それで所行系の学者のほかには
「称無碍光如来名」の「称」を「かなう」という意味で
「大行とは無碍光如来のみ名にかなう」ことであると解釈する方もあったのである。
しかしあの文はすなおに無碍光如来のみ名を称える、
称名大行を示す文を見るのが当然である。
それで空華の学者たちは、あの文によって、
衆生の称名も大行といわれるのであると説くのである。
それで大行とは名号でもあり称名でもある。
しかも、その名号と称名とは不二であるから、
いずれも大行とはいえるが、
その究竟的な立場からいえば、
法体である名号が主になるのであるというのが
「能所不二、鎔融無碍の法体大行」という空華の説である。
では、どうして衆生の称名が諸仏の称名(名号)と不二になるのかというに、
その重要な表現の一に「称即名とまきあがる」というものがある。
それがこの学轍の不二の最要の表現であるとも思われるのである。
>>954他無数のkへ
コピペうざいぞ。ちゃんと対話汁。
それは衆生の称名がそのまま諸仏の称名である名号と
「位が同じく」なるという意味であり、
自分の称えた称名がそのまま聴聞の名号の位にまきあがるのだと
主張するのである。
958 :
名無しさん@3周年:03/09/06 15:37
出てけ、このやろう。
ここに空華学轍のいう「称名」の意味が、
善導・法然によって説かれてきた、称名念仏と、称名の意味、
念仏の意味が大いに異なるものがあることに
注意しなければならないのである。
すなわち、行巻の「称無碍光如来名」とは、
無碍光如来のみ名を称えることではあるが、
それは在来、日本浄土教で用いられて来た称名ではなく、
自分の口から出て下さる南無阿弥陀仏ではあるが、
それは行巻で示される「本願招喚の勅命」
としての南無阿弥陀仏とするのである。
だから、この六字釈の意味からいえば「称無碍光如来名」の称名は、
信後の報恩の称名ではなく、
自分の口から出るものではあるが
阿弥陀如来が「我に帰せよ」の招喚の勅命であり、
自分にとっては聞きものという立場に立つものである。
この意味で「称即名とまきあがる」というのである。
この行巻の六字釈がなければ、
諸仏の称名と衆生の称名とが不二一体であるという意味が、
十分理解することが出来ないのではないか。
名号が称えられているのだから、
能称と所称とが不二だといわれても十分ではないが、
私の称名が単なる仏名を称するものではなく、
如来のよび声であり、本願招喚の勅命であり、
称えながら聞きものである場合でハッキリと称即名といえるのである。
それは諸仏の称名は、私にとって聞きものである。
もし私の口から出て下さる南無阿弥陀仏が如来のよび声であったら、
私の口から出るものではあるが、
私にとっては「聞きもの」である。
諸仏の称名も聞きものであり、
私の称名も聞きものであるという立場にたったとき、
はじめて純粋に「私の称名」が「諸仏の称名」と不二一体になるのである。
そこにはじめて能所不二であり、
しかも、所称の法体の名号を大行という説が成立するのである。
この意味で行信論を論ずる場合行巻の六字釈は注目すべきものではないか。
経文の引用が終わって称名破満が説かれ、
龍樹以下五祖の引用が終わった私釈に六字釈を出し
その名号によって必得往生と示されているのであるが、
この帰命釈は在来の解釈とは全く異なった解釈をほどこし、
衆生のものであるべき帰命を如来の勅命とされたのである。
これは在来の称仏名は衆生の称名であったものを、
諸仏の称名と同じく、
衆生は称えながら所聞の位で味わうべきことを示されたもののようである。
この立場で「称無碍光如来名」を理解しなければ
「称即名とまきあがる」とか
「衆生の称名がそのまま諸仏の称名と同位になる」
という意味が理解されないのである。
970 :
名無しさん@3周年:03/09/06 15:59
age
空華学轍の特色のもっともよくあらわれているものの一つは「助正論」である。
助正論は宗教生活の問題であるから、
宗教者としては大切な問題であり、
重大なものであるが、
その生活の上にも、絶対他力の思想に立つか否かで、
考え方の相違が生ずるのである。
助正論は広島において、
大瀛門下と僧叡との争いによって有名になり、
問題ともなったのであるがそれは、
報恩行に助正ありや否やということで、
大いに議論されたのである。
僧叡は弘願の報恩行に助正があり、
正業といわれるものは称名であって、
読誦等の四法は助業であると主張するに対して、
大瀛門下の人々は助正というは往生業についていうことであって
報恩行には助正の区別はなく、平等である、
助正があるというは往生の因についていうことで要門分斉であるというのである。
空華学轍はもちろん、
弘願の報恩行には助正なしという説をとるものであって、
報恩行はことごとく名号の顕現にほかならないのだというのである。
往生の因法について、
衆生の自力的なものを無限に否定する絶対他力の思想は、
報恩行についても、
仏祖の報恩の行となるべき善的なものは、
ことごとく如来回向のものであり、
回向の名号の顕現であるというのは、
その思想傾向からいって当然であろう。
第一弘願助正説において、
南無阿弥陀仏の名号が称名にしか顕れないというのは、
あまりにも名号の意味を狭くとっていないか。
もちろん、善導、法然の二師は称名に力を入れて、
念仏とは称名にかぎるものであり、
称名に最高の価値を認めて、
浄土教においては称名はもっとも価値あるものとされたが、
報恩行にまで、称名の価値だけを高く意味づける必要があるのであろうか。
名号は称名だけにしか顕現しないという思想は、
名号の意味を十分理解しているとはいえないのである。
979 :
名無しさん@3周年:03/09/06 16:30
age
名号とは「大経」によると、
その仏の徳を広く讃嘆する広讃の意味である。
経に名号の内容を明瞭に示されてあるものは、
第十八願成就文の「聞其名号」のところだけである。
その文は第十七願、第十八願成就文の
十方恒沙の諸仏如来は、
みなともに無量寿仏の威神功徳の不可思議なるを讃歎したまふ。
あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと乃至一念せん
とあるところに名号の内容が示されてあるのである。
この文によると、
名号とは十方恒沙の諸仏如来が讃嘆したもう、
無量寿仏の威神功徳の不可思議なることであり
古来「広讃」といわれるものである。
983 :
名無しさん@3周年:03/09/06 16:44
なにこれ?
984 :
名無しさん@3周年:03/09/06 16:46
もちろん、称仏名には「観経」下品に説かれる
「南無阿弥陀仏と称えるもの」もあるのである。
だから、先哲は讃嘆には広讃と略讃とあるといわれ、
少なくとも「大経」では名号とは広讃の名号となっているのである。
この意味からいえば、四十八願の中にいく度も「聞名」といわれるものは、
第十七願成就文の諸仏の広讃の名号を聞くことだというべきである。
また、宗祖は教巻において「大経」の真実教であることを
証明するために示された三論理のなかの
第三に「名号為体」の経なるが故にとある。
すなわち「大経」が真実教といわれるのは、
第一には釈尊出世本懐の経であるから、
第二には一切衆生を無条件で救う第十八願が中心の経であるから、
第三には、名号を体質とした経であるからと説かれてある。
この「名号を体とする」ということは、
その経のどの部分にも名号の行きわたった経であり、
経の全部が名号讃嘆にほかならないという意味である。
この意味からいえば、
釈尊が説かれた「大経」は、
阿弥陀如来の徳の広讃にほかならないのであるから、
私たちが読経するということは、
釈尊が名号の広讃歎をなさったのを口まねしているのだから、
略讃の称名と同じ意味だといってよいのである。
このように味わってくると、
読誦は名号の広讃であり、
称名は名号の略讃であるから同価値のものといえるのではないか。
讃歎についても同様のことがいえるのではないだろうか。
空華学轍においては、
衆生には本来善根といわれるものは、
まったくないものだと説くものであるから、
報恩行という善的なものも、
私の本有のものではなく、
如来回向の名号が微々としてあらわれるものだと説くのである。
だから、称える称名はもちろん、
おがむ手も、
うなずく頭も、
ことごとく如来回向の名号の顕われであるというのである。
したがって、報恩行としては、
同じく名号の顕現であるから、
いずれの行も同一の価値で主伴をつくべきではないと説くのである。
弘願助正では、称名だけが名号の顕現であって、
読誦・観察・礼拝・讃嘆供養は、
如来回向の名号のあらわれた称名に随伴して、
人間の本来有したものがあらわれるので、
名号の顕現は、ただ称名にかぎるものであり、
読誦等は名号のあらわれではないと主張するのであるから、
名号の広讃を許さないことになるのである。
南無阿弥陀仏の名号には、
そんなせまい限界をつけなければならないものだろうか。
蓮如上人が「御一代記聞書」に
万事につきて、よきことを思ひつくるは御恩なり、
悪しきことだに思ひ捨てたるは御恩なり。
捨つるも取るもいづれもいづれも御恩なり
とある。
この場合の御恩というは「お恵み」の意味である。
だから、この文は、人間の一切の止悪も作善もことごとく
如来のお恵みだと教えられるものである。
また同じく「聞書」には
丹後法眼衣装ととのへられ、前々住上人の御前に伺候候ひしとき、
仰せられ候ふ。
衣のえりを御たたきありて、南無阿弥陀仏よと仰せられ候ふ。
また前住上人は御たたみをたたかれ、
南無阿弥陀仏にもたれたるよし仰せられ候ひき。
南無阿弥陀仏に身をばまるめたると仰せられ候ふと符合申し候
とある。
蓮如上人は、しばしば自分の所有する者に対して
「如来の御用物」とか
「如来聖人よりたまわりたるもの」と申されているが、
それがさらに深化すると南無阿弥陀仏の具体的なあらわれで
あると考えられていたようである。
それがお衣を南無阿弥陀仏といい
畳を南無阿弥陀仏といい、
自分の周囲をとりまくものはすべて
南無阿弥陀仏であると考えられていたのである。
この蓮如上人の教示からいえば
名号は略讃の称名となってあらわれるはもちろん、
広讃の讃歎として現れるだけではなく、
私を生かしめるための、
あらゆる物として顕現するものであるといえるのである。
だから、拝む手も、称える口も南無阿弥陀仏といった
先哲の言葉もうなずけるのである。
1001 :
1001:
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。