゥー・ガスコーニュ・ペリゴール・ドーフィネ。
 (ドルドーニュ川・ガロンヌ川流域に中央高地とジュネーブ隣接地域)
 中立州、ボルドー・マルシュ・アンジュー・ブルボン・オーヴェルニュ。
 アンリ4世がカトリック州とエスパニアと戦うも1593年に改宗し、
 1598年のナント勅令(いわゆる信教の自由の布告)で、
 安全保障と引き替えに新教ユグノーの礼拝を制限し、戦争を終結させた。
1563年、プファルツ選帝侯が『ハイデルベルク教理問答』を編纂させる。
1577年、ルーテル派諸侯がテュービンゲン大学の『和協信条』に従う。ザクセン侯。
1600年、イングランドが東インド会社設立。
 1546−1601年、J.ケプラーの師デンマーク人ティコ・ブラーエは、
  最初の天文台(カッセル)を建設。
1608年、新教同盟(ウニオン)アンハルト侯。
1609年、旧教連合(リーグ)バイエルン公。
1614年、ブランデンブルク選帝侯が[ユグノーの亡命を受け入れ]カルヴァン派に改宗。
1616年、騎士物語作家セルバンテス没する
1613年、宗教画家エル・グレコ没する
319名無しで宗教問答:03/04/30 07:51
【 歴史的うんちく 3 】
1618年−1648年 ドイツ三十年戦争(1630−1635スウェーデン戦争)
1626年、[イドラ・偏見の研究]哲学者[イギリス人]F.ベーコン没する
1630年、[惑星運動の法則の]物理学者[ドイツ人 J・]ケプラー没する
1632年、リュッツェンの戦いで、
 スウェーデン王グスタフ・アドルフは陣没するが軍は勝利する。
1633年、ハイルブロン同盟〈ドイツ等族の自由とスウェーデンへの補償〉
 スウェーデンは北部ドイツの新教を旧教の皇帝軍から救う。
1634年、ネルトリンゲンの戦いでスウェーデンは南ドイツを失う。
1648年、ヴェストファーレン和約。
 ヴィッテルスバッハ家バイエルン王家ケルン大司教職保持。
 『アウグスブルク宗教和議』の再確認(カルヴァン派も含めて)1624年を基準年とする。
 スイスとオランダの独立の承認。
1642年、物理学者G、ガリレイ没する
1646年、『ウェストミンスター信仰告白』の確定。
1649−1660年、清教徒革命により国王処刑、スコットランドを清教徒配下にする。
 イングランドは共和国としてクロンウェル・秘書ミルトンなどによる軍事独裁に。
1650年、哲学者デカルト没する
 1623−1662年、パスカル
 1654年、『流体平衡論』を書き終える。
 1655年、ポール・ロワヤル派とイエズス会との対立が深まっていく。
 1656年、一月十四日、パリ大学神学部(ソルボンヌ)、
  事実問題(「五箇条命題」)についてアルノーを譴責(けんせき)する。
  このころ、パスカル、ポール・ロワヤルにこもる。
  二十三日、パスカルはアルノー弁護のため、『プロヴァンシアル第一の手紙』を書く。
 1657年、『パンセ』の断章の大部分が書かれた。
1660年、宮廷画家ベラスケス没する
1678年、ナイメーヘン和約。
 エスパニアはフランシュ・コンテ(高地ブルグント北西)を失い、
 その地はルイ14世のフランス領となる。
1681年、フランス王ルイ14世の入城によるストラスブール(ストラスブルク)合併。
 オスマントルコ軍がフランスと戦うドイツの背後から襲う。皇帝軍とレーゲンスブルク休戦。