☆もとぴさんと一緒に聖書を解釈しよう☆Part2

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258名無しさん@M:03/03/09 18:02
>254、257さん。
> やはり、イエスはミカエルだったんでしょうか?
> それとも、やはり子なる神ですか?

聖書の中で、「イエスは〔ミカエル〕」、と告白している箇所は一つもないし、
また、「イエスは〔子なる神〕」、と告白している箇所も、一つもないと思います。
(「ひとり子の神」と告白している箇所はあります。ヨハネ1:18)

聖書は、「イエスは〔神〕」、と告白しています。
ここでは、ヨハネ1:1とヨハネ20:28を紹介します。
259名無しさん@M:03/03/09 18:05
【ヨハネ1:1】の 本文と訳
ギ) エン   【アルケー】  エーン   ホ  ロゴス,
英) In the beginning was   the Word In the beginning was the Word,
日) 初めに        あった  ことばが    初めに、ことばが あった。 

カイ    ホ   ロゴス エーン プロス  【トン  セオン】,
and   the Word  was   with   the God   and the Word was with God,
そして  ことばは  あった  とともに  神  ことばは 神 とともに あった。   

カイ  【セオス】  エーン  ホ  ロゴス.
and God was the  Word and the Word was God.
そして  神  であった ことばは         ことばは 神 であった。   

参考: 【ヨハネ1:1のアルケー(初め)】は、創世記1:1の「初め」とは違う意味を持っている。
創世記1:1の「初め」は、天地創造の「初め」。
ヨハネ1:1の「初め」は、天地創造以前の「初め」。
(ヨハネ伝における天地創造は1章3節)
260名無しさん@M:03/03/09 18:10
>259  ・・・禿げしく ズレました。。。  未熟者なので、ゆるしてね。

カイ 【セオス】 エーン ホ ロゴス. (ことばは神であった。)   
・・・ヨハネ1:1の、冠詞の付いていない【セオス】の解釈(1)・・・・・
解釈と訳語

A.述語名詞が、連結動詞の前に置かれるなら、その名詞には冠詞を付けない
主語:ホ ロゴス(ことばは)  連結動詞:エーン(であった)  述語名詞:セオス(神)
訳語は 【God】

B.この〔セオス〕には、冠詞がないから、神(God)と同一ではない
@ ウイリアム バークレーや、J・ハロルド・グリンリーの見解。 
訳語は、Aと同様に【God】を用いている。
A ロゴスがセオスと同じ特質を有している。 言葉は神性を備えた者であった。
訳語は 【divine】(ディバイン)。
B ロゴスのある特質を表わしているに過ぎない。
訳語は 【a god】。

Aの解釈と訳語が、ギリシャ語学者の一般的な見解のようです。
Bの解釈には、@ABの見解があるようです。
次に、Bの@について詳しくカキコします。
261名無しさん@M:03/03/09 18:12
・・・ヨハネ1:1の、冠詞の付いていない【セオス】の解釈(2)・・・・・
Bの@について。イギリスの聖書翻訳者William Barclay(ウイリアム バークレー)の著書から引用。
(聖書註解シリーズ5 「ヨハネ福音書 上」 ヨルダン社 \2000円 1968年第一刷発行) 

・・・ヨハネは、言葉は神であったという。これは確かに私たちにとって理解しにくい言葉であり、ヨハネが
福音書を書いたギリシャ語は、英語と違ったいい方をしているのでむずかしいのである。
ギリシャ語で名詞を用いるときには、ほとんど常に定冠詞を用いる。神に対するギリシャ語は〔セオス〕であり、
定冠詞は〔ホ〕である。ギリシャ人が神について語るときは、ただ〔セオス〕といわずに、〔ホ・セオス〕という。
ギリシャ語が名詞に定冠詞を用いないときは、その名詞は形容詞のようになり、その人の人格、素質を
あらわす。
ヨハネは、言葉は〔ホ・セオス〕であったとはいわなかった。
そういったとすれば、言葉は神と同一であったということになったであろう。 
ヨハネは定冠詞なしに言葉は〔セオス〕であったというのである。
それはいうなれば、言葉は神と全く同じ人格、素質、本質であったという意味である。
ヨハネが言葉は神であったといったとき、彼はイエスが神と同一者であるといったのではない。
彼はイエスが精神において、心において、また実在において神と全く完全に同じであり、
私たちがイエスのうちに、完全に、神はどのようなおかたであるかを見るのである、
といったのである。

> 私たちは、イエスのうちに、完全に、神YHWHはどのようなおかたであるかを見る。
このカキコ(>202)は、この本の53ページから引用したものでした。
262名無しさん@M:03/03/09 18:14
・・・ヨハネ1:1の、冠詞の付いていない【セオス】の解釈(3)・・・・・
Bの@について。 J・ハロルド・グリンリー著「新約聖書ギリシャ語釈義文法の手引」から引用。

【ホ セオス】・・・冠詞の付いているセオス     (トン セオンは、ホ セオスの語形変化したもの)
神的称号に冠詞が付く場合には、人格すなわち彼はだれか、に強調点が置かれる。

【セオス】・・・冠詞の付いていないセオス
神的称号に冠詞がなければ、その本性や働きに、すなわち彼は何か、に強調点があると考えられる。
解釈 ・・・ 「ことばは神 (神の本性や本質について言われている) であった。」
263名無しさん@M:03/03/09 18:20
・・・・・ トマスの告白 ・・・・・
【ヨハネ20:28】 トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」

ギ) ホ  キュリオス  ムー   カイ   ホ  セオス   ムー
英) The Lord  of me  and  the  God  of me   My Lord and My God.
日)     主   私の  そして     神    私の    「 私の主。 私の神。 」
264名無しさん@M:03/03/09 21:23
>259の修正版です

ギ) エン    【アルケー】   エーン  ホ  ロゴス,
英) In the beginning  was  the Word      In the beginning was the Word,
日)       初めに  あった  ことばが      初めに、ことばがあった。 

カイ   ホ  ロゴス  エーン  プロス  【トン セオン】,
and  the Word  was   with   the God     and the Word was with God,
そして ことばは  あった とともに    神      ことばは神とともにあった。   

カイ   【セオス】  エーン   ホ  ロゴス.
and   God   was   the  Word          and the Word was God.
そして  神   であった  ことばは          ことばは神であった。   
265231-235:03/03/10 13:08
>256-264のレスを読みました。254さん、>>258の指摘の通りかと思います。

>256 キリストがミカエルであるというのが聖書の真理であると信じているのか?とのご質問に答えます。

信じていません。

「妥当な推測だと判断する」のみです。証拠を組み立てて推理する人のような気持ち。
ドラマでも、「信じたくはないが…」てな感じの台詞がありますね。
だから、ヘブライ・アラム・ギリシャ語聖書の記述と不整合なら、たとえ不愉快でも不当だと判断するでしょう。
つまり、「妥当な判断」と「信じる、信じない」とは少し違うと思っています。

そういう意味で、「信じていません」
266名無しさん@3周年:03/03/10 13:30
そういう意味で
267名無しさん@M
>257(=254)さん。>265さん。
>231-235、>238で挙げられた聖句について、検討を始めました。
難解(てゆーかわかりにくい)なので、しばらく時間をください。
遅くとも、一ヶ月以内には回答できると思います。

>259-262の ヨハネ1:1については、私が、今から14年ほど前にいろいろ
調べてまとめたことどえす。 
思い起こせば14年前、>260のように頭の中で整理されるまでには、
かなりの時間がかかったのだ。
それが、こうして他の人に読んで頂けるとは、思ってもいなかった。
・・・でも、少し訂正しておきたい。
>260
× A ロゴスがセオスと同じ特質を有している。 【言葉は神性を備えた者であった】。
○ A ロゴスがセオスと同じ特質を有している。 【ロゴスは神性を備えていた】。