根本仏典のブッダの言葉

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1仏の教えについて
「修行者たちよ。善にして、尊く、出離を得させ、さとりにみちびく諸々の真理がある。そなたたちが、
『善にして、尊く、出離を得させ、さとりにみちびく諸々の真理を聞くのは、何故であるか』と、
もしもだれかに問われたならば、かれらに対しては次のように答えねばならぬ。
『二種ずつの真理を如実に知るためである』と。しからば、そなたたちのいう二種とは何であるか、
というならば、『これは苦しみである。これは苦しみの原因である』というのが、一つの観察〔法〕である。
『これは苦しみ消滅である。これは苦しみの消滅に至る道である』というのが、第二の観察〔法〕である。
修行僧たちよ。このように二種〔の観察法〕を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで、
専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちのいずれか一つの果報が期待され得る。
−すなわち現世における<さとり>か、あるいは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存に戻らないこと(不還)である。
尊師はこのように告げられた。そうして、幸せな師(ブッダ)は、さらにまた次のように説かれた。
苦しみを知らず、また苦しみの生起するもとをも知らず、また苦しみのすべて残りなく滅びるところをも、
また苦しみの消滅に達する道をも知らない人々、かれらは心の解脱を欠き、また智慧の解脱を欠く。
かれらは(輪廻を)終滅させることができない。かれらは実に生と老いとを受ける。
しかるに、苦しみを知り、また苦しみの生起するもとを知り、また苦しみのすべて残りなく
滅びるところを知り、また苦しみの消滅に達する道を知った人々、かれらは、心の解脱を具現し、
また智慧の解脱を具現する。かれらは(輪廻を)終滅させることができる。かれらは生と老いとを受けることがない。
2仏の教えについて:03/01/17 23:11
ブッダは霊魂を否定したかどうかの疑問について

「世界は常住なものであるという見解があるとき、清浄行に住するであろう」といことはない。また、
「世界は常住ならざるものであるという見解があっても、また世界は常住なるものであるという見解があるとき、
清浄行に住するであろう」ということはない。世界は常住なるものであるという見解があっても、
また世界は常住ならざるものであるという見解があっても、
しかも生あり、老いることあり、死あり、憂い、悲しみ、苦痛、悩み、悶えがある。
われはいま目のあたり、これらの消滅を説くのである。
 〔次に「世界は有限である」「世界は無限である」「霊魂と身体とは同一である」「霊魂と身体とは異なったものである」
  「人格完成者は死後に存在する」「人格完成者は死後に存在しない」「人格完成者は死後に存在しかつ存在しない」
  「人格完成者は死後に存在するのでもなく、存在しないのでもない」という見解についても一々同じことが繰返し説かれている〕

 それ故にここにわたくしが〔いずれとも〕記説しなかったことを記説されなかったこととして受持せよ・・・・

「世間は常住である」などということはわたくしの記説しなったことである。
何故にわたくしはこのことを記説しなかったのか?
何となればこのことは目的と相応せず、清浄行の基礎とならず、
厭離・離欲・止滅・平安・知通・正覚・安らぎ(ニルヴァーナ)のためにならない故である。
 しからばわたくしは何を記説したのであるか?「これは苦しみである」「これは苦しみの起る原因である」
「これは苦しみの止滅である」「これは苦しみの止滅に導く道である」ということを、わたくしは記説したのである。
何故にわたくしはこのことを記説したのであるか。
マールンキャの子よ、
これは目的と相応し、清浄行の基礎となり、厭離・離欲・止滅・平安・知通・正覚・安らぎのために
なるものである。それ故にわたくしはこれを記説したのである。
3仏の教えについて:03/01/17 23:45
さまざな宗教・仏教(宗派)・論議について

(世の学者たちは)めいめいの見解に固執して、互いに異った執見をいだいて争い、(みずから真理への)熟達者で
あると称して、さまざまに論ずる。−「このように知る人は真理をしっている。これを非難する人はまだ不完全な人
である」と。かれらはこのように異った執見をいだいて論争し、「論敵は愚者であって、真理に達した人ではない」
と言う。これらの人々はみな「自分こそ真理に達した人である」と語っているが、これらのうちで、どの説が真実な
のであろうか?
もしも論敵の教えを承認しない人が愚者であって、低級な者であり、智慧の劣った者であるならば、これらの人々は
すべて(各自の)偏見を固執しているのであるから、かれらはすべて愚者であり、ごく智慧の劣った者であるという
ことになる。またもしも自分の見解によって、真理に達した人、聡明な人となるのであるならば、かれらのうちには
知性のない者はだれもいないことになる。かれらの見解は(その点で)等しく完全であるからである。
諸々の愚者が相互に他人に対して言うことばを聞いて、わたくしは「これは真実である」とは説かない。かれらは
各自の見解を真実であるとみなしたのだ。それ故にかれらは他人を「愚者」であると決めつけるのである。
或る人々が「真理である、真実である」と言うところのその(見解)をば、他の人々が「虚偽である、妄想である」
と言う。このようにかれらは異った執見をいだいて論争する。何故に諸々の<道の人>は同一の事を語らない
のであろうか?
真理は一つであって、第二のものは存在しない。
4仏の教えについて:03/01/17 23:47
真理は一つであって、第二のものは存在しない。
その(真理)を知った人は、争うことがない。かれらはめいめい 異なった真理をほめたたえる。
それ故に諸々の<道の人>は同一の事を語らないのである。
みずから真理に達した人であると自称して語る論者たちは、何故に種々異った真理を説くのであろうか?
かれらは多くの種々異った真理を(他人から)聞いたのであるか? あるいはまた
かれらは自分の思索に従っているのであろうか?
世の中には、多くの異った真理が永久に存在しているのではない。ただ永久のものだと想像しているだけである。
かれらは、諸々の偏見にもとづいて思索考究を行って、「(わが説は)真理である。」
「(他人の説は)虚妄である」と二つのことを説いているのである。
偏見や伝承の学問や戒律や誓いや思想や、これらに依存して(他の説を)蔑視し、(自己の学説の)断定的結論
に立って喜びながら、「反対者は愚人である、無能な奴だ」という。
反対者を<愚者>であると見なすとともに、自己を<真理に達した人>であるという。かれはみずから自分を
<真理に達した人>であると称しながら、他人を蔑視し、そのように語る。
かれは過った妄見を以てみたされ、驕慢によって狂い、自分は完全なものであると思いなし、みずから心のうちでは
自分を賢者だと自認している。
5仏の教えについて:03/01/17 23:48
自分を賢者だと自認している。
かれのその見解は、(かれによれば)そのように完全なものだからである。
もしも、他人が自分を(「愚劣だ」と)呼ぶが故に、愚劣となるのであれば、その(呼ぶ人)自身は(相手と)とも
に愚劣な者となる。また、もしも自分でヴェーダの達人・賢者と称し得るのであれば、諸々の<道の人>のうちに
愚者は一人も存在しないことになる。
「この(わが説)以外の他の教えを宣説する人々は、清浄に背き、<不完全な人>である」と、一般の諸々の
異説の徒はこのようにさまざまに説く。かれらは自己の偏見に耽溺して汚れに染まっているからである。
ここ(わが説)にのみ清浄があると説き、他の諸々の教えには清浄がないと言う。このように一般の諸々の
異説の徒はさまざまに執著し、かの自分の道を堅くたもって論ずる。
自分の道を堅く堅くたもって論じているが、ここに他の何ぴとを愚者であると見ることができようぞ。
他(の説)を、「愚かである」、「不浄の教えである」、と説くならば、かれはみずから確執をもたらすであろう。
一方的に決定した立場に立ってみずから考えを量りつつ、さらにかれは世の中で論争をなすに至る。
一切の(哲学的)断定を捨てたならば、人は世の中で確執を起すことがない。