●ろんぎぬすスレッド8■

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>468 :もとぴ :02/12/09 20:30
>「信仰」という語を用いる場合には、「信じる対象」は、「礼拝する対象」でもある、「神」のみ。
>一方、「信じる」は、「神」だけでなく、人物や事物など、広い対象にも使う。
>私は、「神の三位一体性」を、信じています。 (>>65
>「私は、三位一体を信仰する」 と 告白するのは、私は、ヘンだと思う。

 ようは「信仰」という熟語を「神」のみに使用を限定するなら、
神を「信仰」し、三位一体性を「信じて」いるという表現に直すんだろ。
「キリスト」を「信仰」して、父なる「神」に義と認められる。って以前の表現は、
「キリスト」を「信じて」、父なる神の義を「信仰」する。って表現に改めないのかね。
もとぴサン自身のコノ一連の発言は、自分でドウ説明するんだ。

>469 :もとぴ :02/12/09 20:34
>「三位一体の神を、信仰する。」
>それはいかがなものか、

イカガも何も、三位一体の神を「信じる」。という表現に直すのなら納得してくれるんだろ。

 言葉尻を捉えた、聖伝の裏付けや内容のない馬鹿な会話になってしまった。
禅宗や唯識論の用語では「嘘(ウソ)虚仮(こけ)戯論(けろん)だ。」と虚しく表現する。
空の空、虚しい。。。と伝道の書・コヘレトの言葉でも読んで、酒でも飲むカモ。
>469 :もとぴ :02/12/09 20:34
>現在は聖書が普及し、聖書を自由に読むことができます。

だから、普及した聖書研究会・聖書同好会・聖書マニアって言ったんだよ。

 聖伝(多数の使徒書簡や福音書や黙示録など)から、聖書66巻を選抜したのはキリスト教会。
キリスト教会に毎週通って一教区に属してこそキリスト教徒。

 その教会所属を抜きに、聖書を個人が辞書を引きながら語るのは、
受験用の「論語」や「孟子」を「漢和辞典」を引きながら語って「儒教をしている」と、
言っているような者のようだ。
それは孔子廟のお祈りや捧げ物の仕方が分からないのに儒教だという程におかしな事だ。
また「般若心経」や「観音経」だけ唱えて「仏教用語辞典」を引いて理解して、
「加持祈祷」で「山伏」に願い事をする者を「仏教徒」という者のようだ。
しかし本当は、仏門に帰依するのに「坊主」から「在家の受戒」を受けて仏教徒になるものだ。
仏教徒でない「無宗教の神社通いの人」だって、「祝詞に付随」する般若心経は唱えられものだ。

 だから私は言う、
キリストや神や聖霊を信じて、冠婚葬祭を一緒にする共同体がキリスト教会で、
そのキリスト教会に属する人達がキリスト教信徒なんだよ。
 聖書が権威で絶対という癖に、
肝心の聖書の原典の巻物の数は限定的でないよね。
新約27巻と決めたのは、キリスト教会の4世紀の会議の権威によってだった。
 シナイの教会の修道院の写本には、
バルナバの手紙もヘルマスの牧者など含まれていて、新約聖書は29巻もあり、
バチカン図書館には、ヨハネの黙示録もテモテの2書もフィレモンなど欠落した写本で、
新約聖書は23巻にもならない代物だった。
 一括りの書物の巻数に変動があるのは、各々の書物は選抜以前からあったにしても、
新約聖書27巻という「単独の文集」は元々なかった事を意味する。

 本当に馬鹿見ちゃったよ。
ネストレとかシナイ・ベザ(エ)・ビザンチン写本も質問箇所の説明も、
辞書的にコピペを長々としたのにねぇ。
写本の中身や位置づけとか、中身を分かってんのかね。。。
 しっかし、エラスムス先生も悪いお人だ。いかがわしい印刷屋とグルになって、
バチカンに気付かないよう各地の写本の断片をカキ集めて、
無い所はラテン語からギリシア語に逆翻訳して、
怪しい「写本」集を「ビザンチン渡来の由緒物です」ってやって、しこたま儲けたんだろうなぁ。
あこぎな商売しよる。その印刷屋。。。
 「ビザンツ」って英単語は「怪し気な物」とか「そんな陰謀な」って代名詞だし。
まあ、どの宗教にもありがちな「怪しい商売」だが。
>43
× バチカンに気付かないよう各地の写本の断片をカキ集めて、
○ バチカンに気付かれないように各地の写本の断片をカキ集めて、
☆もとぴさんと一緒に聖書を解釈しよう☆
>470

☆もとぴさんと一緒に聖書を解釈しよう☆
426 :ろんぎぬす ◆/UlxLqTUjM :02/12/02 21:13
>65 :もとぴ  :02/10/18 20:27
>・イエスは、父から生まれ、神の本質・本性を持っておられる。
>・イエスは、マリアから生まれ、人の本質・本性を持っておられる。
>424 :もとぴ :02/12/02 20:00
>ところで、、、 「キリストの二性一人格」て、何?
>>371の、どの部分が、「キリストの二性一人格」についてのカキコなの?
>キリストという人格には「神性」と「人性」がある、ということなのかな?
「カルケドン信条(正教HPからカトリック聖職者の訳)」
(百瀬訳)http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Namiki/1125/symbol/kato.html#karumo
(磯辺訳)http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Namiki/1125/symbol/pro.html#karu
神性においては父と同一本質であり、
人性においてはわれらと同質にして、、罪を除くすべてにおいてわれらと等しい。
神性においてはあらゆる世に先立って父より生まれ、
人性においてはこの終わりの世に、われらのためまたわれらの救いのために、
神の母(テオトコス・生神女)なる処女マリアより生まれた。
●ろんぎぬすの専用スレッド7■
>36 :ろんぎぬす ◆/UlxLqTUjM :02/11/04 20:42
>・・・キリストの受肉の解釈・・・
>動物には、人間特有の「道徳を知覚し理性」が存在する霊はなく、魂と肉体だけの生き物である。
>マリヤは、霊(神)魂(人)肉体(人)を生んだ(アポリナリオス異端説)のではなく、
>マリヤは、霊(神のロゴス・人)魂(神のロゴス・人)肉体(神のロゴス・人)を生んだ。
>肉体には復活ゆえに人にはない神性があり、霊には神にはない原罪の贖罪ゆえに人性が存在した。
>マリヤは、子の側面の神格を生んだので、神を・生みし者(テオ・トコス)と称した。